30
◇
「——いやあああああああ!」
突然の悲鳴に可憐と万妃、二人の動きが止まった。
路地裏の奥。ここからでは何が起きたのか判断することができない。悲鳴は一つでは終わらなかった。いくつもの叫び声が表通りの方から聞こえてくる。
可憐はちら、と路地裏の出入り口の方を振り返ると、万妃に視線を向けた。万妃は頷いて、可憐を抱え上げて地面を蹴る。二人が向かったのは近くのビルの屋上。何が起きているのか、想像もできないまま二人は屋上から街を見下ろした。
「っ、なんですか、あれ」
眼下に広がる街。逃げ惑う人々の中に、複数の黒い何かが存在しているのが目に入る。一体アレはなんなのか。何をしているのか。二人の疑問はすぐに解消される。ふよふよと浮遊する黒い何かが、近くにいた人間を飲み込んだのだ。一口で飲み込まれる人。頭を噛みちぎられる人。手足を噛み砕かれる人。悲鳴が上がる。助けてくれと叫ぶ声が聞こえる。泣き叫ぶ人々の声が街を埋め尽くす。
どうやら黒い何かは片っ端から人々を捕食しているらしい。人々は必死に逃げようとしているが、街から離れることもできず、建物に駆け込むことすらできず、片っ端から黒い球体に食べられていく。黒い何かは街中に存在している。まさか、と。万妃は隣のビルへと目をやる。中には街の様子を怯えたように眺める人々の姿。今のところ、建物の内部は安全なようだった。そのことに安堵しつつも、万妃の内心は穏やかではない。外にいる人々はこのままではみんなあの球体に喰べられてしまうだろう。建物の中だって、ずっと安全であるという保証はどこにもない。
「あ、血分せんぱい、あれ」
ゆら、と可憐の指が何かを指す。その手は小さく震えていた。可憐の視線の先には、見知った少女の姿があった。
「——かなめ?」
だがその姿が、様子がおかしい。こめかみのあたりから伸びる黒い角。肩よりも少し長い程度だった髪は今は腰のあたりにまで伸びている。目を凝らせば、ぎりぎりかなめの表情まで見ることができた。ぼんやりとした様子のかなめ。意識はしっかりしていないように見える。日本人らしく黒く綺麗な色をしていた瞳は、真っ赤に染まっていた。
「っ」
ぴり、と可憐の纏う空気が引き締まる。可憐の視線はかなめから、別の場所へと移動していた。何を見たのかと聞きかけて、万妃の目にもその人物の姿が映る。ハーフアップにまとめられた金髪に、妖しく光る翠の瞳。伴場楽美が、のんびりとした足取りで街を歩いていた。
「……わたしはあいつのところに行きまーす。きっとこれは、あいつが引き起こしたことでしょうからー。だから」
可憐の両手が握りしめられる。ぎゅっと固く閉じられた手は、小刻みに震えていた。
「九季せんぱいをお願いします、血分せんぱい」
翠の瞳が真っ直ぐに、万妃に向けられる。
「何がどうなっているかわからないけど、それでもとにかく九季せんぱいを」
助けてください、と。真剣な瞳で、可憐は万妃に懇願した。
「わかってる」
頷いて、万妃は下へと降りようと身体を動かしかける。けれど一歩踏み出そうとしたところで、万妃は動きを止めた。そのまま、可憐にわずかに視線を向けて、万妃は口を開く。
「……気をつけろよ、可憐」
純粋な、心配の言葉。可憐は小さく目を見開いたものの、万妃の言葉にしっかりと頷いた。
それを確認して、万妃はとん、と床を蹴る。ふわりと空中に万妃の身体が浮いた。浮遊感は一瞬だけ。すぐに地面に引き寄せられる感覚が身体を襲う。引力に身を任せながら、万妃は自身の腕に噛み付いた。勢いよく流れ出る血液。万妃が手を伸ばせば、宙に舞った血液はするすると形を変えて万妃の手に収まる。紅い槍が、ビルの明かりに照らされて鈍く光った。
落下の勢いに身を任せて、真下に浮いていた球体に槍を突き刺す。びしゃりと紅黒い液体が真っ二つに割れた球体から飛び散る。割れた球体はごとりと地面に転がり落ちて、すぐにどろりと溶けてしまった。
かなめの姿は数メートル先。そこまでの間にはいくつも黒い球体が浮かんでいる。ふよふよと浮かぶ球体たちは万妃に気がついたのか、がぱりと口を開けて一斉に近寄ってくる。
薙ぎ払うように槍を動かして球体を切り裂く。球体の強度は高くないのか、軽く引っ掻いただけで簡単に切れてしまった。ぼとぼとと地面に落ちる音。溶けかけた球体を踏みつけて、万妃はかなめのもとへと駆け寄る。その最中も、球体たちは万妃に近寄ってきていた。それらを軽く切り裂きながら、万妃はあっさりとかなめとの距離を詰めていく。
かなめの正面に人影が見えた。青い顔をして大きく震えながら、手足をバタバタと動かして後退する男性の姿。かなめはその男性の前でぴたりと立ち止まる。動きを止めたかなめと怯える男性の間に、黒い球体が現れたのが目に入った。
「かなめ!」
万妃の呼びかけに、かなめは振り返らない。駆け寄った万妃はかなめの腕を掴んで無理矢理振り向かせる。ぼんやりとした赤い瞳。あ、と開けられた口の中には鋭い犬歯。はっと気がつけば、目の前の球体もかなめと同じく大きく口を開けていた。
「しま」
まずいと思った時にはもう遅い。かなめが口を閉じる。それと同時に、男性の頭が噛みちぎられた。頭を失った身体がぐらりと揺れて地面に転がる。かなめは閉じた口をもぐもぐと動かして何かを噛み砕く。その動きに合わせて、球体からはごりごりと飲み込んだ男性の頭を噛み砕く音が聞こえていた。
「かな」
め、ともう一度声をかけようとしたところで、かなめの口が再び開かれる。ぞわりとした感覚。振り向けば、黒い球体が大きく口を開けて万妃の頭を飲み込もうとしていた。
「ちっ、くそ!」
かなめの腕から手を離し、黒い球体を薙ぎ払う。ぴしっ、と生暖かい液体が万妃の頬に飛び散った。
また、ごりごりと何かを噛み砕く音が耳に入る。見れば、地面に転がっていた男性の身体が球体に飲み込まれていっていた。あれはもう助けられない。潔く諦めて、万妃はかなめに視線を向ける。がぱりと、かなめの口が開かれた。同時に、万妃を取り囲むように複数の黒い球体が出現する。
「おい、しっかりしやがれ、かなめ!」
声をかけながら、万妃は自身の周りに現れた球体を破壊し続ける。地面は溶け落ちた球体だったものでどろどろ。白い肌にも金の髪にも、球体から飛び散った紅黒い液体がべっとりと付着している。切っても切っても球体の出現は止まらない。かなめが正気に戻る様子はない。呼びかけにも反応はない。
どうするべきか。放っておけば被害は広がるばかり。一刻も早くかなめを止めなければならない。でも、どうやって。
「……ちっ」
……かなめならば、耐えられるはずだ。耐えてくれと、そう願いながら万妃は槍をかなめの横腹に投げつけた。
紅い槍がかなめの横腹を貫通する。びしゃ、と紅い液体が周囲に飛び散った。槍の勢いに巻き込まれてかなめの身体が後ろへ飛ぶ。力を失った身体が、地面に倒れた。
「かなめ!」
無事を願いながら、万妃はかなめのもとへと駆け寄る。赤い目が、じわじわと本来の黒い色へと染まり始めていた。ひゅうひゅうと息を吐きながら、頭が動かされる。
焦点の合わない瞳が、万妃に向けられた。
「——ばん、ひ?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます