31
◇
「——ばん、ひ?」
ぐらぐらと揺れる視界が、次第にはっきりとしていく。目の前には真っ青な顔で私を見つめる万妃の姿。どうしたのと声を上げようとして、横腹が熱く、激しく痛む。視線を落とせば、私の左脇腹がわずかに抉れているのが目に入った。服は引きちぎれて、傷口からはどくどくと紅い液体が漏れ出している。
どうしてこんなことに、なんて呑気に考えかけて、自分の腹がやけに満たされていることに気がついた。食べ物をお腹いっぱい食べた時とは異なる満足感。この感覚には、覚えがある。これは、これは五年前のあの日に感じたものと同じだ。
それはつまり、また、私はまた、あの日と同じことをしたと、人を喰べてしまったと、いうこと、で。
「あ、あ、あ——あああああ!」
違う。そんなのは違う。私はそんなこと望んでなかった。私はそんなことしたくなかった。したいわけがない。人間なんて喰べたくない。喰べたくなかった。なのに、なのに私はまた、五年前と同じように、あの日と同じようにみんなを——。
「おい、落ち着け」
万妃が私の目の前にしゃがみ込む。私が何をしたのかを知っているくせに、万妃は私に心配そうな瞳を向けた。
「一体何があったんだ」
何。何って。
「伴場、先生が。先生が私に、薬を飲ませたの。私、それだけで」
「わかった。アイツのせいなんだな? なら、かなめは」
悪くないと、言ってくれようとしたのだろう。そう言おうとした万妃は私からわずかに視線を逸らしている。その言葉は誤魔化しでしかないとわかっているからだろう。言い淀む万妃に、私は首を振った。
「違う、違うの。伴場先生が私に飲ませたのは、ただお腹が空くだけの薬。あれはただ、空腹感を感じさせるだけのもの」
能力を発現させるようなものでなければ、毒ですらない。本当にただ、お腹が空いていると感じさせるだけの無害な薬だ。それは、実際に飲まされた私がよくわかっている。
「私は、私はそれだけで、ただお腹が空いただけで自分がコントロールできなくなってしまう。そんなことで、みんなを喰べてしまった。今日だって、五年前だって——」
五年前のあの日も、そうだった。
じわじわと視界が滲んでいく。息苦しくて、服の襟元を握りしめた。
「面倒だって、眠たいからってご飯を食べずに寝たから、ただそれだけで、ただお腹が空いただけで私はたくさんの人を喰べた。喰べてしまった。本当にそんな些細なことがきっかけで、私はみんなを殺したの」
堪えきれなくなって、目から涙がこぼれ落ちた。一度こぼれた涙は止まらない。ぼたぼたと生暖かい液体が目から落ち続ける。
「っ、万妃」
ぴくりと、万妃の身体が動く。万妃の瞳は私に向けられていない。ただ歯を食いしばって、暗い顔をして地面を見つめている。
「もう、どうするべきかわかるでしょ?」
簡単なことで暴走してしまう化け物。多くの人を喰い殺した化け物。生かしておけば、これから先も多くの犠牲を出すであろう化け物。それが私。それが私の正体だ。
なら、万妃がどうするべきかなんて考えるまでもない。迷う必要なんてない。悩む理由なんて、ない。
けれど万妃は、俯いたまま。
「ねえ、ば——」
がた、と。
物音に、万妃がハッとして顔を上げる。それに続いて、私も物音がした方へと顔を向けた。
「——秋菜」
そこにいたのは、私が最も正体を、真実を知られたくない相手だった。
怯えたような瞳で、茫然とした様子で秋菜は私たちを見つめている。ぐらぐらと大きく揺れる瞳。かたかたと小さく震えている身体。口を開きかけて、閉じて、そうしてまた開いて。
「かなめが、犯人なの?」
そうして、震える声でそう訊ねた。
「かなめが、お父さんとお母さんを殺した、の?」
一生言うつもりはなかった——言わない方が、きっと秋菜を傷つけずに済むと思っていたから。
知られたくなかった——だって知られてしまえば、私はその怒りを、憎悪を受け止めなければならなくなるから。
認めたく、なかった——自分こそがみんなを殺したのだと、心の底から、本当に認めてしまえば私はその重さに、罪の重さに耐えきれなくなるから。
でも、もう逃げられない。
それでも答えることができなくて、私は黙って俯いてしまった。
「っ、かなめ、なんとか言ってよ!」
秋菜の叫び声が街に消えていく。私は、顔を上げることすらできず。
「…………ごめん」
ただ、その言葉を絞り出すことしかできなかった。
「——っ」
たっ、と駆け出す足音。足音は私たちから遠ざかっていく。追いかけることはできない。追いかけたところで何を言えばいいというのか。そもそも追いかける資格なんてない。私なんかに言えることなんて、何もない。できることなんて、一つもない。
「あら、バレちゃったのねェ」
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