32
ねっとりと、まとわりつくような声。カツン、と。硬い地面を蹴る音が響く。
顔を上げれば、伴場先生が私たちの方へと近づいてきていた。動くことはできない。たとえ危害を加えられるのだとしても、もう抵抗する意思もない。助かる必要は、資格はない。
それなのに、万妃は伴場先生から私を庇うように前に出た。その手に握られた槍の先は、伴場先生に向けられている。
「九季かなめは
にたりと、愉快そうに伴場先生は口元を歪める。翠の瞳は、真っ直ぐに私に向けられていた。絡みつくような視線。逃すつもりはないとでも言いたげなその視線が、私の身体にまとわりつく。
「でもォ、それならその態度はナイんじゃナイ、万妃ちゃん?」
紅い槍が、わずかに震えた。
「かなめちゃんを守るのは、正しくないんじゃないかしらァ」
カツンと、伴場先生が私たちに近づく。万妃の纏う雰囲気が引き絞られる。棘のある雰囲気を気にする様子もなく、伴場先生はただ楽しそうに私たちを見つめていた。
「かなめをどうするつもりだ」
万妃の問いかけに、伴場先生は一瞬だけ呆れたような表情を見せる。けれどすぐに、もとの不気味な笑みへと戻ってしまった。
「ちょぉっと血と肉が欲しいだけよォ。悪神を喰らった者の末裔。その力で、可憐ちゃんを作り替えてあげようと思って」
はあ? と万妃は嫌悪感に満ちた声を漏らす。
「アンタそれ、本気で言ってるのか? そんなの上手くいくわけがない。アタシの血とはわけが違うんだから」
「あら、そんなのやってみなくちゃわからないじゃナイ」
すっと、伴場先生が細い指を自身の口元に近づける。伴場先生が指先をかぷりと噛むと、傷口からはぽたぽたと血液がこぼれ落ちた。地面へと垂れ落ちた血液はするりと形を変えて。
「ちょぉっと、痛いわよォ」
細長い槍へと、変化した。
「なるほどな。やっぱりアンタもアタシの血を飲んでたわけだ」
万妃の言葉に、伴場先生はクスリと笑みをこぼす。
「当たり前じゃナイ。可憐ちゃんとずぅっと一緒にいるため。そのためならあたしは化け物の血だって飲むし、化け物そのものにだってなるわ」
腰に手を当てて妖しく微笑む伴場先生。風に吹かれて、細い金の髪がさらさらと揺れた。
「ま、あたしは可憐ちゃんと違って万妃ちゃんに近い存在。確かに化け物ではあるけれど、まだ人間らしく生きられる化け物。あたしと万妃ちゃんの血、相性が良かったみたいねェ」
張り付いたような笑み。伴場先生の口の端が吊り上がる。その笑顔に、明らかに万妃の纏う空気が悪くなる。刺々しさを増したその空気に、伴場先生はますます愉快そうな顔をするだけだった。
「はっ、最悪だな」
「そう? いいじゃない。仲良くしましョ、万妃ちゃん!」
伴場先生が万妃目掛けて槍を放つ。伴場先生の手から槍が離れた瞬間、万妃は地面を蹴って駆け出していた。飛んできた槍を避けて、万妃は伴場先生に近づく。真っ直ぐに突き出された槍は、けれど伴場先生の身体を貫くことはなかった。伴場先生の指先から漏れていた血液が、するりと万妃の足首に巻きつく。伴場先生が指を動かせば、その動きに合わせて万妃の身体が投げ飛ばされた。地面にぶつかる寸前、万妃は槍で足に絡みついた血を断ち切る。そのままぐるりと身体を回転させて、万妃は体勢を立て直した。
だが一息つく暇はない。顔を上げた万妃の目の前には複数の細い槍が迫っていた。キラ、と紅い槍が光る。槍が瞳を貫く間際、万妃は地面を蹴って空中へと跳び上がった。ふわりと金の髪が浮かび上がる。宙に舞った万妃は槍を持ち直して伴場先生の頭上へと落下を始めた。伴場先生の右手が静かに持ち上げられる。伴場先生の頭上に現れたのは紅い盾。落下する万妃は勢いそのまま槍を盾へと突き立てた。大きなヒビが入ったものの、盾を破壊することはできない。突き刺さったままの槍から手を離して、万妃は伴場先生と距離を取った。万妃の手から離された槍は、とろりと溶けてなくなってしまう。盾からこぼれて、ぽたぽたと紅い液体が地面に落ちた。
「アンタは一体何がしたいんだ!」
当然の疑問に、伴場先生はただいつも通りの粘着質な笑みを万妃に向ける。
「別にィ? あたしはただ可憐ちゃんと仲良く暮らしたいだけ。ずうっと、永遠にねェ」
盾が溶け落ちた。地面に落ちた血液はぐにょぐにょと不気味に蠢いて、複数の槍へと姿を変える。いくつもの槍が、伴場先生の周囲に浮かび上がった。槍の先は全て万妃に向けられている。
「そんなことのために不老不死なんかになろうとしたのか!」
「——そんな、こと?」
ぴくりと、伴場先生の眉が動く。笑顔は崩れない。けれど、伴場先生を包む空気が鋭いものへと変わっていく。
「永遠に一緒にいることは、そんなこと、なんかじゃないわよ。ずっと一緒にいるなんて、永遠に生きられるなんて誰もが憧れる夢でしョ? 永遠の幸せなんて、望んで当然でしョ」
「んなわけあるか!」
万妃の声に、伴場先生の瞳が驚いたように見開かれた。
「そりゃ、永遠に生きられない人間からすればそうかもしれない。けどアタシはそんなのはごめんだ! いつまでも終わらない人生なんて幸福には程遠い。永遠に生き続けるなんて、そんなのは拷問でしかない」
すっと、伴場先生の周囲の気温が下がったような気がした。冷たい翠の瞳が、万妃を見つめる。
「そう? なら、死なせてあげるけど」
伴場先生の周囲に展開されていた槍が一斉に放たれる。万妃は腕で槍を弾き飛ばしたものの、全てを捌ききることはできず、いくつかの槍は万妃の腕を掠めたり足に突き刺さったりしていた。
万妃の身体から吹き出した血液が、槍となって万妃の手に収まる。万妃を通り過ぎた伴場先生の槍は、くるりと方向を変えて再び万妃を貫こうと動き出していた。
「大体、可憐の気持ちはどうなんだよ!」
飛んできた凶器たちを、万妃はぐるりと自身の槍を回して弾き飛ばす。万妃の槍に弾き飛ばされた伴場先生の槍は、からん、と地面に転がり落ちた。
「っ、そんなの、死にたくないに決まってるでしョ。だって可憐ちゃんは普通の女の子だもの。人間なら、誰だって死にたくないって願うはず。可憐ちゃんだって、そうに決まってるじゃナイ」
わずかに、伴場先生が後ずさった。翠の瞳は小さく揺れ動いている。
「そう、そうよ。だって今度は、可憐ちゃんは死なせない。あの人の時は間に合わなかったけど、可憐ちゃんは、可憐ちゃんだけはなんとか、だから、だから——」
地面に転がり落ちた槍がとろりと溶けて紅い水溜りができあがる。どろどろに溶けた液体は、ゆっくりと万妃の足元へと近づいていた。
「そうよ、そう、十年前とは違う。今度は失敗しない。間違えない。あの時は血しか取れなくて、不完全なお薬しか作れなかったけど、今度は、今度は肉も、悪神だって」
「……やっぱり、アンタが」
ええ、と震えていた翠の瞳が万妃に向けられる。
「十年前はお世話になったわァ、万妃ちゃん。あなたの血のおかげで、可憐ちゃんを助けることができた。でも」
万妃がわずかに足を動かす。びしゃ、と液体が飛び散った。万妃は小さく舌打ちをして、液体から逃げるように跳び上がる。その直後。万妃が立っていた場所に無数の鋭い針が突き出された。針は伸びて伸びて、跳び上がった万妃を貫こうとしている。万妃は針の先を足で蹴飛ばすと、空中で回転して汚れていない地面へと着地した。
「でも、失敗だった。あんなの、成功だなんて言えない。だって可憐ちゃんはまだ、不老不死になれていない。それじゃダメなの。だから、だから今度はお肉も貰うわ。血だけじゃ足りない。でもお肉があれば、きっと階級を上げることができる。でも万妃ちゃんだけじゃない」
ぞわりと、全身に鳥肌が立つ。翠の瞳が、刺すような視線が私に向けられる。
「かなめちゃんだって、必要よォ?」
鋭い視線に、思わず一歩後ずさる。何がおかしいのか、伴場先生はふふ、と小さく笑った。
「悪神の魔喰いの力は強力。なんて言ったって神様を喰らった者の末裔だものねェ。万妃ちゃんのお肉だけでもいいけど、絶対に成功するとは限らない。万が一、ってこともある。それに可憐ちゃんには強く、丈夫になってほしいもの。万妃ちゃんのお肉と可憐ちゃんの血肉。その両方を喰べれば、少なくとも生きるために、栄養摂取のために人間を喰べ続ける必要はなくなる。今度こそ死なない身体に、不老不死になれるはず」
翠の瞳はじっと私を見つめている。ただ見られているだけ。なのに、恐怖心が心を支配する。逃げ出したくてたまらないのに、身体は震えるだけで少しも動かない。
ひゅ、と。一本の槍が私の横を通り過ぎた。伴場先生の手から放たれたそれは、私を貫くことなく、傷つけることすらなく通り過ぎた。伴場先生の視線が、わずかに下がる。見ているのは私の横腹。とっくに血が止まった傷口。
「それにしても、そんな大怪我をしても意識があるなんて。かなめちゃんってば、本当に化け物みたいねェ。そんな子を守る必要なんてないんじゃナイ、万妃ちゃん?」
地面から飛び出た鋭い針。ぐにゃりと形を変えて、それらは空中へと浮かびあがる。細かな球体へと変化したそれは上空へと昇っていく。そうして、ぱしんと音を立てて破裂。飛び散った血液は鋭い刃となって、私と万妃に降り注いだ。頭上にびっしりと並ぶ細かな、けれども鋭い凶器たち。万妃は一瞬目を見開くと、私の方へと駆け出す。あっという間に私の前へと来ると、万妃は槍を放り投げた。私たちの頭上に、紅い盾が現れる。けれどそれでは刃の雨を防ぎきることはできなかった。盾にはいくつか穴が開いて、その穴から細かな破片が万妃へと降り注ぐ。万妃は呻き声を上げつつも、私を庇うように前に出たまま動かない。
「不思議ねェ。どうしてかなめちゃんを庇うの? その子はただの人殺し。ただの化け物なのに。ねえ万妃ちゃん、かなめちゃんを庇う理由なんて、ナイでしョ?」
盾がぐしゃりと音を立てて崩れ落ちた。溶け落ちた血液は再び槍の形へと戻り、万妃の手に収まる。
地面を蹴って、万妃が跳び上がった。翠の瞳がそれを追う。地面に散らばっていた細かな破片が、紅い液体へと形を変える。紅い液体はぶわりと舞い上がって、万妃を包み込もうとしていた。
「ちっ」
危険を察知したらしい万妃は自身にまとわりつこうとしている血液を振り払おうとする。薙ぎ払うように槍を動かすが、万妃はあっけなく紅い波に飲み込まれてしまった。
大きな玉のようになった血液から、ごしゃ、と音を立てて複数の棘のようなものが発生する。棘の先からは艶のある紅い液体が滴り落ちていた。
それを見て、伴場先生はニタリと笑う。これでおしまい、とでも言いたげに。
けれど。
「! そう。まだ動けるのねェ」
棘の生えた球体が真っ二つに割れる。中から飛び出した万妃は、ふらつきながらも地面に着地した。その身体は紅い液体でべっとりと汚れていて、服はところどころ破れてしまっている。
ゆっくりと、万妃は立ちあがろうと身体を動かす。けれど、起きあがろうとした万妃の身体は横から衝撃を加えられて地面に転がった。伴場先生が万妃の腹を蹴飛ばしたのだ。槍は万妃の手から離れて、からんころんと音を立てて転がっていく。倒れた万妃に、ゆっくりと伴場先生が近づいていた。
伴場先生の手には、細く鋭い槍。
駄目。それは駄目だ。
なんでって、それじゃあ万妃が——いや、違う。
もちろんそれだって理由の一つだ。けど本当の理由は違うものであることくらい、ちゃんとわかっている。自分の思考回路くらい、ちゃんと理解している。
恐怖で動けなかった身体が、自然と動き出す。うん。これなら間に合う。
理由はただ一つ。今この瞬間万妃の目の前に飛び出せば、私が死ねるとわかっているから。
だからこの身体は、自然に動いた。
「——は?」
間抜けな声が耳に入った。
それと同時に、鋭い痛みを感じる。お腹の真ん中が熱くて、焼けるように痛い。私を貫いた槍の持ち主は、翠の瞳を愉快そうに歪めていた。
「か、なめ。なんで」
万妃の表情はわからない。力が抜けて、ぐら、と身体が揺れる。倒れかけたところを踏ん張って、わずかに顔を後ろに向けた。
万妃は予想通り、大きく目を見開いて、信じられないものを見るような瞳でわたしを見つめていた。
「……うん。私ね、本当は知ってたんだ」
気がつかないわけがない。万妃は隠してるつもりだったのもしれないけど、私の嗅覚は誤魔化せない。
「万妃が魔喰いだってことも。万妃が私のことを、監視してたことも。全部、知ってたよ」
ずっと知っていた。万妃が私と同じ魔喰いであることくらい、初めて万妃を見かけたあの日からずっとわかっていた。万妃が五年前の事件の犯人を探していたことだって、万妃が私をずっと見ていたことだって、知っていた。知っていて、ずっと気がつかないふりをしていた。
「私ね、本当はずっと、万妃に殺してほしかった」
何かが喉を迫り上がってくる感覚。咳き込むと、口の端から鉄の味がする液体が流れ落ちた。
「なに、バカなこと」
万妃は力の抜けた声を漏らす。アメジストの瞳はぐらぐらと大きく揺れ動いていた。
「だってさ、生きてちゃいけない、でしょ。私みたいな、化け物。だから、私はずっと、万妃に」
万妃の顔が歪んでいく。
だけどこれが私の本心。私が万妃に近づいた理由。私の、願い。
「ごめ、んね、万妃。ああ、でも、これで、よかっ、た、のかな。万妃の手を、汚さずに」
すんで、と。もう消えそうな声を漏らす。視界はじわじわと暗くなり始めていて、もう万妃の表情はよく見えなかった。
ずるりと、腹部に刺さっていたものが抜き取られる。その感触に、意識が一瞬引き戻された。見下ろせば、腹に開いた穴からはどくどくと紅い血が漏れ出しているのが目に入る。手足に力が入らなくて、もう立っていられなくて。私の身体は呆気なく前へと倒れた。
——ああ、これで、やっと。
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