24

 しまった。万妃との時間を楽しむあまり、空腹を気にすることを忘れていた。


「っ、万妃、そろそろ夜ご飯食べない? 私、お腹空いてきちゃった」


 焦って声をかけると、万妃は少しだけ驚いたような——しまった、と思っているような顔をした。けれどすぐに、その表情は何でもないものへと戻る。


「あ、ああ、そうだな。よし、フードコートに行くか」


 少しだけ早足でフードコートへと向かう。万妃は私が焦っていることに気がついているのか、黙って私の速度に合わせて歩いてくれていた。

 腕時計を見れば時刻は七時過ぎ。夜ご飯を食べるのにはちょうど良い時間だ。考えることはみんな同じなのか、フードコートには夕食を食べにやって来た人々の姿がそれなりにあった。それでも席にはまだまだ余裕がある。席を確保するのは注文してからでも良いだろう。


「万妃、何食べる?」


 フードコートにはたくさんのお店が並んでいた。ラーメンやうどん、カレーにオムライス、それからハンバーガーや丼まで。どれも美味しそうだけど、せっかくなら万妃と同じ物を食べたい。そう思って訊ねると、万妃は迷わずハンバーガーショップを指さした。


「ハンバーガーかな。かなめは?」

「じゃあ私もそうする」

「ん、なら奢るよ。どれがいい? 注文してくるから」


 いいよ、と言いかけると万妃は報酬だから、と笑った。仕方なく受け入れて、チーズバーガーのセットをお願いする。万妃は頷いて注文カウンターへと向かって行った。それを見送って、適当な席へと座る。

 空腹感は強くはない。それでもやっぱり、不安は拭えない。いつ何が起こるかなんて、誰にもわからないのだ。お菓子で誤魔化すべきか悩んでいると、コツコツと足音を鳴らして万妃が戻ってきた。両手には私の分と万妃の分のお盆。


「ほい、かなめの分」


 ことり、と私の前にお盆が置かれる。万妃のお盆を見れば、どうやら万妃も私と同じものを頼んだらしかった。


「ありがとう、万妃。いただきます」

「いいえ。いただきます」


 焦らないように気をつけながら包装を剥ぐ。紙の包みを開ければ、食欲をそそる良い香りが漂ってきた。一口頬張ってみれば、安っぽくはあるものの、決して不味くはない味が口の中に広がる。柔らかいパンとシャキシャキとしたレタス。ハンバーグはジューシーで、とろりと溶けた濃い味のチーズが美味しい。

 一口食べるともう一口、もう一口と食べたくなる味。絶賛するような美味しさではないけど、たまに無性に食べたくなるような中毒性がある。

 時折ハンバーガーから手を離してポテトやコーラを口に含む。ポテトは外はカリッと、中はほくほくとしていてとても美味しい。塩味がちょうど良くて、次々に口に運んでしまう。コーラは一気に飲むことはないものの、甘味と炭酸のシュワシュワ感が喉に心地よい。

 食事をしていると、一瞬脳裏に昨夜の夢がよぎる。手が止まりそうになったのを、無理矢理動かして食べ物を口に運んだ。顔を上げて目の前に座る万妃を見る。万妃は美味しそうにハンバーガーを食べていた。それを見て、少しだけ安心する。大丈夫。今は大丈夫。これはちゃんと、食べ物だから。

 と、私が見ていることに気がついた万妃が顔を上げてこちらを見る。アメジストの瞳が不思議そうに私を見つめた。


「あ、えっと、万妃は普通の食事でも大丈夫なんだよね」

「ああ、そうだな」


 頷く万妃に、少しだけ気になっていたことを訊ねることにした。


「血を飲むのと普通の食事をするのって、やっぱり違うものなの?」


 私の問いかけに、万妃はああ、と頷いた。


「普通の食事は栄養補給のため。普通の人間たちと同じ目的で食べてる。食欲とか空腹感とか、そういうのは普通の食事でしか解消されない」

「じゃあ、血を飲みたくなることはないんだ」

「ああ。血を飲みたい、って欲はアタシにはない。ただ自分の能力の維持のために飲む必要があるだけで、普通の人間として生きていく分には正直血なんていらないんだ。ただ、アタシの場合は魔喰いとして、管理機関の人間として生きていくために血が必要になってるだけで」


 わざわざ空腹のために飲む必要はない、ということか。けれど血を飲むのは楽しむためでもなく、ただ純粋に、吸血鬼の魔喰いとして生きていくために必要なことだということだ。


「ま、グールの場合は生きるためにどうしても人間を喰べなきゃいけないんだがな。あいつらの空腹感は、人間を喰べないと満たされない」

「そ、っか」


 可憐ちゃんも万妃も、生きるために人の肉を喰べたり血を飲んだりしている。二人とも、ただ生きるために。

 食事は本来生きるために必要不可欠なもの。楽しむための食事も、生きていく上では必要なことだ。けれどその楽しむための食事が、他の誰かを傷つけるものなら? 他の誰かを害するようなものなら?


「万妃は、さ。楽しむためだけに食べ物を食べることって、あった?」


 訊ねると、万妃はそうだな、とハンバーガーをお盆に置いて腕を組んだ。


「お菓子とかは、そうかもな。あれは栄養補給がメインのものじゃなくて、ただ美味しいから食べるようなものだろ」

「そっ、か」


 誰だって、楽しむために食事をすることはある。あるのだ。けれど。


「……楽しむために食べることは、それ自体は悪いことじゃない」


 万妃が、組んでいた腕を解きながらそう口にした。


「何を食べるか、食べたのか、食べ過ぎていないか。そういったことが問題になることはあるだろうがな」


 それは、そうだろう。お菓子を食べる、間食をすることは問題にはならない。適量を食べるのなら何も問題はない。でも、でも。


「……魔喰いだって、そうだろ」


 と、万妃はどこか言いづらそうな様子で口を開いた。


「魔喰いは、本来なら喰べる必要もない奴らを喰った。吸血鬼、ドラゴン、挙句の果てには神様を喰べた奴らまでいる。そのどれも、人間が生きていく上で食べる必要もないようなものだ。確かに食べることはできるだろうが、でもそれは生きるための食事には当たらない。魔喰いはただ、興味本位で、自分たちの欲を満たすためだけに魔を喰べた」


 お盆に乗ったハンバーガーに、万妃が手を伸ばす。


「その結果がこれだ。祝福と呪いなんていう能力を与えられて、魔喰いたちは人とは違う生き方をせざるを得なくなってしまった。祝福と呪いは結局、食べる必要もないものを食べた罰みたいなもんだろ。勝手な行動の責任を長い時間をかけて取るために、償いのために魔喰いたちはその罰を背負って生きてるんじゃないかって、アタシは思う」


 万妃は手に取ったハンバーガーにかぶりつく。もぐもぐと咀嚼をするその表情は真剣なものだ。

 魔喰いは、償いのために罰を背負って生きている。祝福と呪いを代々受け継ぎながら生きている。長い時間をかけて、生きてその罪を背負っている。


「ま、あくまでもアタシの考えだけどな」

「……うん」


 残っていたハンバーガーを口に運ぶ。生きるために食べるもの。ただ自分の勝手な欲を満たすために食べるもの。後者はきっとすごく罪深いことなんじゃないかって、私は思っている。それが他人を害することなら、なおさら。

 なら、私は、私が背負わなきゃいけないことは、しなきゃいけないことは、何なのだろうか。


「……さて、ちょっとは気晴らしになったか。さっきよりはマシな顔してるし」


 どこか安心したような声を出しながら、万妃は口元に笑みを浮かべる。


「私、そんなに酷い顔してた?」


 私の言葉に、万妃は大きく頷いた。


「そりゃあもう。朝から今にも死にそうな顔して一日過ごしてたぞ。木村さんも心配してるみたいだったし」


 特に何も言われなかったけど、秋菜にまで心配をかけていたとは。悪夢には慣れたと思っていたけど、それでもやっぱり考えてしまうことはある。それをなるべく表に出さないようにと気をつけていたのに、残念ながら全く取り繕えていなかったみたいだ。


「ごめんね、万妃。ありがとう」


 気にかけてくれたことが嬉しくて、わざわざ気分転換をしてくれようとしたことが嬉しくてお礼を言う。万妃はにっ、と満足そうに笑っていた。

 うん。今日は本当に楽しかった。ううん。今日だけじゃない。万妃と一緒にいられたこの三日間は本当に楽しかった。叶うならば、これからも一緒にいたいと思ってしまうくらいに。たとえこの協力関係が終わったとしても、パートナーという関係が終わったとしても、普通の友達として一緒にいたいと願ってしまうくらいに。

 でも、それは無理な話。

 この関係は長くは続かない。いつかなんて曖昧なものじゃなくて、近いうちに私たちは別れることになる。別れなきゃ、いけない。そうしたら万妃とはもう会うことはない。二度と会えない。こんな時間を過ごすことはできないし、万妃が私を思い出すこともないだろう。ない、はずだ。

 この事件が終わればそれでおしまい。だってこの事件が終わったら、私は——。

 ごくりとコーラを飲み込む。ハンバーガーもポテトもなくなって、お盆の上には丸められた包装紙とポテトの入っていた紙箱。そして空になったプラスチックのコップだけ。ごちそうさまでした、と手を合わせれば、ちょうど食べ終わったらしい万妃も同じように手を合わせてごちそうさま、と呟いた。


「七時半か。今日は調査もしないし、かなめの気分転換もできたし、そろそろ帰ろう」


 伸びをして、万妃は立ち上がる。本当はもう少し一緒にいたかったけど、毎日遅くまで出歩くのは褒められた行為ではない。大人しく頷いて、万妃と二人でゴミを片付ける。

 夜はまだまだこれから。ショッピングモールにはまだたくさんの人の姿があった。楽しむ人々を横目に見ながら、万妃と並んで出入り口へと向かう。

 特に何かを喋ることもないまま、真っ直ぐにマンションに向かう道を歩く。無言の時間。けれども空気は悪くなくて、穏やかで心地良い。その心地良さに浸って歩いていると、カツン、と足音が響いた。その瞬間、万妃の纏う空気が鋭いものへと変わる。音は正面。暗い道の向こうから確かに聞こえてくる。カツカツと近づいてくる足音。街灯に照らされて、音の主の姿がぼんやりと浮かび上がる。胸元まで開けられた赤いシャツに、ハーフアップにまとめられた金色の髪の毛。真っ赤なハイヒールが、白い光に照らされて鈍く光った。


「あら、かなめちゃんに万妃ちゃん。こんばんは、偶然ねェ?」


 にこやかに手を上げて、伴場先生はカツリカツリと足音を鳴らして近づいてくる。万妃は立ち止まって、じっと伴場先生を睨みつけていた。


「もう、そんなに睨まないでくれる? 先生、悲しくなっちゃう」


 よよよ、とわざとらしく泣き真似をする伴場先生。口の端は吊り上がっており、翠の瞳は細められている。どこからどう見ても、悲しんでいるようには見えない。


「なあ、アンタが今回の事件の犯人なのか」


 万妃は伴場先生に、迷うことなく言葉を投げかけた。その問いかけに、伴場先生はニタリとした笑みを浮かべる。張り付くような、粘着質な微笑み。


「ええ、そうよォ。今回の事件の犯人はあたし」

「なんでそんなことを」


 そんなの簡単よォ、と。伴場先生は愉快そうな笑みを浮かべて口を開く。一言一言が、身体に絡みつくよう。どろりとした声が手足にまとわりついて気持ち悪い。


「あたしの目的は実験と捕獲。実験は言わずもがな、グール化についてね。捕獲は」


 一瞬、翠の瞳が私を捉えた。ぞわりと内臓に鳥肌が立つような感覚。私を見つめた伴場先生は、けれどすぐにその視線を万妃へと移動させた。


「万妃ちゃん、あなたよ」


 翠の瞳が、ねっとりとした視線が万妃に向けられる。


「あたしは万妃ちゃんを捕まえたかった。そりゃあ万妃ちゃんの血のストックはまだあるけどォ、階級を上げるためにはどうやらお肉が必要みたいなのよねェ。血だけじゃ、ダメなのよ」


 カツン、と。伴場先生が一歩踏み出した。万妃はぴくりと腕を動かして、少しだけ前へと進み出る。


「あの子を不老不死にするために、万妃ちゃんには悪いけどちょぉっと痛い思いをしてもらわなきャ」


 なら、最初から万妃だけを狙えばいい。けれど伴場先生はそうしなかった。他に、他に目的があるんじゃないのか。可憐ちゃんのため。なら例えば、可憐ちゃんの階級を上げるのではなく、より強力な別の存在に上書きしてしまう、なんて。

 伴場先生の瞳が万妃から逸らされる。逸らされた瞳は妖しく光って——私を、捉えた。

 寒気が走る。心臓が強く脈打つ。身体がびくりと震えて、思わず数歩後ずさった。万妃は一瞬だけ私を見て、伴場先生から庇うように私の前へと歩み出た。

 それを見て、伴場先生の口の端が吊り上がる。とても面白いものを見るような目で、彼女は私たちを眺めていた。


「あらァ? どうしてかなめちゃんを庇っているのかしらァ」


 その言葉に、万妃の肩がわずかに動いた。こちらに背を向けているため、その表情はわからない。


「庇う必要なんてないわよねェ?」


 カツリと、また、伴場先生がこちらに向かって歩き始める。万妃は動かない。私の前から、動かない。


「だって万妃ちゃんはァ」


 伴場先生はもう、すぐそこに。万妃の目の前に。ニタリとした笑みを浮かべて、伴場先生は万妃に顔を近づけた。そうして。


「かなめちゃんのことを、監視しているだけなんだもの。そうよねェ、万妃ちゃん?」


 万妃の耳元で、そう、私にも聞き取れる声で囁いた。


「っ」


 万妃の表情は見えないまま。それでも万妃が動揺していることは嫌というほど伝わってくる。ただ黙って、何かを堪えるように両手を握りしめている。その態度が、伴場先生の言葉が嘘ではないことを告げていた。

 だから、そう、万妃の目的は。

 伴場先生はくすりと笑みをこぼすと、万妃から離れて私たちに背を向ける。ひらひらと手を振りながら、伴場先生はわざとらしく足音を鳴らして遠ざかっていく。


「今日は帰るわねェ? それじゃあね、二人とも」


 伴場先生の姿が暗闇に溶けていく。

 私は何も言えず、ただ万妃を見つめることしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る