5/チェンジ

25

 事件が起きたのは五年前の五月十六日の深夜だった。多くの人が寝静まった時間。いつも通りの平穏な夜を過ごすはずだったマンションの住民たち。明日が普通に来ると誰もが信じて疑わなかった。誰も、こんなことが起きるなんて想像もしていなかった。できるわけがない。だって犯人は、化け物だったのだから。

 ぺたぺたとマンションの廊下を歩く一人の少女。裸足のまま歩く少女の姿は普通の人間とは少々異なっている。寝巻きに身を包んだ少女の頭には、黒く光る角のようなものが生えていた。ぼんやりと焦点の定まらない瞳は赤く染まっている。本来なら肩よりも少し長い髪の毛は、この時腰のあたりまで伸びていた。

 どこからどう見ても様子がおかしい少女。その姿を見れば、善良な人間はどうしたのかと声をかけるだろう。

 実際、少女の少し先にいた青年は首を傾げて少女に声をかけた。どうしたのか。大丈夫か、と。

 声をかけられた少女は顔を上げて青年を見つめる。少女の瞳に青年はどう映ったのだろうか。少なくとも、人間として認識されなかったことは確かだろう。でなければ、こんなことが起こるはずがないのだから——。


「——え」


 青年の口からこぼれた音はそれだけ。目を丸くした青年を飲み込んだのは、彼の目の前に現れた黒い球体。少女が口を開けたのに合わせて、球体ががぱりと開く。赤黒い中身。生暖かい息。びっしりと生えた白い歯。あーん、と少女が口を動かせば、あっという間に青年は球体の、口の中へと飲み込まれる。悲鳴を上げる暇もない。少女がもぐもぐと咀嚼をすれば、ごりごりと球体が青年を噛み砕く音が聞こえた。ごくりと飲み込む音。黒い球体は消えて、青年も消えた。ただこの場には少女と、紅い水たまりだけ。

 ぼんやりとした様子の少女はふらふらと歩き始める。そうして、近くの扉へと近づいた。本来なら鍵がかかっていて開かないはずの扉。それを、簡単に開けて中へと入る。

 突然の侵入者に、部屋の中にいた人々は戸惑いの声を上げた。夜更けに少女が、鍵がかかっていたはずの扉を開けて部屋に入ってきた。何事かと動揺する人々を気にすることもなく、少女は再び大きく口を開く。どうしたのかと、少女に手を伸ばしかけた男性の背後に黒く丸い物体が現れた。突如現れた物体に悲鳴を上げる女性。異変に気がついて振り返りかけた男性を、球体は大きく口を開けて飲み込む。ごり、と噛み砕かれて、頭を失った胴体がリビングの床に転がった。悲鳴を上げる暇もなく、今度は女性の身体が球体に飲み込まれる。今度は一口で。ごり、ごりと鳴る咀嚼音。音が鳴るたびに、球体からは紅い液体が小さく飛び散った。少女は虚ろな瞳のままリビングに転がった胴体に目を向けると、あーん、と食べ物を食べるように口を動かす。骨も、指の先すらも残さず、この部屋の住民は丸々少女に喰べられてしまった。

 少女は止まらない。

 通り過ぎる部屋はあった。祝福だけを置いて立ち去った部屋はあった。それでもほとんどの部屋へと入り込んで、そうして中にいた人たちをみんな喰べてしまった。

 それが、あの日の出来事。それが、私のしたこと。

 自分のしたことを、まるで他人事のように眺めている。これは夢。ただの記憶の再生。

 少女はまだまだ止まらない。大きく口を開けては、ごりごりと人間を噛み砕いていく。飲み込んでいく。これは食事。ただ楽しむための食事。生きるための食事じゃない。だって人間なんて喰べなくても、私は生きていける。それなのに、私は人を喰べた。

 空腹は能力が制御できなくなるきっかけでしかない。私は生きるためではなく、ただ腹を満たすために、食べたいという欲を満たすためだけに人を喰べた。ただ自分の勝手な欲を満たしただけ。ただ純粋に、食事という行為を楽しんでいただけ。

 ——生きるために喰べることは悪いことじゃないのよ?

 伴場先生の言葉が響く。

 生きるために仕方なく、なんて言い訳すらできない。私は完全な悪で、完全な加害者。

 夢はまだまだ終わらない。これからもずっと、終わることはない。

 お願いだから誰か止めてと叫んでも止まらない。誰も気がつかない。誰にも止められない。止めるものもないまま、止まることもできないまま、私は見知らぬ人を、隣人を、知り合いを、そして家族すらも喰べてしまう。

 お願いだから誰か私を止めて。誰か私を、殺して。

 お願い。お願い、万妃、私を——。

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