10
帰りのホームルームの終わりを告げる鐘が鳴る。
決意はしたけど、結局まだ何もできていない。チャンスはもう、この放課後だけ。明日があるなんて呑気なことは言っていられない。もたもたしている間に、取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。これ以上、足踏みしているわけにはいかない。
秋菜はもう帰ってしまったらしく、教室内にその姿はなかった。クラスメイトたちも、それぞれ仲の良い友人たちと教室を出て行く。特に誰かと帰る予定のない私は一人、血分さんの席へと顔を向けた。けれど、そこに血分さんの姿はない。
慌てて教室の出入り口を見れば、血分さんはもう教室から出て行こうとしているところだった。このまま帰らせるわけには、話もしないまままた明日と別れるわけにはいかない。
急いで鞄を肩にかけて後を追う。小走りで血分さんを追いかけるけど、一向に距離は縮まらない。ざわざわと賑やかな廊下。けれど血分さんが通れば、みんな声を潜めて怯えたような様子で廊下の隅へと移動する。血分さんが歩けば、自然と道ができる。それだけ怯えられているのは問題だけど、今はそれがありがたい。おかげで血分さんを見失うことはなさそうだ。
廊下の突き当たり。血分さんは階段のある方へと曲がる。見失わないように速度を上げてついて行く。
「あれ」
三階へと上がって行く血分さんの姿が目に入った。帰宅するのなら、階段を下りて下足箱に向かうはずなのに。
不思議に思いながらも階段を駆け上がる。
三階。廊下には人の姿も気配もない。
「いない?」
「いや、いるけど」
「わっ⁈」
階段のすぐ横。血分さんは腕を組んで、不機嫌そうな様子で立っていた。
腕組みを解くと、血分さんはカーディガンのポケットに手を突っ込んで私を睨みつける。誰がどう見てもご機嫌とは言えない様子。怒らせるようなことをした覚えはないけど、何かしてしまっただろうか。
「今日一日、アタシのことずっと見てただろ」
「あ、バレた?」
はあ、と血分さんは呆れたようにため息を吐いた。
「あのなあ。あんだけ見てれば誰でも気がつくっての……ま、見てたのは今日だけじゃないだろうけど」
どうやら日頃から血分さんを見ていたことはバレていたらしい。申し訳ない気持ちになりながら、えへへ、と頬を掻く。
血分さんはもう一度ため息を吐いて、で、と口を開いた。
「何の用だよ」
どうやら用件は聞いてくれるらしい。それに安堵しつつ、どうするべきかと頭を働かせる。話すべきことはわかっているけど、切り出し方も話の運び方も説得の仕方もまとまっていなかった。せっかく話を聞いてもらえそうなのに、私は上手に話を切り出せない。
うまい言葉が出てこずおろおろしている私を、血分さんはただじっと見つめている。静かに待ってくれている。本当にちゃんと、話を聞いてくれようとしているのだろう。なら、私もできるだけ誤魔化さず、きちんと正面から話さなければ。
「あの、あのね」
小さく息を吐いて、私は血分さんの顔を正面から見つめた。
「今回の事件について、教えてほしいの」
私の言葉に、血分さんはぴくりと眉を動かす。
「そんなこと知って、どうするんだよ」
血分さんの視線は鋭い。身体の隅々まで観察されているような気分。少しでも、指の一本でも無駄に動かせば殺されてしまいそう。それでも目は逸らさない。話を止めるわけにはいかない。ここで引き下がることは、できない。
「今回の事件の犯人を、捕まえる」
刺すような視線。けれどその瞳に宿る感情は敵意ではない。ないように、見える。
「何のために」
温度のない声が、廊下に響いた。でもその声は、冷たくはない。
「私の幼馴染が、危険なことに巻き込まれずに済むように」
私のやるべきことをするために。……それが本当はやるべきことではなくとも。ただ自分の罪悪感を紛らわすための行動なのだとしても。ただ自分の罪を知られたくないだけの、自分勝手な行為なのだとしても。それでも、それでも私は。
「……できれば」
続ける言葉があまりにも身勝手なものだとわかっているから、私は血分さんから視線を逸らして床を見る。この言葉は本当は言うべきではないのだろう。それでも私一人では無理だとわかっているから、ううん、本当はただ自分の願いを叶えるためだけに、私はその言葉を口にした。
「血分さんに、手伝ってほしい」
少しだけ顔を上げて、血分さんの表情を伺おうとする。けれども怖くて、視線を上げ切ることはできず、結局口元までしか見ることができなかった。無表情な様子の、きゅっと結ばれた口が目に入る。
「駄目、かな」
再び視線を落とせば、血分さんはため息を吐いた。
「ダメも何も、そんなことをしてもアタシには何のメリットもない。話はそれだけ?」
うん、と頷くと、血分さんは私から離れて階段の方へと歩き始めた。
交渉決裂、というやつだろう。血分さんはもう用事はないと、これ以上話すことなんて何もないと判断して帰ろうとしている。
それじゃあ、駄目なの。
襟元を力強く握りしめる。
私にはやらなきゃいけないことがある。果たさなければならない義務がある。取らなければならない責任がある。償わなければならない罪が、ある。
だからこのまま血分さんと別れるなんて、駄目だ。
「っ、五年前の事件」
ぱしりと、横を通り過ぎようとした血分さんの腕を掴んだ。血分さんは一瞬大きく震えて、驚いた様子で顔を上げる。けれど私と目が合うと、すぐに顔を背けてしまった。
「五年前の事件が今回の事件と関わりがあるって、みんな思ってるんだよね」
「……そうだな」
血分さんは私を見ない。見ようとしない。
「もしそうなら、五年前の事件と関係がある私は血分さんの役に立つんじゃないかな。だって私は五年前の事件の当事者で、現場にいて唯一生き残った存在なんだから」
私が出せる交渉の手札はこれだけ。血分さんが引っかかるかどうかなんてわからない。それでも、今の私はこれ以外に血分さんの興味を引けそうな情報を出すことができない。
無言の時間が続く。
聞こえるのは心臓の音だけ。私はただ、血分さんを見つめ続ける。
血分さんが、小さく息を吐いて私に顔を向けた。
「五年前の事件、か」
けれども紫色の瞳は私を捉えず、地面を見つめる。
「血分さんも知ってるでしょ。この街に住んでて知らない人はいないはずだし、何より今回の事件に関わってるなら、少しでも調べたことがあるはずだよね」
「知ってるとか調べたとか以前に、その事件はアタシの担当だ」
ぐ、と。血分さんの腕を握る手に、自然と力が入った。
「被害者は一人も見つからず、犯人の手がかりもなし。そのまま五年が経過。アタシも管理機関のやつらもお手上げ状態。そんな事件の手がかりになる情報を、アンタが知っているとでも?」
視線を上げて、血分さんが私を見つめる。射るような眼差しが、私に向けられた。私はただその視線を受け止めて、無言のまま頷く。
「アンタは……アンタは、アタシが管理機関に所属してるって知ってたのか? 五年前の事件を調べてることだって、疑うどころか確信が、アンタは、アタシが——」
血分さんは何かを探るように私の瞳を見つめる。肌を刺すようなピリピリとした空気。血分さんが抱いているのは敵意か警戒心か、それとも。たとえどんな感情を抱かれていたとしても、私の意思は変わらない。ただ黙って、心の奥底を悟られないように血分さんを見つめ返すだけ。
「…………」
「……いや、まあ、そうだな」
ふっ、と。張り詰めていた空気が少し緩む。血分さんの視線からも、鋭さが少しだけ消えていた。
「ただの中学生が、そんなこと知るわけないか。五年前の事件との関わりを疑うことも、五年前の事件について調べてると思うことも、幼馴染を守るためだからってアタシに協力を申し出ることも、何も、何もおかしなことじゃない。何も、違和感はない」
少しだけ目を伏せて、血分さんは考え込むように黙ってしまった。しばらくそうした後、血分さんはうん、と一人で勝手に何かに納得したように頷く。向けられた紫色の瞳に、温度が感じられた。まるでただの人間のような表情。これまであまり感じられなかった自然な人間らしさが、血分さんから感じられた。
「その考えは間違っちゃいない。さっきも言った通り、五年前の事件の担当はアタシ。今回の事件と五年前の事件の繋がりも、少しはあるんじゃないかって疑ってる。ま、繋がりに関わらず五年前の事件もいい加減解決したいんだけどな。いやまあ、あの事件が行き詰まってるのはアタシがサボってたせいでもあるんだけど」
事件の解決をサボっていたことが後ろめたいのだろう。頬を掻きながら、血分さんは私から目を逸らした。
「調査は行き詰まってるし、仕事はサボってたし、そんな状態で新たに事件が起こるし。そろそろ本気で取り組まないとヤバいっていうか。いい加減解決してくれって上からも急かされてるし。流石に怒られそうだし。だから正直、事件当時現場にいた人間から実際に話を聞く機会は喉から手が出るほど欲しかったんだよ」
「っ、じゃあ!」
この取引は、血分さんにとっても悪くない話なんじゃないか。
血分さんはまだ悩むところがあるのか、片手を頭に当ててうんうんと唸っている。
「けど、アタシ個人は今回の事件と五年前の事件の関わりは薄いと思ってる。だとしても、両方ともどうにかしなきゃいけないんだけど」
「関わりがなくても、私は今回の事件の犯人を捕まえなきゃいけない」
「……なんで、そこまで関わりたがるんだ?」
血分さんは不思議そうに、何かを疑っているような様子で私を見つめる。そこには警戒心や先ほどまでの鋭さはない。ただ純粋に、私の本心を探っているような瞳。
「さっきの説明じゃ足りなかった? 私は秋菜を、幼馴染を傷つけたくないだけ」
「それだけの理由で、アンタが自分から危ないことに首を突っ込むとは思えないな。お人よしなのは知ってるけど、限度ってもんがあるだろ。昨日死にかけたのを忘れたのか?」
血分さんの表情は厳しい。同い年のはずなのに、しっかりとした大人のように見える。まるで右も左もわからない幼子を導くような、道を踏み外してしまいそうな子供を注意するような。気を抜けば、はい、と大人しく言うことを聞いてしまいそうになる。けれども退くわけにはいかない。
秋菜を傷つけたくないのは本当。でもそれだけじゃ血分さんには納得してもらえない。だけど私は、どうして私が犯人を捕まえなきゃいけないのかを血分さんに詳しく説明することができない。まだ、その時じゃないから。
ならもっと別の言い訳を、理由を、本心を語らなければいけない。
「あのね」
私が口を開くと、血分さんを包む空気がわずかに引き締まる。鋭い目つきが向けられる。私が何を言うのか、何を語るのか、それが本心なのか、何一つ取りこぼすことのないように注目されている。全てが警戒されている。
緊張感を飲み込んで、私は心からの言葉を口にした。
「血分さんが、心配だから。血分さんと仲良くなりたいから。血分さんに近づきたいから。それが、私が血分さんに協力してほしい理由」
「——は、あ?」
ぽかんと口を開ける血分さん。紫色の瞳が大きく見開かれる。
「下心なのはわかってる。でも、理由はそれだけじゃない。今言ったことももちろん本当だけど、それ以外に理由があるのも本当。他の理由は、今は言えないけど。それでも譲れない理由はちゃんとあるの」
血分さんの瞳を見つめる。血分さんはぱちぱちと瞬きをして、再び真剣な表情へと戻った。
無言のまま、お互いに見つめ合う。
どのくらいそうしていただろうか。するりと、私の手から血分さんの腕が離れる。血分さんは大きくため息を吐いて、両手を小さく上げた。
「わかった。わかったよ。アタシの負けだ」
やれやれ、と血分さんは小さく首を横に振る。
「アンタは今回の事件の犯人を捕まえたい。五年前の事件について知ってることがある。アタシは今回の事件と五年前の事件の犯人を捕まえなきゃいけない。五年前の事件については情報が足りない。協力するメリットも理由も、なくはない」
すっ、と黒いカーディガンから覗く右手が私に伸ばされた。
「いいぜ。アンタと協力関係になってやるよ」
「————っ!」
嬉しさのあまり、勢いよく差し出された手を掴んだ。血分さんは驚いたような顔をして、私から視線を逸らしてしまう。白い頬が、わずかに紅く染まっているように見えた。
「うん、うん! じゃあ、今から血分さんと私はパートナーってことで!」
私の言葉に、血分さんは渋い表情を浮かべる。
「パートナーかよ。まあ、いいけど」
はあ、と息を吐いて、血分さんは真っ直ぐに私を見つめる。繋いだ手を握り直して、血分さんは小さく笑みを浮かべて口を開いた。
「じゃあ、これからよろしくな。かなめ」
名前を呼ばれて、胸が高鳴る。きっと今の私は、誰が見ても浮かれているとわかるような表情をしていることだろう。
嬉しくて嬉しくて。つい、私も彼女の名前を呼んでしまった。
「うん! よろしくね、万妃!」
万妃は一瞬だけ目を丸くして、ふいとそっぽを向いてしまった。機嫌を損ねてしまったようにも見えたけど、万妃の纏う空気は少しだけ柔らかなものへと変わっているように感じられる。気が緩んでいるような、警戒心が解かれたような。それが嬉しくて、繋いだままの手をぎゅっと握りしめた。
その時。
廊下の向こうから、コツコツと硬い床を蹴る音が聞こえてきた。警戒するように、万妃は音が聞こえてきた方を睨みつける。
「あら、かなめちゃん。と、万妃ちゃん?」
「伴場先生」
現れたのは伴場先生だった。
険しい表情をした万妃から、つい先ほどまで緩やかだった雰囲気が消え失せる。私に向けていた以上に鋭い眼差しを伴場先生に向ける万妃。棘のある空気を纏った万妃を気にする様子もなく、伴場先生は万妃と私を意外そうに見比べる。何度かそうした後、伴場先生はニヤニヤとした笑みを浮かべた。愉快そうな、面白いものを見つけたような顔。足元が泥に絡め取られるような感覚に、思わず後ずさる。
「へえ、そう。そうしたのねェ」
「あの、伴場先生。なんだか、楽しそうですけど」
出てきたのは今にも消えてしまいそうな頼りない声。かろうじて震えてはいなかったけれど、それでも怯えは伝わってしまったらしい。万妃は少しだけ私を見て、繋いでいた手を離して私を庇うようにわずかに前に出た。
伴場先生は私が怯えていることに気がつかなかったのか、愉快そうな表情のまま口を開いた。
「んー? まあねェ。意外な組み合わせだなーって。ああ、そうそう」
コツリと、伴場先生が一歩踏み出す。その動きに、万妃が警戒するように伴場先生の前に立ち塞がった。私を守るような仕草に、伴場先生はわずかに目を見開く。けれどそれは一瞬で、翠の瞳はすっと細められた。その瞳は、真っ直ぐ私に向けられている。
「昨日は大丈夫だった、かなめちゃん?」
え、と間抜けな声が漏れた。質問の意図を理解しかねていると、伴場先生はいかにも心配していますとでも言うような表情で話し始めた。
「ほら、昨日は一人だったみたいだしィ。危険な目に遭ったりしなかったァ?」
一見こちらを心配している様子だが、声も顔も胡散臭い。翠の瞳は私を捉えて離さない。一挙一動を観察されている。興味、関心、それは生徒に向けるものではなくて、まるで。ああ、ねっとりとした視線が絡まって息苦しい。
はい、と返事をすると、伴場先生の表情は楽しげなものへと戻る。けれど向けられている視線の種類は変わらない。この人は、いつもそうだ。
「あら、そう? なら良かったけど。そういえば、今日からは誰かと一緒に帰るんでしョ? もしかして、その相手って万妃ちゃんかしらァ」
どろりとした、粘ついた声色。翠の瞳が万妃に向けられた。私に向けたものと同じもの。万妃は怯えた様子もなく、ただ不機嫌そうな声色ではい、と頷いた。
「今から一緒に帰ろうとしていたところです」
「ふぅん?」
ほんとに? と。伴場先生の口が小さく動いたような気がした。
「そういうわけなので、失礼します。ほら、行くよ」
万妃が私の手を取る。そうして繋いだ手を引っ張って、無言のまま階段を下り始めた。
「あ、う、うん。さようなら、伴場先生」
振り返って伴場先生に挨拶をすると、伴場先生は笑みを浮かべたままひらひらと手を振っていた。
「はい、さようならー……ねえ、かなめちゃん」
踊り場で曲がる寸前。私の視界から伴場先生が消える寸前。翠の瞳を歪めて、伴場先生は愉快そうに口を開く。離れているのに、耳元で囁かれるような感覚がした。生暖かい息が耳にかかったような気がして、細く長い指が首に絡まったような気がして、ぞわりと全身に鳥肌が立つ。肌の表面から内臓の内側まで、身体の隅々まで見透かされるようなその瞳から、私は目が逸らせなかった。妖しく光る翠の瞳から、逃げられなかった。
「自分から死にに行くの、先生はどうかと思うわよォ?」
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