血分さんと話がしたい。

 昨日のこともあって、その思いはかつてないほど強くなっていた。授業が終わるたびに話しかけに行こうとするものの、秋菜や周囲の目を気にしてしまったり、いつの間にか血分さんが消えていたり。結局声をかけることができないまま、お昼休みになってしまった。もたもたしている時間はないのに。このままじゃ駄目なのに。

 給食を終えて、クラスメイトたちは雑談をしたり他のクラスに遊びに行ったりと、思い思いの時間を過ごしている。みんな、自分の楽しい時間に集中している。秋菜は部活動の集まりに行ったから、しばらくは教室にいない。血分さんはいつも通り、自分の席に座って窓の外を眺めている。

 話しかけるなら、今がチャンスだ。

 気合を入れて立ち上がり、血分さんの席へと向かおうとしたその時。


「失礼しまーす。九季せんぱーい、いらっしゃいますかー」


 残念ながら、邪魔が入ってしまった。

 血分さんの方に行くのを諦めて、呼ばれた方へと向かう。教室の出入り口には、何かを手にした可憐ちゃんの姿があった。なんとなくだけど、可憐ちゃんの表情は少し険しい気がする。


「こんちには、可憐ちゃん。何かあった?」


 私が声をかけると、可憐ちゃんはいえー、と首を横に振る。その表情はやっぱり少し暗いというか、怒っているようにも見えるというか。


「……あの」


 ぴり、と空気に緊張が走る。可憐ちゃんは私の顔ではなく、どこか別の場所に視線を向けた。可憐ちゃんの瞳は私を捉えておらず、私よりも後ろの方を見ているように思える。何かを睨みつけるような目をした後、可憐ちゃんの目が私に向けられた。心配そうな様子で私を見つめる可憐ちゃん。しばらくもにょもにょと口を動かして、可憐ちゃんはどこか言いづらそうに口を開いた。


「もしかして、なんですけどー。九季せんぱい、血分せんぱいに話しかけようとしてましたかー?」

「え、うん」


 どうやら私が血分さんの方に向かおうとしていたところを見ていたらしい。素直に頷くと、可憐ちゃんは少しだけ目を見開いて、すぐにその表情を険しいものへと変えた。


「やめておいた方がいいと思いまーす」


 そうして、周囲には聞こえないような声でそう囁いた。


「へ?」

「血分せんぱいと関わるのは、やめておいた方がいいと思いまーす」

「……どうして?」


 可憐ちゃんに合わせて小声で訊ねる。可憐ちゃんはだって、とどこか敵意のようなものを込めた声色で理由を話し始めた。


「……見るからに不良ですしー。悪い噂しか聞きませんしー。関わったら、何か面倒なことに、危ないことに巻き込まれる可能性大だと思いまーす。絶対やめといた方がいいでーす」


 理由を話しながら、可憐ちゃんは何かを睨みつけていた。敵意、憎悪、嫌悪。細かな感情は読み取れないけど、とにかく相手のことをよく思っていないことだけは伝わってくる。

 可憐ちゃんは、私のことを心配してくれているのだろう。

 私だって血分さんの悪い噂くらい何度も聞いてきた。全て、らしい、という単語がつく確証のないものだったけど。だから私は、正直血分さんの噂が本当だとは思っていない。それでもみんなが血分さんのことを不良であると認識していることくらいは知っている。噂の真偽はともかく、彼女がみんなに良い印象を持たれていないのは事実だ。可憐ちゃんからすれば、そんな相手と関わろうとするなんて、という感じなのだろう。不安になるのも、心配するのも無理はない。


「心配してくれてありがとう、可憐ちゃん」


 後輩が私のことを心配してくれたのは素直に嬉しい。感謝の言葉を告げると、可憐ちゃんはほっと息を吐いて安心したような表情を浮かべた。私が納得した、と思ったのだろう。

 けれど、申し訳ない。私は可憐ちゃんの期待する答えを返すことができない。


「でも、ごめんね。誰と仲良くするかは、自分で決めるから」


 それに、どうしてもやらなきゃいけないことが、叶えたいことがあるから。

 私の答えを聞いて、可憐ちゃんは複雑そうな面持ちで私を見つめる。何か言葉を探すように、もにょもにょと口を動かすけど、結局何も見つからなかったのか、わかりましたー、とため息混じりにこぼした。


「でも、うーん。気をつけてくださいねー。危ないことに巻き込まれそうになったら、すぐに逃げてくださいねー。絶対ですよー?」

「うん、それは気をつける」


 私だって危ないことに巻き込まれるのはもちろん嫌だ。それが仕方がないことだったとしても、危険な目に遭うのは誰だって嫌だろう。いくら嫌だと思っていても、避けられないことはあるのだが。


「もし何かあったら言ってくださーい。わたしにできることがあれば、力になりますのでー」

「そうさせてもらうね。ありがとう」


 いえー、と首を振る可憐ちゃんはやはり複雑そうだ。

 そういえば、可憐ちゃんはどうして私を呼んだのだろうか。委員会やボランティアの連絡は昨日してもらったばかり。クラスメイトたちに知り合いはいないだろうから、この教室に来たのはやはり私に用があってのことなのだろう。


「可憐ちゃん、どうしてここに?」

 不思議に思って訊ねると、可憐ちゃんはそうでしたー、と手に持っていた袋を私に差し出す。透明なビニール袋に包まれているのは、少し不恰好なクッキーだった。


「昨日のお礼でーす。見つかったら没収、にはならないと思いますけどー。他の人には内緒でお願いしまーす」


 えへへ、と可愛らしくはにかむ可憐ちゃん。先ほどまでの緊張した空気は緩んでいる。


「わざわざありがとう、嬉しいな」


 お礼なんていらなかったのに、用意してくれるなんて。ありがたいような申し訳ないような。

 クッキーを受け取ってもう一度お礼を言う。可憐ちゃんはいえいえー、と頬を掻いた。


「でも、お菓子作りは初めてだったのでー。お口に合うかどうかー」

「大丈夫だよ。可憐ちゃんが作ってくれた、ってだけですごく嬉しいし。それに、美味しそうにできてると思うな」

「だといいんですけどー」


 と、可憐ちゃんは眉間に皺を寄せる。


「あー……でも、まあ、一応教わりながら作ったんでー。分量はきっちり量ったし、手順も守ったし、異物混入もないはずなんでー。うん。真面目に手伝ってはくれたし。味は問題ないはずでーす」


 その声はなんだか棘があるというか、嫌なことを思い出しているような雰囲気というか。手伝ってくれたという言葉に感謝の色が見えはしたものの、それはほんの少しで。少なくとも、楽しい出来事を話すような声ではなかった。


「それじゃあ、わたしはこれでー」

「あ、うん。ありがとうね、可憐ちゃん」


 ぺこりとお辞儀をして、可憐ちゃんは廊下へと消えていった。

 美味しそうなクッキーを片手に自分の席へと戻る。その途中、ふと血分さんの席に視線を向けてみた。


「あれ」


 けれどもそこに、血分さんの姿はない。残念ながら、私が可憐ちゃんと話している間にどこかに行ってしまったらしい。せっかくのチャンスだったのに、また逃してしまった。

 大人しく席に戻って、クッキーを鞄に片付ける。


「ただーいまー」


 と、部活の集まりから解放されたらしい秋菜がやって来た。疲れているのか、秋菜はどこか元気がない、というか、なんだか深刻そうな表情を浮かべている。何かを考え込んでいるような、思い詰めているような顔。


「どうしたの、秋菜」


 秋菜はがたりと前の席に座り込み、うん、と暗い声で呟く。よく見れば手は小さく震えており、瞳はキョロキョロと忙しなく動いていた。

 ああ、これは。

 何があったのか。詳しくはわからないが、五年前の事件を思い出していることは間違いない。


「秋菜?」


 あの日が近い以上、五年前の事件についての何かが耳に入る機会は多いだろう。それだけじゃない。今夜部市内で起きている事件も、五年前の事件との関連性を疑われている。今この街に住んでいてあの事件についての話題を避けることは難しいだろう。だから秋菜がどこかでその話を聞いてこうなってしまうのも、何もおかしなことではない。

 秋菜は黙り込んだまま、俯いて机を見つめている。何度か小さく口を開けたり閉じたりを繰り返した後、うん、と小さく頷いて秋菜は顔を上げた。


「あのね、かなめ」


 そこで一旦言葉を区切って、秋菜は小さく息を吸う。


「私、事件の犯人を探そうと思う」


 この言葉に、私の身体は、心臓は凍りついた。

 探す? 犯人を? いったいどうして。何のために。いや、そんなのは考えるまでもない。どうしてって、何のためって、それはきっと——。


「今回の行方不明事件の犯人、きっと五年前の事件の犯人と同じなんじゃないかな。絶対にそう、とは言い切れないけど。でも、そんな気がする。だから」

「駄目。そんなのは駄目だよ」


 考える前に、口から言葉がこぼれ出た。秋菜は目を丸くして私を見つめている。


「だって……だって、危ないよ、そんなの」


 ぐっと襟元を握りしめて、できるだけ平静を装ってもっともらしい言葉を口にする。そう、危ない。だって今回の事件には、昨日の化け物も関わっているに違いない。今起きている事件の犯人は普通の人間じゃなくて、あんな化け物たちなんじゃないのか。だとしたら、そうでなくても、事件の犯人を捕まえるなんて馬鹿な真似はさせられない。秋菜を危険な目に遭わせるのは駄目だ。だって秋菜は私の幼馴染なんだから。傷つけるわけには、死なせるわけにはいかない……理由は、本当にそれだけ?


「っ、だから、駄目だよ。やっぱり警察とか、専門の人に任せるべきじゃないかな」

「でも」


 でも、と秋菜は唇を噛み締める。そうして、揺れる瞳にじわじわと涙を溜めていく。


「警察なんて、何の役にも立たないじゃん」


 耐えきれなくなったのだろう。机に、秋菜の涙がこぼれ落ちた。


「五年前の事件がいまだに解決してないのが、誰も見つかってないのが、何もわからないままなのがその証拠だよ。一体いつまで待てばいいの? 一体いつになったら犯人は捕まるの? 一体いつになったら、お父さんとお母さんは、帰ってくるの——」


 ぐしゃりと、秋菜の表情が崩れる。ぐしゃぐしゃになった顔。涙は溢れて止まらない。何度も腕で目を拭っているけれど、次から次にこぼれ落ちてくる。


「……それ、は」


 遺体はない。骨すらない。何も、何一つ見つかることはない。犯人の姿もわからない。誰も見当がついていない。その状態が、五年。ううん、この先も、ずっと——。

 何も、答えられない。


「誰もどうにもしてくれないじゃん。誰も犯人を見つけてくれない。誰もみんなを、お父さんとお母さんを見つけてくれない。それでもまだ我慢しなきゃいけないの? まだ待ってなきゃいけないって、かなめは思うの? 私はもう、これ以上待ってられないよ。誰も解決してくれないなら、誰も何もしてくれないんだから、もう自分でやるしかないじゃん!」


 感情的な声で捲し立てて、秋菜は鼻を啜った。


「秋菜……」


 かける言葉が見つからない。いや、かける言葉なんて、私は持っていない。

 何度も擦ったせいで赤くなった目が、じっと私を見つめている。ぐすぐすと鼻を啜りながら、秋菜は黙って私の答えを待っている。

 それでも私は何も言えなくて、ただ、秋菜から目を逸らした。


「かなめは、手伝ってくれないんだね」


 そう言い残して、秋菜は立ち上がる。自分の席へと戻ろうとする秋菜を止めようと、その背中に手を伸ばしかけて、けれども伸ばすことができなくて。声をかけようと口を動かすけれど、何も言葉が出てこなかった。何も、言えなかった。何も言えるはずがない。私が言えることなんて、何もない。私には秋菜を止める権利も資格も、何もないのだ。

 それでも秋菜を危険な目に遭わせるわけにはいかない。このまま黙って見ているわけにはいかない。それは使命感か、罪悪感か、それともただ、知られたくないだけなのか。

 どうするべきか。どうしたらいいのか。

 傍観するつもりは最初からなかった。それでもできることなんてないって、私には無理だって言い訳をして動こうとしなかった。私のせいなのに。私が悪いのに。

 秋菜のため、なんてただの言い訳でしかないかもしれない。本心はもっと、別のところにあって、綺麗な言い訳でコーティングされた中身は誰にも見せられないくらい汚れているかもしれない。それでも秋菜のことが大事なのは本心で……本当に? そこにあるのは情じゃなくて、罪悪感と後ろめたさなんじゃないのか……本当に大事に、思っている。

 なら、やるべきことは一つ。

 小さく深呼吸をして、ぱちりと両頬を叩く。

 ここまでずっと後回しにしてきたこと。ここまでずっと、やるべきなのにやらなかったこと。

 それを選ぶ覚悟を、決めなきゃいけない。

 ……たとえその先が、本当は望んでいない願いの成就だったとしても。

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