「で、あるからして——」


 聞こえるのはカツカツと、チョークと黒板がぶつかる音だけ。次から次に書かれる文字をノートに書き写しながら、黒板の上にかけられた時計に目をやる。

 三時間目の終了まで残り十五分。この時間が、一番辛い。嫌だ嫌だと思っていても、自分の意思で身体を完全にコントロールすることはできない。

 ぐう、とお腹が小さな音を立てた。それに少しの嫌悪感と焦りを覚える。ああ、嫌だ。お腹が空くのは、この感覚は、好きじゃない。この時間はいつもこうだ。

 まだ十五分。あと十五分。

 この程度の空腹感ならきっとまだ大丈夫。これまでだって平気だった。突然今日になって大丈夫じゃなくなる、なんてことはそうそうないはずだ。それでも不安は拭えない。万が一ということもある。絶対に大丈夫、なんてとてもじゃないけど言えない。

 私の体質については先生方に説明をしているから、今お菓子を食べても怒られることはない。むしろ後で心配されるだろう。さっき食べていたけど身体の方は大丈夫なのか、って。

 それでもクラスメイトたちの目は気になるし、授業中にお菓子を食べるのはさすがに気が引ける。だからあともう少しだけ、この不安と恐怖を耐えなければならない。

 空腹から気を逸らすように、ただただ字を書くことと先生の話に集中する。そうしていれば、少しだけ気持ちは落ち着くから。でもそれはただ誤魔化しているだけ。空腹感はなくならない。ゆっくりと、背中を嫌な汗が伝う。バクバクと大きく心臓が鳴るたびに、心が不安に引き摺り込まれていく。考えないようにと意識をすればするほど、空腹感の存在は大きくなっていく。


「なので、ここは——」


 シャープペンシルを握る手に力が入っていく。ノートを押さえていたはずの左手は、気がつけばお腹に当てられていて、セーラー服をぐしゃりと握りしめていた。

 時計の針は進む。じわりじわりと、けれど確実に。


「よし、じゃあ今日の授業はここまで」


 教師の声に、みんなが一斉にがたりと立ち上がった。授業終了の挨拶が終わると同時に、クラスメイトたちはがやがやとお喋りを始める。

 それらを聞き流しながら、机の横にかけられた巾着袋に手を伸ばした。薄紫色をした袋の中にはチョコレートやお煎餅、マシュマロなど個包装のお菓子が大量に詰め込まれている。お菓子の種類なんてどうでもいい。今はただ、この空腹感から早く逃げたくて。適当にお菓子を一つ取り出して、袋を破いて口へと放り込む。ろくに咀嚼もせずごくりと飲み込んだ。味なんて関係ない。空腹感さえなくなれば、それでいいのだから。


「まーたお菓子食べてる」


 机に手が置かれたのが目に入る。顔を上げると、秋菜が私の巾着袋を羨ましそうに覗き込んでいた。


「秋菜」

「いいなあ、かなめは。学校で自由にお菓子食べられて」


 むっと唇を尖らせる秋菜は駄々をこねる幼児のようだ。素直に私を羨ましいと思っているのだろう。残念ながら、羨ましがられるような体質はしていない。だけど詳しく説明できない以上、それを理解してもらえることはない。


「先生方に許可は取ってるから。それに、何度も言うけど食べたくて食べてるわけじゃないよ」

「そうは言うけどさあ」


 いまだ物欲しそうに巾着袋を見つめる秋菜。苦笑いをしつつ巾着袋を閉じようとして、ポロリと口からお菓子がこぼれ落ちた。


「っと」


 袋からこぼれ出たチョコレートはこん、と板張りの床に転がる。それを拾おうと椅子から立ち上がりかけたところで、白い手が静かに床のチョコレートを掴んだのが目に入った。


「あ」


 手の主である血分さんは、無言のまま拾ったチョコレートを私の机に置く。そうして一瞬だけ私に視線を向けて、すぐに顔を逸らしてこの場から立ち去ろうと動き始めた。


「ち、血分さん」


 私の呼びかけに、血分さんは立ち止まった。少しだけ振り返って、小さく首を傾げる。温度のないアメジストの瞳は、真っ直ぐに私に向けられていた。どくどくと、心臓の音が煩い。


「えっと、ありがとう」


 感謝の言葉を伝えると、血分さんはわずかに目を見開いた。けれどもすぐにいつもの無表情へと戻って、彼女は私から顔を背ける。


「……別に」


 聞き取れるか聞き取れないかのギリギリ。本当に小さな声で呟いて、血分さんは教室の出入り口へと向かっていく。

 はあ、と。自然と口から息がこぼれた。心臓はいまだ煩く脈打っている。なんだか顔が少し熱い。


「あの子、またサボり?」


 秋菜は血分さんが気に入らないのか、血分さんが教室から出て行ったのと同時に棘のある声を出した。


「血分さんにも事情があるんだよ、きっと」


 そうかなあ、と納得のいっていない様子の秋菜から、教室の出入り口へと視線を動かす。出入り口付近に血分さんの姿はもうない。

 なんだか取り残されたような気持ちになりながら、私は血分さんが拾ってくれたチョコレートの包みを開けた。

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