3
給食を終えて和やかな空気に包まれる教室の隅。そこだけ、冷えたような澄んだような、ともかく平凡な教室の空気とは異なる雰囲気に包まれていた。血分さんは一人自分の席に座って、頬杖をついて窓の外を眺めている。外から吹き込んでくる風が、細く長い金の髪を揺らしていた。
こうしてじっと見つめるのは良くないことだ。それでも、話しかける勇気のない私はただ血分さんを見つめることしかできない。
できないなんて、言ってる場合じゃないんだけど。
「
聞き覚えのあるゆるりとした声に、視線を教室の出入り口へと移動させる。見覚えのある二年生の姿がそこにはあった。肩よりも少し長い髪の毛は校則通りに耳よりも下で一つに結ばれている。真面目で可愛らしい後輩は扉を開けて、けれど教室内に足を踏み入れることはないまま中の様子を伺っていた。
立ち上がって彼女のもとへと向かう。
私が近づいてきたことに気がついたらしい。とろんとした可愛らしい瞳がこちらに向いた。安堵からか後輩は小さく息を吐く。
「こんにちは、
「九季せんぱーい、お疲れ様でーす。えっとー、委員会とボランティアの連絡に来ましたー」
そう言いながら、可憐ちゃんは手にしていたプリントの束から二枚ほど紙を抜き出して私に差し出す。一枚目には清掃委員会の文字が、二枚目にはボランティア中止の文字が書かれているのが見えた。
「えっとー、今日の放課後に委員会の仕事が少しありまーす。自由参加ではあるそうなのでー、無理そうなら帰って大丈夫でーす。一枚目はそのお知らせでーす。で、二枚目なんですけどー」
「今度のボランティアが中止になった、ってお知らせかな」
はいー、と可憐ちゃんは頷く。
「本当は今日の委員会も中止にしたいらしいんですけどー、明日以降は放課後の居残りが禁止になるそうなのでー」
わざわざ放課後に委員会活動をやるなら今日しかない、ということらしい。昼休みにやってもいいような気もするけど、先生方の都合もあるのだろう。
「そっか。うん、わかった。お知らせありがとう、可憐ちゃん」
お礼を言うと、可憐ちゃんはへにゃりとした柔らかい笑みを浮かべた。その笑顔に心が和む。
「いえー、それではー」
と、立ち去ろうとした可憐ちゃんの方からくぅ、と小さな音が聞こえた。可憐ちゃんは一瞬キョトンとした後、えへへ、と照れくさそうに頭を掻いた。
「すみませーん。ちょっとお腹が空いててー」
「給食、あんまり食べられなかった?」
私の問いかけに、いえー、と可憐ちゃんは首を横に振る。
「わたし、お弁当なんですー。体質的に色々あってー」
「そうだったんだ」
それは知らなかった。昨年から委員会やボランティアで一緒になることが多かった可憐ちゃん。色々話はしてきたけど、少し関わりが多いだけの先輩と後輩。知らないことがあるのは当然だろう。
お腹が空いたまま、午後の授業を受けるのは辛いはずだ。少しだけ身を乗り出して廊下の様子を確認してみる。幸い、周囲に先生方の姿はない。
「可憐ちゃん、チョコレートは食べられる?」
「はいー。というか、好物でーす」
「そっか。それは良かった。ちょっと待ってて」
こてんと不思議そうに首を傾げる可憐ちゃんを置いて、急いで自分の席に向かう。机にかけられた巾着袋からチョコレートを一つ取り出して、可憐ちゃんのもとへと戻った。
「はい、これ」
「……いいんですかー?」
ちら、と上目遣いで可憐ちゃんは私を見つめる。
校内にお菓子の持ち込みは禁止。食べるのは校則違反。私は特別に許可を取っているから許されているけど、こうやって他の子に配るのはさすがに怒られてしまうだろう。
とはいえ今は校則違反を注意する先生方の姿は周りにない。クラスメイトたちも、私たちの様子を気にしている様子はない。
「うん。今なら誰も見てないし。もちろん、このことは内緒にしておいてね?」
口元に人差し指を当ててお願い、と小さく呟く。可憐ちゃんはわかりましたー、と頷いて、私の手からチョコレートを受け取った。
「それじゃあ、いただきまーす」
可憐ちゃんは包装を剥いで、丸いチョコレートを口に運ぶ。小さく開けられた口の中に、鋭い歯があるのが一瞬だけ見えた。
可憐ちゃんはもごもごと口を動かして、満足そうに微笑んだ。
「美味しいでーす。ありがとうございましたー」
「いいえ。お役に立てたのなら良かった」
ごくりとチョコレートを飲み込むと、可憐ちゃんはにやりとした笑みを浮かべる。善良な後輩には少々似つかわしくない悪い顔。悪いと言っても、悪戯っ子のような笑みだけど。
「でも、意外でしたー。九季せんぱいも、悪いことするんですねー」
可憐ちゃんの言葉に首を傾げる。可憐ちゃんは、だって、と言葉を続けた。
「九季せんぱいって、優等生じゃないですかー。成績優秀だし、品行方正って言うんですかー? 校則は破らないし、委員会やボランティア活動には積極的に参加してますしー。なんて言うか、真面目な善人ってイメージでしたからー。こうやって、こっそりお菓子を配るなんてこともするんですねー」
後輩にそんなイメージを持たれていたとは。優等生だとか善人だとか、そんな風に思ってもらえるのは良いことだ。良いことのはずだ。けれども実際の私は善人でもなんでもない。私はただそう振る舞わなきゃいけないからそうしているだけ。善い人でいなきゃいけないから、そう在ろうとしているだけ。だからなんて言うか、みんなのことを騙しているだけなのだ。
可憐ちゃんにチョコレートを渡したのだって、確かに校則は破ってしまうけど、困っている人を助ける方が正しいと思ったから。ただ善い人でいたいから、善い人ならそうすると思ったからそうしただけのこと。
だけどわざわざそれを説明することはない。自分から私は本当は善人でもなんでもありません、なんて言えなかった。だって、本性がバレるのは怖いから。本心を見られるのは、避けたいから。
だから、善い人でいられるような言い訳を口にした。
「今回は特別。可憐ちゃんがお腹を空かせてるみたいだったから。困ってるなら助けるのは当たり前でしょ?」
私の言葉に、可憐ちゃんはそうですねー、と納得したように頷いてくれた。
「でも、善人なのは可憐ちゃんの方でしょ?」
可憐ちゃんも私と同じで一年生の頃から委員会に所属しているし、ボランティアだって毎回参加している。義務感でやっている私なんかとは違って、きっと自発的にやっているのだろう。だから、本当の善人は可憐ちゃんの方だ。
けれど、可憐ちゃんは少しだけ悲しそうな表情を浮かべて首を横に振った。
「いいえー。わたしはやらなきゃいけないから、やってるだけでーす」
その意味深な言葉に、私は疑問ではなく共感を抱いていた。
それを悟られないように、そっか、と軽く流す。追求することはない。深く聞かれたくないことは、誰にでもあるはずだから。
「はいー。っと、それじゃあわたし、教室に戻りますねー。九季せんぱい、ありがとうございましたー。また放課後ー」
ぺこりとお辞儀をして、可憐ちゃんは教室から離れていった。
やらなきゃいけないから、やってるだけ。
その言葉が頭にこびりついて離れない。可憐ちゃんの事情は私にはわからない。それでもその理由は身に覚えがありすぎて。私と可憐ちゃんの気持ちは同じものではないだろうけど、それでもその気持ちには馴染みがありすぎて。
小さく息を吐いて、自分の席へと戻る。
ふと顔を上げると、冷たいアメジストの瞳と一瞬だけ目が合った。でもそれは本当に一瞬で、血分さんはすぐに視線を窓の外へと戻してしまった。
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