5
誰もいない通学路を歩く。人気がないのはいつものことだけど、車一つ通らないのは珍しい。
周囲には田んぼと畑。道のそばには規則正しく並んだ電柱。それから古い空き家や、最近建てられたばかりの民家が点在している。民家の窓は暗くて、ああ、今この場には自分以外の人間が本当に誰もいないみたいじゃないか。
空は燃えるように赤くて、遠くに見えるビル街は真っ黒で影絵のよう。ビル街の方にも明かりらしきものは一つも見えなくて、どうして今日はこんな、世界に誰もいないと錯覚してしまいそうな風景が広がっているのか。
不安定な雰囲気に包まれた通学路。あまり長くここにいると、自分だけがこの世に取り残されてしまったかのように思えてきてしまう。
一刻も早くこの場を離れたくて。知らず知らずのうちに早足になっていく。どんどん速度は上がっていって、もう駆け出してしまいそう。
そんな時に、ふと、見慣れないものが目に入った。
「——なに、あれ」
少し離れた電柱のそばに、何か、白いものがうずくまっている。
赤と黒の景色の中、場違いな白色をしたソレはゆらりと立ち上がった。
どくりと心臓が脈打つ。明らかに危険な状況だというのに、私の身体はぴくりとも動かない。ただただ、目の前の状況を理解しようとするのでいっぱいいっぱい。
ソレがうずくまっていた付近にあった電柱。その根本のあたりに、紅い液体がべっとりと付着しているのが見えた。
見て、しまった。
ひっ、と喉からか細い音が鳴る。鳴らしてしまった。
慌てて口を押さえたけどもう遅い。思わず出た声に気がついたソレが、ゆっくりとこちらを見る。
——化け物。
なんて、今にも叫び出してしまいそうなのを抑え込んでソレを観察する。
化け物の身体は真っ白で、鳥の皮のような肌をしていた。頭からは細い髪の毛のようなものが数本垂れ下がっている。目は穴が空いたように真っ暗で、感情なんてものは全く感じ取ることができない。だらりと開いた口からは、電柱に付着しているのと同じような紅い液体がぼたぼたと零れ落ちている。キラ、と。氷柱のように鋭い牙が光ったような気がした。
——死にたくない。真っ先に浮かんだ言葉はそれだった。
最悪なことに、周囲にはすぐに駆け込めるような建物はない。民家には明かりが一つもついていないし、そもそも人通りも車通りもない以上誰かの助けなんて望めない。防犯ブザーを鳴らして気がついてもらえれば、なんて考えが甘いことくらいわかっている。そんなのは無意味だ。無意味どころか、目の前にいる化け物を刺激して終わり。
——死にたくない。いつ死んでもいいと思っていたくせに、いざその時が来たら心は恐怖に染まっていた。こんなの、情けなくて涙が出そうだ。
化け物を刺激しないように、ゆっくりと後ずさる。私が一歩後ろに下がれば、化け物は私との距離が離れないようにゆっくりと進んでくる。
——死にたくない。だって痛いのは嫌だ。
一歩。
二歩。
三歩。
——死にたくない。だって死ぬのは怖い。
背中を冷たい汗が流れる。じっとりとして気持ちが悪い。
——死にたくない。だって、死ぬのは、私は。
四歩。
五歩——そこで、足が小石に当たった。
かつん、という音がしたのと同時に化け物がこちらに向かって走り出す。
「————っ!」
死にたくない。死にたくない、死にたくない!
化け物が動き出すのと同時に、私は背を向けて駆け出した。
何が起きているのかわからない。どうしてあんなものがいるのかわからない。なんで私がこんな目に遭っているのかは、それだけは、少し、心当たりがあるような気もするけど。
足をもう一歩踏み出そうとして、背後から生ぬるい風が吹く。真後ろに、何かが近づいた気配を感じた。
ああ、私の判断が間違っていた。
相手は人間ではないのだから、頭で判断するよりも早く、考える暇なんてないくらいに早く動かなければならなかった。でもきっと、それも無意味なこと。相手は化け物。その在り方は獣と同じ。たとえ考える前に動けたとしても、人間と獣とではその動きにはあまりに差がありすぎる。
結局のところ、化け物なんかと出会ってしまった時点で諦めるしかなかったのだ。
背中に重たい衝撃が走る。
「あっ⁈」
そのまま、硬いアスファルトの地面に倒れ込んだ。
自分がどうなっているのかがわからない。見えるのは赤い夕焼けと誰もいない道。感じられるのは背中にかかる重さと、死にたくないという恐怖心だけ。
生暖かい息が耳にかかる。息遣いに合わせて、ぼたりぼたりと何かが頭にかかった。ぬるりとした液体が頬を伝う。紅い水滴が、ぽたりと地面に落ちた。
「はぁ、はぁ——っ、は、ぁ——ぁ」
身体がガタガタと震えている。呼吸がうまくできない。視線が定まらない。夕焼け空がぐるぐると回っている。
首元に冷たい感触。細く長い枯れ枝のような何かが、私の首を捕まえた。
「あ」
首が圧迫される。息ができなくなる。
苦しくて苦しくて、身体は勝手に抵抗をするけど、私にのしかかっている化け物はびくともしない。
見えていた景色がぼやけていく。視界が黒一色に、じわじわと塗りつぶされていく。意識が消えていく。私が消えていく。
このままじゃ、本当に死んでしまう。
だけどさっきまでの死にたくないなんて気持ちは、もう湧き上がってこない。抵抗する意思も、生きたいという執着ももうない。
まあ、仕方がないか。だって、この方が良いに決まってる。
そうして諦めて、意識を手放そうとして——
「おい、お前の相手はアタシだろ」
やけに、透き通った声が聞こえた。
私を押さえ込んでいた化け物にもその声が聞こえたのか、ふっと首元に込められていた力が緩む。その機会を逃すまいと、身体が必死に酸素を取り込もうとして咳き込んだ。あまりにも強く咳をするものだから喉が痛い。
声の主に気を取られているのか、化け物が私に危害を加えようとする気配はない。
「ほら、こっちに来いよ」
挑発的なその声に誘われるように、化け物は私の背中から離れた。
私も声の主を見ようと、上半身を起こす。
「血分、さん?」
思わず疑問系になってしまったけど、その姿を見間違えるはずがない。
さらさらと揺れる長い金髪に、宝石のように綺麗な紫色の瞳。私と同じセーラー服の上に黒いだぼっとしたカーディガンを羽織ったごくごく普通、にしては少しだけ目立つ中学生。
間違いなく、私のクラスメイトの血分万妃だ。
けれど今この場にいる彼女には、学校にいる時とは少し違う点がある。何が違うって、小柄でお姫様みたいな彼女の手には、その姿にはおよそ似つかわしくないものが握られていた。
薔薇のように深い赤色をした細長い棒。その先端には鈍く光る、血液を思わせる紅い刃がつけられていた。
可愛らしい姿には不釣り合いな武器を手に、血分さんは化け物に近づく。そこからは、あっという間だった。
危ない、なんて声を上げる暇もない。化け物と血分さんの距離が一気に縮まる。化け物が勢いよく血分さんに襲いかかると、彼女は躊躇うことなく真正面から紅い槍で化け物の腹を貫いた。
化け物の動きがピタリと止まる。
「————!」
奇声を上げながら、化け物の身体は砂のようにさらさらと崩れ落ちてしまった。そうして風に吹かれて、化け物だったものはどこかへ飛ばされていく。
紅い槍が、するりと溶け落ちた。
残ったのは背の低い、可愛らしい少女だけ。茫然と座り込む私は、ただぼんやりとクラスメイトの少女を眺めることしかできない。
血分さんはこちらをちらりと見た後、用はないとでも言うように私に背を向けた。
「え」
いや、ない。それはない。何がないって、このチャンスを無駄にするなんて、そんなの絶対にない——!
「ま、待って!」
できる限りの大声を出して血分さんを呼び止める。これで止まってくれるとは思っていなかった。だからいまだ力の入らない手足を無理矢理動かしてでも追いかけるつもりだったのだが、予想外にも、血分さんはその場から動かなかった。ただ深くため息を吐いて、ゆっくりと振り返る。浮かべているのは無機質な、お人形のような表情。その顔を見て、改めて彼女がクラスメイトの血分さんと同一人物であることを確認する。どうやら本当に、彼女が化け物を退治してくれたらしい。
血分さんはじっと私を見つめた後、呆れたような顔をして口を開いた。
「早く帰った方が良いんじゃないの?」
へ、と思わず声が溢れる。
表面上は冷たいその言葉には、確かに感情という血液が通っていた。呆れたような、心配しているような声。学校ではいつも無表情、無感情な……というよりはどこか怒っているような……彼女のそんな声は、私にとってはひどく意外なものだった。
そんな声を、私にかけるのか。
血分さんは呆気に取られている私の様子を見て、不愉快そうに眉間に皺を寄せる。
「へ、じゃない。さっきの見ただろ? あんなのがウロウロしてんの。なのにここでダラダラしてたら危ないって、そのくらいわかるだろ。ほら、さっさと帰って」
血分さんは足元に落ちていたものを拾い上げて、ぶっきらぼうにそう言った。そっけない言葉の下に、私を心配しているという感情がうっすらと透けて見える。それがまた、私には予想外で。
けれどもそんなことに驚いている場合ではない。彼女の言う通り、いつまでもここでぼんやりしていては危ないだろう。またあの化け物に襲われては堪らない。今度は本当に死んでしまうかもしれない。そんなのはごめんだ。今日は大人しく、早く帰るべきだろう。
身体が動くことを確かめて、ゆっくりと立ち上がる。私が立ったことを確認して、血分さんは手にしていた物を投げてきた。渡されたのは通学鞄。さっき襲われた時に落としてしまっていたらしい。
「あ、ありがとう。えっと」
本当はもう少し話がしたかったのだけど、血分さんの雰囲気が早く帰れと告げていた。だから、せめて別れの挨拶くらいはちゃんとしなくちゃと思って。
「ま、また明日ね、血分さん」
そう口にすると、血分さんは信じられないものを見るような目で私を見つめてきた。
「アンタ、アタシのことが怖くないわけ?」
「え? うん、怖くないよ。だって、血分さんは私のことを助けてくれたし」
それにずっと、見ていたから。
血分さんは怒ったような声でそう、と呟くと、私から視線を逸らしてしまった。
「じゃあ、また明日ね」
「ああ、うん」
挨拶をして、血分さんの横を通り過ぎる。血分さんの表情は影になっていてわからなかった。
だから、彼女が何を思っていたのかはわからない。それでも、私の胸は喜びでいっぱいだった。
血分さんと別れて、だんだんと歩く速度が上がっていく。なんだか居ても立っても居られなくて、ついには駆け出してしまう。
「っ、やった、やった、やったぁ!」
話ができた。やっと、やっと血分さんと話ができた!
こんなのはまだほんの第一歩。願いには遠い。それどころか、明日にはまた話せなくなっているかもしれない。これからのことは何もわからない。けれど、それでもきっと仲良くなることができると、私の願いはすぐに叶うって——何の根拠もないけど、私は勝手にそう信じていた。
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