12
せっかく万妃が来てくれたのだ。どうせなら美味しいものを飲んでほしい。悩みに悩んだ結果、いくつかある茶葉から一番飲みやすそうなものを淹れることにした。
戸棚の奥に仕舞われていた来客用のティーカップに紅茶を注ぐ。
万妃はリビングの椅子に座って、落ち着きなく部屋を見渡していた。万妃の前に紅茶を置くと、万妃は軽くお辞儀をしてこちらを見る。
「どうも。なあ、聞いていいか?」
「なに?」
万妃の正面に座って、ティーカップを手に取る。紅茶を一口飲むと、爽やかな渋みが口の中に広がった。うん。うまく淹れられたんじゃないだろうか。
万妃はティーカップに視線を落として、何やら言いづらそうに口を開いた。
「こんなことを聞くのも失礼だとは思うんだが、その、よくここに一人で住んでるな。なんで引っ越さないんだ?」
万妃の疑問はもっともだろう。普通、自分の身内が何かしらの事件で死んだ場所に住み続けるなんてことはあまりしないんじゃないだろうか。それも、原因も犯人もわからないような事件ならなおさら。現に当時住んでいた住民のほとんどは引っ越してしまったし、新たな入居者もほとんどいない。
それでも、私はここを離れるわけにはいかない。
「そうだね……忘れないため、かな」
「両親のことを、か。まあ、思い出があるから離れたくない、ってのは普通のことだよな」
万妃は納得したように頷いてティーカップを手に取った。カーディガンの裾から覗く白く細い指の先には赤いマニキュアが塗られている。なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして、万妃の手から目を逸らした。
「ん、美味い。そういや、かなめの部屋にも血痕が残ってたんだよな」
「うん、この部屋だね。リビング以外の部屋にはなかったよ」
私の返答に、万妃はそうか、と眉間に皺を寄せて目を瞑る。少しの間そうした後、ふう、と息を吐いて万妃は目を開けた。
「いやしかしアンタよく平気で、いや、なんでもない。悪かった。今のは忘れてくれ。ともかく、事件当時かなめの両親はリビングにいたわけだ。両親がいつも何時くらいに寝ていたかは覚えているか?」
「遅くても十二時には寝てたと思うよ」
頷きながら、万妃は静かにティーカップを机に置く。
「かなめは?」
「十時くらいかな」
万妃はティーカップから手を離して腕を組んだ。
「なら、かなめの両親が襲われたのは事件が起きてすぐ、か? けど絶対とは言えないな。何かがあって遅くまで起きてた可能性もあるし、途中で目が覚めてリビングにやってきたところをって可能性もある。この情報だけじゃ、正確な時間はわからないな」
腕を組んだまま、万妃はティーカップをじっと見つめる。しばらくそうした後、そういえば、と万妃は顔を上げた。
「秋菜、ええと、
黙って首を横に振ると、万妃の表情は暗いものへと変わる。
「そっか。その子もかなめと同じように、一人だけ助かったんだな」
「私と同じように、っていうのは違うよ」
ぴくりと万妃の眉が動く。どういうことだ、と万妃は首を傾げた。
「秋菜はその日、おばあちゃんの家に泊まってたから。だから事件当時はこのマンションには、自分の部屋にはいなかったの」
私の答えに、万妃は意外そうに目を見開いた。だけどその仕草は、どこかわざとらしい。
「なんだって? じゃあ、現場にいて唯一生き残った存在って、そういう」
「うん。襲われた部屋にいて無事だったのは私だけ。他の生き残った人たちの部屋はそもそも襲われてないの。だから、私だけなの。生き残り、なんていうのは」
視線をティーカップに落とす。生き残り、なんて。自分で言っておいて嫌になる。息苦しくて、襟元を握りしめた。
「そう、か。見落とされたのか、見逃されたのか。わざとなのか、偶然なのか。ま、どっちにしても運が良かったな」
「…………そう、なんだろうね」
しん、と部屋が静まり返る。私はこれ以上言葉が出てこなかったし、万妃も何を言うべきか悩んでいるようだった。しばしの間、静かな時間が続く。カチカチと、時計の針が進む音だけが部屋には響いていた。
「まあ、うん、よし。今日はこのくらいにしておくよ」
顔を上げて万妃を見つめる。万妃は罪悪感でも抱いているのか、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「別に、平気だよ?」
「アタシが平気じゃない。っていうか、そんな顔しておいて平気だなんて嘘をつくな」
「……どんな顔、してる?」
訊ねる声が、少しだけ震えた。
「今にも死にそうな顔してる。だからほら、もうこの話はおしまいだ。なんか楽しい話でもしようぜ。気分転換だ」
そう言って、万妃は紅茶を口に含んだ。
雰囲気や見た目、普段の態度から冷たい印象を受けていたけど、万妃は意外と心優しい性格なのだろう。そうでなければ、昨日私を助けることも、わざわざ私と協力することも、今こうして気を遣ってくれることもなかっただろう。
その優しさが嬉しくて、けれど少し、後ろめたくて。ただ、どうしてと思ってしまう。どうして万妃は、私に。それは。それは間違って——。
「うん、やっぱり美味しいよ。これで菓子があればなおいいんだが」
「あ、じゃあ、お菓子も食べよう」
万妃の声にハッとして、鞄から巾着袋を取り出す。薄紫色の巾着袋の口を開くと、中にはたくさんのお菓子。ぎっしりと詰まった巾着袋の中身を見て、万妃はなんだか訝しげな表情を浮かべた。
「この一ヶ月ずっと不思議だったんだが、お菓子の持ち込みって校則違反だよな」
「それを言うなら、万妃のマニキュアも校則違反だよ」
私の指摘に、万妃はさっと手を隠して視線を泳がせる。
「う。い、いや、バレなきゃいいんだよ。こっそりやってるし。けど、かなめは隠したりしてないじゃないか」
「うん、許可取ってるからね。あ、でも万妃は真似しちゃ駄目だよ。さすがに怒られると思う」
「しねえよ! いや、なんでかなって」
万妃が知らないのも当然だろう。わざわざ私の体質についてみんなの前で説明したことはなかったし、これまで万妃個人と話をする機会もなかったのだから。
「私ね、お腹が空くと日常生活に支障が出るの。意識がなくなったりして」
「……へえ、そりゃ大変だな。昔からなのか?」
「うん。小さい頃からずっとそうなんだ。お父さんやお母さんから、お腹が空いたらすぐに言いなさい、何か食べなさい、お腹を空かせすぎることが絶対ないようにしなさい、って。何度も何度も言われてきた。でも」
そこで言葉を止めて、私はまた視線をティーカップに落とす。手は自然に、襟元をいじり始める。
「でも、一度だけ破っちゃったんだ」
あれだけお腹を空かせてはいけないと言われていたのに、私はまあいいか、なんて軽い気持ちでそれを破ってしまった。空腹のまま眠ってしまった。自分の体質を理解していなかったから。自分のことを、正しく認識していなかったから。
「その時にすごく迷惑をかけたから、今はもう約束を破らないように気をつけてる」
「……そうか」
万妃は納得してくれたのか、頷いて巾着袋に手を伸ばした。万妃が手に取ったのはマシュマロ。透明な包装を破って、白く柔らかい塊を口に運ぶ。あ、と万妃はわずかに口を開けた。鋭い犬歯が二つ。ざくりとマシュマロに歯が沈み込む。歯が差し込まれたところから、マシュマロは二つに引きちぎられた。
ただマシュマロを食べているだけ。なのに、まるで映画のワンシーンのようだった。そう、白い首筋に歯を突き立てる吸血鬼、のような。
ぼんやりと眺めていると万妃と目が合う。アメジストの瞳が不思議そうに私を見つめた。
「えっと、そういえば、今回の事件の調査についてだけど」
私が言葉にした瞬間、万妃の表情はあからさまに面倒くさそうなものへと変わる。今回の事件に私を関わらせるのがよほど嫌なのだろう。私としても、正直に言えば関わりたくない。自分にできることがあるとは思っていないし、何より死にたくはない。死にたくは、ないのだ。今回の事件に関わることが危険だということは百も承知だ。それでも秋菜が今回の事件を調べると決めたのなら、秋菜が巻き込まれる可能性が少しでもあるというのなら放っておくわけにはいかない。
それ以前に、どれだけ嫌でも私にはこの事件を解決しなきゃいけない理由がある。その義務が、責任があるはずだ。たとえ今回の事件が、五年前の事件とは無関係なのだとしても。
「かなめは一般人だろ。正直、危ないから連れ回したくない」
「でも約束、したでしょ?」
そう告げると、万妃は大きくため息を吐いた。そうして腕を組んで考え込むような仕草をした後、もう一度ため息を吐いて口を開く。
「アタシは毎晩街を見回って昨日の、グールっていう化け物を退治してる。仕方ないから、今日はその見回りに連れてってやるよ。特別だ」
特別、という言葉にどきりとしてしまう。万妃にとって私が特別な存在、という意味合いじゃないことはわかってる。それでも、なんとなくそうであってほしいと、そうなんじゃないかという期待をしてしまって。
「ただし、明日も連れて行くかどうかはまた考えさせてくれ」
いいな、と万妃は私を見つめる。
「うん。ありがとう、万妃」
お礼を言うと、万妃は険しい顔をしてびしりと人差し指を私に突きつけた。
「いいか、絶対にアタシから離れるなよ。あと、守りきれなくても文句は言わないこと」
怒っているように見えるけど、ただ心配してくれているだけだとわかるような口ぶり。うん。万妃は少し、優しすぎるんじゃないだろうか。
「うん、わかってる」
思わず緩んだ私の表情を見て、万妃は微妙な顔をする。なんとも言えない顔をしたまま、万妃は残っていたマシュマロを頬張った。
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