18

 秋菜に何も言えないまま、私は用事があるなんて嘘をついて教室を出た。いや、用事があるのは嘘じゃない。私には可憐ちゃんを調べるという大事な仕事があるのだから。

 とはいえ、何をするべきかさっぱりわからない。まずはやっぱり、本人と話をしてみるのが良いんじゃないだろうか。そう思って可憐ちゃんの教室にやって来たのだが、教室内に可憐ちゃんの姿は見当たらない。

 本人がいないのなら、クラスメイトや友人に話を聞いてみるしかないか。


「あ、ねえ」


 たまたま教室の出入り口付近にいた子に声をかけてみる。少女は不思議そうに首を傾げはしたものの、話は聞いてくれそうな雰囲気だ。


「可憐ちゃん、知らないかな?」

「ああ。可憐なら、たぶん理科室ですよ」

「理科室?」


 授業の準備でも手伝わされているのだろうか。私が疑問を抱いたのが伝わったのか、少女は詳しく説明をしてくれた。


「可憐、楽美先生のお気に入りなんですよ。っていうか、一緒に住んでるんですよねあの二人。だから楽美先生は可憐のことすごく気にしてるっていうか、大好きっていうか」

「えっ、二人って親戚なの?」


 それは初めて聞く話だ。まさか二人が血縁関係だったなんて。

 だが、どうやらそれは違うらしい。少女はいえいえ、と首を横に振る。


「違いますよ。楽美先生、可憐のお母さんの友達だったらしくて」


 そう言って、少女はあー、と何かを躊躇っている様子で視線を逸らす。


「まあ、先輩になら言ってもいいか」


 少女は小さな声でそう呟いて、可憐ちゃんの事情について詳しく語り始めた。


「可憐の両親、十年前に交通事故で死んじゃったんですよ。で、可憐のお母さんの友達だった楽美先生が可憐を引き取ったんです。それ以降、楽美先生は可憐の保護者となったのでした」


 ということはもしかして、可憐ちゃんのクッキー作りを手伝ってくれたのは伴場先生だったのだろうか。他に一緒に住んでいる人はいないみたいだし、おそらくそうなのだろう。

 でも、その時のことを話していた可憐ちゃんはなんだか。


「楽美先生は可憐のことが大好きだから、昼休みはほぼ毎回呼び出してるんですよね。だから今日も、理科室にいるはずです」

「そうだったんだ。教えてくれてありがとう」


 いえいえ、と手を振る少女に小さくお辞儀をする。それにしても、どうしてこの子はこんなにすらすらと可憐ちゃんについて教えてくれたのだろうか。


「九季先輩ですよね。可憐から、良い人だって聞いてますから。だから可憐のこと、話しても大丈夫かなって」


 えへへ、と少女は舌を出して笑う。


「そっか……信用してくれて嬉しいな。ありがとう」


 じゃあね、と手を振って可憐ちゃんの教室を後にする。

 良い人、か。可憐ちゃんがそういう風に思ってくれていることも、可憐ちゃんの友達がそれを信じてくれていることも、素直に嬉しい。けれど、少し。イガイガとした気持ちが喉に引っかかって苦しい。胸には重たい何かが溜まっているようで、それを軽くしたくて息を吐き出した。

 二年生の教室を離れて理科室のある棟へと向かう。

 授業がない時間、こっちの棟には人気がない。誰かいるとしたら先生方か、昼休みにまで部活の練習をする真面目な吹奏楽部員くらいだろう。

 誰ともすれ違わないまま、理科室にたどり着く。閉ざされた扉に手をかけようとしたところで、中から話し声が漏れていることに気がついた。


「…………まーす」


 聞き覚えのある声。間違いない。可憐ちゃんだ。


「ところで、可憐ちゃん。今日のお弁当は美味しかったかしらァ?」


 扉越し。やけにはっきりと、伴場先生の声が聞こえた。


「あんなもの、美味しくなんてないでーす」


 敵意を孕んだ、怒りの声。弁当の感想には相応しくない。


「あら、悲しいわァ。せっかく頑張って用意したのにィ」

「本題に入っていいですかー」


 泣きそうな声をした伴場先生をバッサリと切り捨てて、可憐ちゃんは棘のある声を出した。やっぱり、可憐ちゃんは伴場先生のことをよく思っていない。よく思っていないどころか、これは。


「もう、せっかちねェ。あたしとしては、可憐ちゃんには何もしてほしくないのよォ?」

「あなたに任せていたら、ろくなことになりませんからー。それに目的が違いまーす。わたしはただあいつを殺したいだけ。あいつさえ殺せば、わたしもあなたのせいでグールになった人たちも、みんな救われまーす。みんな、解放されまーす。……でも、あなたは違いますよねー」


 ピリ、と空気に緊張が走る。張り詰めた空気が理科室から漏れ出していた。


「あなたの目的は、願望は変わらない。解毒剤を作るつもりなんて、ないんでしょ」


 いつものだるだるとした喋り方とは違う。冷たく、刺すような、張り詰めた声。空気はギリギリと絞られていく。一歩も動くことができない。指一本、動かすことができない。

 扉の向こうで、伴場先生がニタリとした笑みを浮かべているような気がした。


「もちろん。だって可憐ちゃんにはあたしと同じように、不老不死になってもらないとォ」


 伴場先生が、不老不死?

 気になる言葉ではあるものの、今はただ二人の会話を聞くことしかできない。


「擬似的な不老不死、の間違いですよねー。どちらにしても、そんなのはお断りでーす」

「でもそのお弁当を食べ続けるのはもう嫌なんでしョ?」


 限界まで引き絞られている空気が、さらに締め付けられる。可憐ちゃんは返事をしない。


「大丈夫、あたしに任せて! 可憐ちゃんの手は汚させないわ」


 ぱっと明るい声が響いた。けれど空気はヒリヒリとしていて、痛くて、重たくて。


「とっくに汚れてまーす。あなたも、わたしも」


 理科室の中。足音が聞こえた。おそらく可憐ちゃんが理科室を出て行こうとしているのだろう。ここにいてはいけない。話を聞いていたことがバレてしまう。

 急いで扉から離れようとしたところで、ゾクリと。


「罪悪感を抱くのは立派だけどォ」


 悪寒が走る。内臓にぞわりと鳥肌が立つような感覚。心臓が早鐘を打つ。呼吸が浅くなる。身体が動かない。動かせない。

 その言葉は、誰に向けられたものなのか。


「生きるために喰べることは悪いことじゃないのよォ?」


 扉の向こう。見えないはずの翠の瞳は、今この瞬間、間違いなく私を捉えていた。


「ねえそうでしょう、かなめちゃん?」


 名前を呼ばれたのを合図に、足が勝手に動き出す。

 バレていた。存在が、聞いていたことが、考えていたことが、何もかもがあの人には見透かされていた。とてもじゃない。怖い。どうして。理解ができない。したくない。危ない。捕まったら殺される。何を根拠にとは思うものの、それが真実であると答えられない領域で理解していた。


「は、は、は、ぁ——っ」


 走る。走る。走る。

 誰もいない棟を飛び出して、教室棟に辿り着いても足は止まらない。こちらを振り返る生徒たち。走るなよと軽く注意をしてくる先生たち。みんな無視して、私は自分の教室に辿り着くまで走り続けた。

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