45
ああ、と万妃が頷いたのを確認して、ビルの床を蹴った。ふわりとした浮遊感は一瞬。すぐに地面へと力強く引き寄せられていく。落ちる最中、万妃が自身の腕に噛み付いた。腕から飛び散る血液。飛び上がった血は即座に槍の形へと変形して、秋菜のもとへと降り注いだ。
繋いでいた手を離す。万妃は地面を蹴って跳び上がる。私は真っ直ぐに秋菜の方へと駆け出す。その瞬間、大量の口が私たちの周囲に現れた。それを、腕を薙ぎ払って切り裂く。
槍の雨に降られた秋菜の身体はずたずたに切り裂かれていたけど、すぐにその傷は消えて元通りに。振り返ることもなく、秋菜はただ前に進んでいく。何にも目を向けることなく歩き続ける秋菜の正面に、万妃が降り立った。万妃が着地した瞬間、万妃の足元が黒く染まる。ぱかりと、地面に現れた口が大きく開かれた。
「!」
口に飲まれる。体勢を崩して落ちかけた万妃を、風を操って吹き飛ばす。風に吹き飛ばされた万妃はくるりと回転して口から離れた場所へと着地した。
近づいてくる口を切り裂きながら、秋菜のもとへと向かう。風に乗せて白い刃を飛ばすけど、それが突き刺さっても秋菜の動きは止まらない。傷はすぐに塞がってしまう。
どうしたら秋菜を傷つけられるのか。止められるのか。少なくともこのまま普通に戦い続けても勝ち目はないだろう。おそらくいくら秋菜のことを攻撃しても、秋菜の傷はすぐに塞がってしまう。
今の秋菜は吸血鬼の魔喰いと窮奇の魔喰いの力を得た存在。人間を喰い続ける限り、秋菜の生命力が枯れることはない。治癒能力が下がることはない。ならまずは、人々や建物を喰らい続ける口を消すべきだ。
けど、この数は。
街中に現れた口。今も人々や建物を喰べている口。それを少しずつ切り裂くなんてことは——なら。
「私が、全部喰べる!」
手を振り上げて、大量の口を周囲に展開する。現れた口たちを操って、片っ端から秋菜の口を喰べていく。秋菜ほど大量に口を用意することはできていないから、無駄な抵抗かもしれない。それでも繰り返していれば、秋菜の口を減らすことも、喰べた分だけ力を得ることもできる。今以上に口を街に展開できる。被害を減らせるようになる。まあさすがに、上空に現れたあの大きな口を喰べられるようにはならないだろうけど。
私が秋菜の口を喰べている間も、万妃は秋菜への攻撃の手を止めない。秋菜の身体を無数の槍が貫いていく。万妃は自身の血で足場を作って、なるべく地面に降りないようにして戦っているようだった。だがその足場も、秋菜の口が喰べていく。万妃は流れた血から足場や武器を作り続けているけど、いつまでもそうしているわけにはいかない。
「! 万妃、上!」
万妃の頭上に、突如紅い刃物たちが現れた。万妃は私の声に上を見上げたが、その直後、足場が一斉に秋菜の口によって喰らい尽くされる。足場を失った万妃は地面へと落ちていく。その先には大きく開かれた口。風を操って万妃を口から離れたところに飛ばす。口からは逃れることができたが上空からの刃物の雨は避けられそうにない。万妃が地面に着地したその瞬間、刃物が放たれた。槍を動かしてそれを弾く万妃。その腕を、突如現れた口が噛みちぎった。
「ぐ、あ」
顔を歪めながら、万妃は肘から先が消えた右腕を前に出す。傷口から噴出する血液が盾のようになって万妃を守る。けれどその盾はすぐに砕けてしまう。降り注ぐ刃物に、万妃の身体はずたずたに切り裂かれた。
万妃の身体が揺れ動く。地面に倒れかけた万妃は、身体に力を込めてなんとかそれを耐えたようだった。
万妃の身体はボロボロ。傷は塞がらない。治らない。満身創痍。このままでは万妃が死んでしまう。少し休むべきだ。
口は展開させたまま、万妃のもとへと駆け出す。万妃のそばには複数の秋菜の口。真上には紅い凶器たち。万妃を守るように口を展開する。万妃を攻撃しようとするそれら全てを飲み込もうと大きく口を開く。それと同時に、万妃の周囲に展開されていた凶器が発射された。万妃に近づこうとしていた秋菜の口たちも口を開いて襲いかかる。
「だ、め!」
その全てを、一口で飲み込んだ。苦いような酸っぱいような、とてもじゃないが美味しいとは言えない味が口いっぱいに広がる。ああ、これは
私が近づいてきたことに気がついた万妃が顔を上げる、アメジストの瞳は濁っていて、焦点が合っていない。
「万妃!」
ひょいと万妃を抱え上げて走り出す。秋菜が私たちを追いかけることはなかった。
ビルとビルの隙間。秋菜の姿が確認できるところに逃げ込む。口を操り続けながら、周囲の様子を確認する。
秋菜の口は減っていってはいる。だけど全部を喰い尽くすことはやはり難しそうだ。いくら私がたくさん口を操れるようになったとしても、秋菜はすでにたくさんの人や建物を喰らって膨大な力を得てしまっている。それだけじゃない。あの注射の影響も大きいのか、人を喰らっただけ……だけという言い方は適切じゃないけど……とは思えないほどの力を得ている気がする。万妃の血と私の血、それと秋菜自身との相性が良かったのか。それともあの注射にはまだ他に何かが混ざっていたのか。秋菜に何が起きているのか、どうしてこうなっているのかがわかることは、ないのだろうけど。
ゆっくりと万妃を地面に下ろす。万妃はぼんやりとした様子で壁に身体を預けて座り込んだ。傷ついた身体からの出血は止まらない。噛みちぎられた腕はまだ治らない。
「ち、が」
ぜえぜえと息を吐きながら、万妃が小さく漏らす。
「ち……血?」
こくりと万妃が頷いた。もしかしなくても、今の万妃は血が足りていないのだろう。
襟元を開けて、首を万妃の口に近づける。
「飲んで、万妃」
小さく息を吸う音。万妃は躊躇っているようだったけど、私がもう一度飲んで、と言うとゆっくりと口を近づけて私の首に歯を立てた。ず、と万妃の歯が沈み込む感覚。私の中身が吸われていく。ごくりごくりと喉を鳴らして、万妃は私の血を飲んでいる。
万妃に血を与えて、それから、それからどうするべきか。私の口は相変わらず秋菜の口を喰べ続けているけど、秋菜の口の生成速度には追いつけていない。何の役にも立っていないということはないだろうけど、それでも何もしないよりはマシレベル。決定的な何かにはならないだろう。
いっそ秋菜の治癒能力が落ちるか失われれば。傷が塞がらなければ。強力な攻撃を与え続けることができれば。
でも、私には——。
「あ」
できないことは、ない。
五年前の事件の記憶。私の祝福と呪い。
うん、いける。問題は。
私の首元から、万妃がゆっくりと歯を抜き取った。
万妃の傷は治っている。落ち着いた様子で、万妃は顔を上げてビルの隙間から身を乗り出した。黙り込んだまま、じっと秋菜の様子を見つめている。
その姿を眺めながら、悪人について考える。万妃の悪について。万妃が善人であると判断してしまえば、私の祝福が万妃にかかることはない。かけることができたとしても、万全な状態にはならない。でもどこか、少しでも万妃が悪人であると思えれば。
たとえば五年前の事件について。万妃はずっと仕事をサボっていたと言っていた。うん、それは悪になるだろう。事情はあったのかもしれないが、やるべきことをやっていなかったのだから。
たとえば今回の事件について。可憐ちゃんや伴場先生、無関係な一般人がグールになってしまったのは万妃の血があったからだ。万妃に悪気はなかったとはいえ、原因であることに違いはない。ならば悪と言っても間違いではないはずだ。
あと、あとは。
秋菜を殺そうとしている。もうどうにもならないのだとしても、他に方法はないのだとしても、みんなを助けるためなのだとしても。それでも他の誰かを殺すことは悪だろう。どんな理由があろうとも、他人を、自分以外の他の存在を殺すことは悪のはずだ。
これで三つ。三つは祝福を付与できる。
秋菜を見つめていた万妃が振り返って首を横に振った。
「ダメだな。アタシたちだけで止められるとは思えない。ここは一旦撤退を」
「ううん。逃げる必要はないよ、万妃」
は、と驚いた様子で万妃が首を傾げる。
「まだできることはある。万妃に三つ、祝福を付与する。善人を喰らい、悪人に祝福を与える。それが私の根本的な在り方。だから」
私の言葉に、万妃は少々不機嫌そうな表情を浮かべて腕を組む。
「アタシのどこが悪だって?」
「誰にでも少しはあるでしょ、悪いとこなんて。それに万妃、言ったじゃん。善悪なんて時間や立場が変われば簡単に変わるんだ、って。なら、そんなに気にするようなことでもないんじゃない?」
今回私は悪だと考えたけど、でも見方を変えれば悪にはならないことだ。完全な悪、絶対的な悪などではない。そんなものは、ないのだ。
万妃は呆れたようにため息を吐いた。そうして頭をガシガシと掻いて、改めて私を見つめる。
「で、具体的には?」
真剣な瞳で訊ねる万妃。その視線に、少しだけ不安になる。これでいいのか。うまくいくかはわからない。
それでも、私に思いつく方法はこれしかない。
「一つ。攻撃力の強化。一撃一撃が重くなる。これで簡単に秋菜を傷つけられるようになるはず」
まずは相手に傷をつけることができなければならない。深く傷を与えれば、その分出血も酷くなる。そうすれば、秋菜はどんどん弱体化していくはず。
でもそれだけでは駄目。傷はすぐに修復されてしまうから。だから。
「二つ。つけた傷が治りにくくなるようにする。たもえば足を切り落としたらしばらくは切り落とされたままに。腹を切ればその傷口はしばらく開いたままになる。けどずっとそのまま、ってわけにはいかないから、あくまでも傷の修復速度を遅くするだけになるけど」
傷が治らなければ出血が止まることはない。秋菜が弱体化することは免れないだろう。
「最後。万妃に私が摂取した生命力を流し込む。そうしておけば、万妃の血が尽きることはないはずだよ」
秋菜の口を喰べることで私も少しは生命力を得ている。秋菜が喰べてしまった人たちはもう秋菜に吸収されてしまっているから、人間を喰らった時ほど得られているわけじゃない。あくまでも秋菜の口の分。秋菜が外に出しているだけ。今私が持っているのはその分と、昨日人々を喰らった分。それらを万妃に流し込み続ける。そうすれば、万妃は自分の負担を気にしすぎることなく戦えるだろう。
三つの祝福の内容を聞いて、万妃は腕を組んで考え込む。はあ、と小さなため息が聞こえた。私を見つめる万妃の口元には、小さく笑みが浮かべられている。
「絶対にいける、とは言い切れないが、ああ。そんだけ貰えりゃ、勝ち目はある」
万妃はしっかりと背筋を伸ばして、ビルの隙間から出ていく。その後ろを追いかけて、私も表通りへと出る。
万妃の手には紅い槍。わずかにこちらを振り返った万妃が、ニヤリと笑みを浮かべた。
「いいぜ、乗った。たんまり寄越しやがれ!」
「——うん!」
三つの悪に三つの祝福を。
万妃の身体に力を注ぎ込む。
一つ。ふわりと金の髪が持ち上がって揺れた。
二つ。万妃の身体が淡い光に包まれる。
三つ。万妃の全身に力が満ちていくのが感じられた。
ぐ、と。万妃が槍を握りしめた。
「思いっきりやって、万妃!」
「ああ、任せろ!」
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