20

 白い明かりに照らされた道を歩く。すれ違う人たちは私たちを一瞬だけ見るものの、特に気にした様子もなく通り過ぎていく。若い女の子二人がこんな時間に何を、とでも思われているのだろう。

 けれど、こんな時間出歩いている女の子は私たちだけではなかった。


「万妃、あれ」


 私たちの数メートル先。見覚えのある少女の姿がある。後ろで結んだ髪の毛を揺らしながら、可憐ちゃんはふらふらとビルの隙間へと消えていく。そこはちょうど、昨日可憐ちゃんを見失った路地裏の入口だった。

 万妃は無言のまま、少しだけ速度を上げて可憐ちゃんを追いかける。

 暗い道。先は見えなくて、可憐ちゃんの姿はとっくに闇の中に消えてしまっていた。それでも万妃は迷いなく路地裏を進んでいく。

 辿り着いたのは昨日と同じ行き止まり。けれど昨日とは違って、壁の前には可憐ちゃんの姿があった。


「九季せんぱい」


 ゆら、と可憐ちゃんが顔を上げる。その表情は、険しい。


「どうして、血分せんぱいと一緒にいるんですかー」


 空気に緊張が走った。怒っているのか、警戒しているのか。可憐ちゃんを包む空気は刺々しい。


「今回の事件の犯人を、一緒に探してるんだ」


 私の言葉を聞いて、可憐ちゃんの視線が鋭くなる。


「どうして、他の人じゃないんですかー。たとえば、木村せんぱいとかー」


 抱いて当然の疑問を、可憐ちゃんはぶつけてきた。調査をするのなら、同じ被害者である秋菜と行うのが自然だ。どうして万妃なのか。万妃のことを知らなければ、私の事情を知らなければ、そう思うのは自然だろう。


「木村せんぱいと一緒ですよねー。犯人を探しているのも、捕まえたいのも。意見は一致しているのに、どうして木村せんぱいと組まないんですかー」

「……秋菜は、巻き込みたくないから。それに、私と秋菜の意見は一致してないよ。秋菜が探してるのは五年前の事件の犯人だけど、私が探してるのは今回の事件の犯人だから」

「だとしても、なんで血分せんぱいなんですかー。危ないことに巻き込まれるって、わたし、言いましたよねー」


 ギリ、と空気が引き絞られる。可憐ちゃんの視線は鋭い。けれどその射抜くような視線は、私じゃなくて万妃に向けられている。


「万妃なら手伝ってくれると思ったから。万妃となら、できるって思ったから。万妃ならって、思ったから。たとえ危ないことに巻き込まれるんだとしても、万妃と一緒なら大丈夫だって思ってる」


 可憐ちゃんは驚いたように目を少し見開いて、そうしてまた怒ったような、心配しているような表情へと戻る。


「今なら、今ならまだ引き返せまーす。九季せんぱい、早くそいつと手を切るべきでーす。それで、今日はもう帰って寝てくださーい。そしたらまた、明日からはいつも通りの日常に戻れまーす。まだ九季せんぱいは、明日からまた、平和に、普通の日々を」


 ぎゅ、と可憐ちゃんの両手が握りしめられた。その手はどうしてか、小刻みに震えている。


「心配してくれてるんだよね。ありがとう、可憐ちゃん」

「っ、なら」

「でも、ごめんね」


 可憐ちゃんは、凍りついたように動きを止めた。驚いたような表情を浮かべて、茫然とした様子で私を見つめている。目は逸らさない。これは、譲れないから。


「私は万妃のパートナーだから」


 ぴくりと、万妃の肩が僅かに揺れた。


「少なくともこの事件を解決するまでは一緒にいるつもりだし、今更引き返すつもりなんてない。ううん。今更、引き返せない」


 あの日の時点で、私はもう逃げられなくなっている。もうどこにも、逃げられないとわかっている。逃げちゃいけないんだって、ちゃんとわかってる。

 可憐ちゃんは目を見開いたまま、しばしの間ぐらぐらと瞳を揺らす。けれどもすぐに、その表情は先ほどよりも厳しいものへと変わった。

 刺すような視線が、万妃に向けられる。万妃にだけ、向けられていた。


「っ、なら、今ここで!」


 周囲の空気が大きく揺れた。可憐ちゃんを中心に風が吹き始める。舞い散る砂から目を守ろうと腕で顔を庇っていると、やがて強風は収まった。

 腕を下ろして、可憐ちゃんへと視線を向ける。

 青白い肌に裂けたような口。窪んだ黒い穴には翠色の瞳が嵌め込まれている。後ろでまとめられていた焦茶色の髪の毛は瞳と同じ翠へと変化して、わずかに伸びているように見えた。

 可憐ちゃんがゆっくりと青白い手を掲げる。それと同時に、上空からどさどさと数体のグールが落ちてきた。呻き声をこぼしながら、グールたちは私たちを取り囲む。ぺたりぺたりと張り付くような足音を立てて、グールたちは近づいてくる。

 万妃はぐるりと周囲を見渡して、迷うことなく自身の腕に歯を突き立てた。


「今ここで、死んじゃえ!」


 可憐ちゃんの叫びをきっかけに、グールたちが駆け出した。万妃は地面に足を踏み込んで、襲いかかってきたグールたちを槍で弾き飛ばす。ビルの外壁や地面に叩きつけられたグールたち。けれども彼らはその程度では諦めない。止まらない。すぐに体勢を立て直して、再び私たちに襲いかかる。黒く底の見えない穴は、今日は万妃に向けられているように見えた。


「お前の目的はアタシだろ、可憐!」


 グールの相手をしながら、万妃は可憐ちゃんに呼びかける。可憐ちゃんは一瞬瞳を揺らしたものの、ぐ、と唇をかみしめて万妃を睨みつけた。


「そうでーす。わたしの目的は血分せんぱい、あなたでーす」


 どうして、と声をかけようとして、可憐ちゃんが顔を歪めたのが目に入った。それはまるで、今にも泣き出してしまいそうな表情で。


「わかってるでしょ、血分せんぱい」


 その言葉に、万妃の槍の動きが鈍くなる。グールたちはその隙を逃すまいと腕を振り上げて万妃に駆け寄った。鋭い爪が振り下ろされる。万妃はすぐに槍を握り直してグールを弾き飛ばした。


「わたしがあなたの血を飲まされたグールなんだってこと。それを、今ならはっきりと感じられますよねー」

「っ」


 飛びかかってきたグールの腹を貫くはずだった槍が大きく揺れる。狙いは外れ、槍はグールの横腹を掠めた。痛みから小さく悲鳴を上げるがグールの動きは止まらない。振り上げられた手が万妃を切り裂く間際、万妃はグールの腹を蹴り上げた。腹部を蹴られたグールは呻き声を上げて地面に転がる。


「可憐ちゃんは、どうして」


 どうして、グールに。

 私の問いかけに、可憐ちゃんは俯く。手は口元に。がり、と爪を噛む音が聞こえた。


「死なせないため、だそうでーす」


 万妃は地面に転がったグールに足を乗せ、その身体を槍で貫く。低く掠れた呻き声を上げながら、グールは崩れ落ちた。

 一息つく暇もなく、万妃の背後からグールが飛びかかる。万妃は槍を持ち直してグールたちを薙ぎ払った。


「あいつの一番好きだったお母さんが死んで、あいつは、あいつは死を恐れるようになりましたー。わたしが死ぬことを、恐れましたー。死んでほしくない。死なせたくない。なら、いっそ、不老不死にしてしまえばいい、ってー」


 がりがりと、可憐ちゃんは指の爪を噛み続ける。あいつ、という呼び方には敵意と怨念、そしてどこか、親しみのようなものが込められているような気がした。


「そんな身勝手な理由で、あいつはわたしに血分せんぱいの血を飲ませましたー。今思い出しても吐き気がしまーす。どろりと喉に絡みつく感覚と、気持ちの悪い鉄の味」


 翠の瞳が闇の中で鈍く光る。可憐ちゃんの瞳は万妃に向けられている。万妃は可憐ちゃんを見ることはなく、グールたちの相手を続けていた。ただそれでも可憐ちゃんの話は聞いているのだろう。時々槍の動きが悪くなっていた。


「あいつは、そうすればわたしが不老不死になると思っていたんでしょう。けど、結果はこのザマ。あいつは上位のグール、血分せんぱいに近い吸血鬼もどきに。わたしはただの、中級程度のグールになりました」


 苛立ちか悲しみか。可憐ちゃんの声はわずかに震えていた。


「可憐ちゃんの言うあいつ、って」


 周囲の気温が下がったような感覚。がり、と音が鳴る。可憐ちゃんが口をつけていた親指の先に、血のようなものが滲んでいるのが見えた。


「そうでーす。伴場楽美。あいつが、あいつがわたしを、みんなを、こんな、こんな——」


 薙ぎ払ったことで一時的に開いていた万妃とグールたちの距離が縮まる。がぱりと、顎が外れてしまいそうなほど大きく口を開けてグールは万妃に噛みつこうとした。その大きく開かれた口に万妃は深々と槍を突き刺す。血飛沫のようなものがグールの後頭部から飛び散った。

 彼らに感情はない。恐怖はない。だから、たとえどれだけ目の前で同類が死んだとしても、彼らの動きが鈍ることはない。


「あいつが」


 ぼそりと、可憐ちゃんが暗い声を漏らす。


「あいつがいなければ。あいつがいたせいで。ううん。あいつだけじゃない」


 暗闇の中。淡く光る翠の瞳が万妃を睨みつけている。怨念のこもった視線が、万妃に向けられている。


「お前が、お前がいたからあんなことに。今だってこんな、こんなことが、みんながグールに。だからお前なんて、お前さえ、お前さえいなくなれば。親元であるお前が死ねば、わたしもみんなも、もうこんなことしなくて、もうこんな目に遭わなくていいはずなのに。もう、楽になれるはずなのに——お前さえ、お前さえいなければ——!」


 可憐ちゃんの叫びに呼応するようにグールたちが叫び出す。

 グールは残り三体。地面を蹴って、一斉に万妃へと飛びかかる。万妃はぐるりと槍を回して彼らの腹を切り裂いた。深く切り付けられた一体が、腹からぼたぼたと血液のようなものを溢しながら崩れ落ちる。残りは二体。切り裂かれたことでわずかに怯んだものの、二体ともすぐに動き出す。呻き声を口から漏らしながら、グールたちは万妃に喰らいつこうと大きく口を開けた。すっと暗闇に紅い線が浮かび上がる。万妃は槍を動かして彼らの口を真っ二つに切り裂いた。紅黒い液体が辺りに飛び散る。飛び散った液体は僅かに万妃にもかかっていた。

 万妃は動きを止めて息を吐く。そうして、ゆっくりと槍を持ち上げてその先端を可憐ちゃんに向けた。

 恐怖からか、可憐ちゃんが後ずさる。けれども逃げ場はない。後ろは行き止まり。今の可憐ちゃんならきっと飛び越えて逃げることくらいはできるのだろう。だけど可憐ちゃんは逃げ出さない。ただ少し怯えた瞳をして、じっと万妃を見つめていた。

 万妃は可憐ちゃんに槍を向けたまま、動かない。万妃の表情は見えないけど、ただ、槍の先が小さく揺れ動いているのが目に入った。


「っ、可憐」


 万妃が口を開きかけて、そして、黙り込む。万妃は何かを言おうとして、けれども何も言わないまま可憐ちゃんから顔を逸らした。


「——んで」


 可憐ちゃんの目が見開かれる。そうして、ぐしゃりと顔を歪めて万妃を睨みつけた。その瞳にはじわじわと涙が溜まっていく。肩は小刻みに震えていて、下ろされた両手は力強く握りしめられていた。


「なんで、なんで躊躇うんですか。なんで攻撃しないんですか。なんで殺さないんですか!」


 可憐ちゃんの叫びを聞いても、万妃は動かない。可憐ちゃんの目にはますます涙が溜まっていく。もう、今にもこぼれ落ちてしまいそうで。


「わたしはグールなんですよ、化け物なんです。最低で最悪な、人喰いなんですよ⁈」


 がぱ、と大きく口を開けて可憐ちゃんは訴える。その言葉に、万妃の槍がぴくりと動いた。


「わたしはこの身体になってからずっと、ずっと人間を喰べてきました。普通の食事は栄養にならないから。人間を喰べなきゃ生きていけないから。死なないために、生きるために、ずっとずっと人間を喰べてきたんです。夜部市内だけじゃない。この県全域。県内で毎年毎年行方不明者がたくさん出ていること、知ってますよね?」


 一年で平均、百人近くの人が行方不明になったまま見つからない。それはこの県に住んでいる人のほとんどが知っていること。毎年ニュースで取り上げられては、解決策も対応策もないまま、ただ注意だけが呼び掛けられていた。


「この街で、この県内でずっと起き続けている行方不明事件。その犯人は、わたしとあいつなんです。あいつがみんなを殺して、血を飲んで、それを、それを私が——っ」


 可憐ちゃんの瞳から、涙がこぼれ落ちた。涙をこぼしながら、可憐ちゃんは自身の罪を吐露した。

 死なないため。生きるために可憐ちゃんは人々を喰べてきた。可憐ちゃんがもう食べたくないと思っているあのお弁当。あの中身は、この街に住む人間たちを使った料理だったのだろう。

 罪の告白を聞いても、万妃は槍を動かさない。ただ槍の先を可憐ちゃんに向けたまま、黙り込んでいる。


「っ、なんで動かないんですか⁈」


 びり、と空気が震えた。


「どうして血分せんぱいは動かないんですか! 今の話を聞いても、まだ戦わないつもりなんですか⁈」


 万妃は動かない。


「もう、もうわかってるでしょ? わたしは危険な存在なんだって。生かしてはおけない存在なんだって。殺すべき存在なんだって。殺されて当然の悪なんだって!」


 悪。それは、それはきっと正しい。人を喰べる存在は、決して善ではない。たとえ生きるためでも、善とはされない。


「こんなの、こんなの殺されて当たり前でしょ⁈ 殺すべきだったわかってるでしょ⁈ ちゃんと、早くその槍を動かしてよ! 早く、早く、ねえ、ねえってば!」


 可憐ちゃんの言葉を思い出す。委員会もボランティアも、やらなくちゃいけないからやっているだけ。その言葉の真意は、私と同じだったのだろう。償いとして善いことをしなければならない。善いことをすることで少しでも罪悪感を和らげたかった。ただ、それだけのこと。

 たくさん人を殺してきた。生きるためとはいえ、何の罪もない人々に危害を加えて生きてきた。何の罪もない人々の幸福を、生きる権利を踏み躙って生きてきた。そんな自分は罰せられるべきだ。もう殺されるべきだと考えるのは、当然だろう。だって、私もそうだから。ううん。私と一緒にしちゃいけない。だって可憐ちゃんは、文字通り生きるために仕方なくそうしてきただけなのだから。

 万妃はまだ、動かない。ただ黙って、震える手で槍を握りしめているだけ。

 すっと可憐ちゃんの周囲の温度が下がったような感覚。可憐ちゃんは冷めた瞳で、ぞっとするような視線で万妃のことを見つめていた。


「……血分せんぱいは、わたしを殺してくれないんですねー」


 くるりと、可憐ちゃんは私たちに背を向ける。


「せんぱいなら、わたしを殺してくれると思ったのにー」


 小さな声でそう呟いて、可憐ちゃんは目の前の高い壁を飛び越えて消えてしまった。

 万妃が槍から手を離す。からん、と地面に転がり落ちた槍はすぐに溶けてなくなってしまった。俯いたまま、万妃は両手を強く握りしめて肩を震わせている。

 万妃なら、きっと躊躇いなく殺すと思ったのに。万妃なら、悪い奴らは殺すと思ったのに。それが可憐ちゃんの望みで、希望で、そして私の——でも、万妃は可憐ちゃんを殺さなかった。殺そうとしなかった。

 万妃は私たちが思っているような子じゃないのかもしれない。もしそうなら、この先私の願いは叶うのだろうか——。

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