十二 炎

 後、一日。

 そう、一日耐えれば良い筈だった――。


 

 ユーリックが水を創り出すよりも早く、生まれた陰は炎を飲み込んだ。

 大口を開けた獣の如く、黒い沼となった陰が盛り上がり――がぶり。ほんの一瞬の出来事にユーリックはただ唖然とした。

 目の前で何が起こっているのか。

 それが、既に理解できないのだ。


 炎が飲み込まれ、辺りは暗闇へと戻った。

 下手に光源を見てしまったものだから、暗闇に目を鳴らすのに時間がかかる。だが、気配だけは明確に残ってユーリックは一時も気を抜けなかった。

 炎があった筈のそこ。 

 ユーリックは少しづつ目に映る光景に、思わず後ずさる。


 闇の中でも、濃い黒。それが、大きな沼となってじわじわとユーリックの足元まで迫っていた。

  

 じとり、じわり。

  

 ユーリックを追い詰めるかのように黒い沼が迫り来る。


 同時に、黒い沼が波打ち、ドクン――と鼓動にも似た音が響く。胎動が始まった。

 胎動は、と同じものを生み出して、初日に感じた黒い陰の気配が辺りを支配し、ユーリックの肌をぞわりと撫ぜた。

 闇が肌を這い回る。全身を掴まれているようで、ユーリックの額からは汗が流れる。


 これは、恐怖だ。ユーリックは身体中を撫で回される感覚が、恐怖からくるそれと理解しても、徐々に明瞭になる視界へと移り込むから逃げられなかった。

 何かが、ユーリックに語りかけるのだ。

 『逃げてはいけない』と。


 小刻みに震える指先。左手は握りしめ、右手は背中に回し短剣へと手をかける。

 そうしている間に、胎動が早まっていた。ドクドクと脈打つ。どんどんと音の感覚が狭くなり、やがて――音がピタリと止まった。


 既に、黒い沼はユーリックの足下すら飲み込んでいた。

 沼から響く、ドプン――という水音が、再び沼の表面を波打たせる。その波の中心。

 ずずっ――と響く、身体を引きずる音。その音が響くと同時に、沼が大きく盛り上がり、が姿を現した。這い上がる姿は、人にも近い。というよりも、人、そのものだった。 


 ――妖魔……?


 はっきりと、人と思える姿。六尺五寸程の身の丈の男にも似た体格。その頭には角、手には爪。そして――


 ――おおおおぉぉぉぉ!!!


 咆哮は、雄々しくも不気味に森に広がる。その大きく開かれた口には、天を穿つ牙がある。

 ユーリックは構えた。その正体が妖魔だろうが、未知なる何かだろうが、この場で討たなければならない事実だけは変わらない。

 だらんと腕が垂れ下がったその姿。その瞳が、妖魔の如く赤く輝くと同時、ギョロリとした双眸がユーリックを見定めた。


 ユーリックの身体に緊張が迸る。何と恐ろしいのだろう。ユーリックの中で畏怖が強く、濃く根付く。

 だからか、ユーリックの反応は遅れた。


 気づいた時には、ユーリックの目の前に、は迫っていた。大きく右腕を振るい、ユーリック目掛けて振り下ろす。

 慌てて短剣で防御しようとするも間に合わない。ざくりと鋭い爪が、深くユーリックの前腕の肉を抉った。

 短剣を落とす事こそなかったが、ユーリックは痛みで蹌踉よろめく。は、そんなユーリックの姿を見逃しはしなかった。左腕で、よろめき防御が疎かになったユーリックの首を掴むと力を込め、そのままの勢いで押し倒す。


「がっ……」 

  

 地面に叩きつけられたユーリックは、後頭部と背を強く打ち付け、更なる傷みが身体中に駆け巡る。ぐるぐると唸るに、反撃しようとするも、を見上げていると、別の記憶が重なり思考が上手く働かなかった。


 ――今のは……?


 ユーリックの目に、暗闇の中の異形の姿とは別に、ロアンの姿が折り重なる。同時に、幼い子供の苦しみまでも蘇っていた。

 が再び右腕を振り上げる様でさえ、ロアンの姿と重なる。


 ――これは、私の記憶だ


 左腕はユーリックの首を掴んだまま、ミチミチと音たて締まる。ユーリックは、いつかの記憶に惑わされ抵抗も忘れていた。幼い自分が折り重なり、紅玉色の瞳が揺れる。


 ――そうだ、あの日……


 の腕が、ユーリックの胸へと振り下ろされた。鋭い爪が胸を穿つ。

 

 ――熱い。あの日、同じ……


 胸を貫き、肺を潰す一撃。ユーリックの口からは血が溢れ、そして――


 ユーリックの瞳孔は色褪せ光を失い、心臓の鼓動は――静かに、止まった。



 ◆◇◆



 暗い、森。

 そこは、いつもと変わらぬ様相だ。


 トビは、瘴気すら漂っていそうな暗闇の森の中をひたすらに進んだ。

 馬の足音ばかりが妙に響く。だが、それ以上に耳元で何かが騒めいている気がしてならない。そんな曖昧な不気味さが、トビの不安を煽っていた。

 自分の状況が恐ろしいのではない。今、ユーリックが此処で何をしているかを考えると、不安で押し潰されそうになっていたのだ。

 しかも、山の奥深くのこの森は付近の住民からしても曰くつきらしく、

 

『この森は、決して明かりを灯してはならない』

 

 と、手前の村で村人たちが口を揃えて、トビへと忠告した。何とも信じ難い話だったが、そこで偶々居合わせた顔見知りの師姐ししゃスーリと師兄ニーベルグに出くわすと、二人も同じ警告をしたのだった。

 そうなると、信じるしかない。

 トビは暗闇に慣れた目で、森の奥底へと踏み入れていった。



 そして、どれほど奥まったか、また気配が変わった。

 ずんと重い。異様な空気がじっとりと肌にまとわりつく。それは進めば進む程に気配が濃くなった。

 ドロドロと粘着して、油のように纏わりつく。べっとりとして拭っても拭っても拭いきれない、あの嫌な感じだ。


 その奇妙な感覚のまま進んだトビだったが、ふと、覚えのある気配に馬を止めた。


「師父……」


 ロアンの黒馬がロアンの真横で珍しくもうずくまっている。その横で、ロアンは顔を真っ直ぐに前を向けたまま、トビを横目に一瞥した。


「来たのか」


 トビは馬を降り、ロアンへと近付く。

 ロアンが大木の前で構え座る中、少し離れた位置で佇み、トビは師父を見下ろした。


「師父、ユーリックは何者なのでしょうか」

「そんな事を問いかけに遠路遥々此処まで来たのか?」


 ロアンは、トビが何処からこの驘獒らごうしゅうまで来たかを知っているのだろう。

 馬を飛ばして四日。やっと辿り着いた矢先に聞く師父の嫌味ときた。トビは腹立たしく感じながらも、目的を思い出して沸き立ちそうになる感情を沈める。


「それで、答えは出たのか」


 今度はロアンが問うた。以前、言っていた『真実』とやらだろう。


「……ユーリックは、死なないのですね」

「ああ、俺はあいつを殺した。だが、あいつは何事も無く二度とも生き返った」


 ロアンの表情は複雑だった。死なない存在を説明などで気はしないからだろう。超常的で、論理から外れた存在。

 何故傷が治り、何故死なないのか。

 トビが問うた、「ユーリックは何者か」、それこそロアンが求めている答えなのだろう。

 複雑だが、あいも変わらず峻厳な顔をした男は、森の奥底を見つめて言った。


「あいつが何者か、それもまあ、現象としては気になる事案ではある。だがな、残念ながらこの世には人智を凌ぐものが存在する。もしくは、今の科学力程度では解明できないだけやもしれんが」

「ユーリックは、その人智を凌ぐ……とやらの何かだと?」

「今は、あいつが何者かなぞ分からん。だがな、あいつがこの世で唯一無二の存在である事だけはしっかり念頭に置いておけ」


 ロアンの言葉がズドンと重くなった。


「師父、俺は以前にも聞いた筈です。ユーリックを使かと。何をなさろうとしているのですか!?」


 ロアンは、弟子に対して人的侵害をしない。厳しくも、それは全て実力を伴う魔術師に育て上げる為。その為に必要な対価は惜しまず、弟子の誰一人として困窮もない。ロアンが老子であるが故、その地位に見合った弟子一人一人の実力が必要なのだ。

 それが、トビの知るロアンで有り、ユーリックにお前は恵まれていると言い聞かせてきた所以でもあった。


 だが、現状。ユーリックがいるであろう場所は、ロアンの目の先なのだろう。ロアンは森の奥底から目を逸らさない。その奥底から感じる気配は、慣れた禁足地よりも異常だった。あそこは、トビも位階を拝する前よりも通い慣れた場所だ。慣れて仕舞えば、恐ろしくもない。

 だが、此処は違う。


「此処は、修行の場で使うような場所ではないですね。なのに、ユーリックは今、森の奥で一人で妖魔と戦っているのですか!?」


 とても、位階の無い者が入り込むような場所ではない。 

 感情に歯止めが効かなくなっていた。無理もない。トビにとって、一等失いたくないのは、ユーリックなのだ。

 そんなトビを見ても尚、ロアンはちらりとトビを見やるだけだった。だが、その姿を笑いはしない。


「お前の役目は、あれをとどめて置く事だ。無理強いする気はない。あいつにもお前にも」

「今森の奥にいるのは、ユーリックの意思だと?」

「ああ、俺は嫌なら止めれば良いと言った。まあ、焚き付けはしたがな」


 言葉を濁す事こそあるが、ロアンは嘘をつかない。そこは信用に足る人物だ。トビは、師妹であるユーリックの姿を思い出す。あれは、トビが知る中でも最上位の負けず嫌いだった。

 今にも出そうになる嘆息を堪えていると、不意にロアンが立ち上がった。

 目線は、森の奥底の一点を見つめている。 


「何が見えているのですか」

「さあな」

           

 その瞬間だった。

 先程まで辺りを支配していた気配とは別に、禍々しい気配が漂った。同時にロアンは森へと動き出す。


「師父」

「お前は此処で待て。もし妖魔が境目から出てきたなら全て殺せ」


 その日初めて、ロアンが初めてトビを凝視した。その鋭さに、トビは気圧されたかのようにたじろぐ。


「……承知しました」


 トビは従うしか無かった。

 ロアの言う境界が、それとなしに理解できたのもあるのだろう。ただ恐ろしいと感じ、同時にロアンから受ける威圧もまた恐ろしかった。


 境目の向こう側、ロアンは闇に中へと消えていった。

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