十九 秘密 弍

『……帰りたい』


 トビは泣きじゃくる少女の目線に合わせてかがみ、顔を覗き込む。紅玉色の目は潤んで、必死に小さな手で涙を拭うが、ぼろぼろと零れる涙は止まらない。

 一週間程前。突如ロアンが連れ帰ってきた少女。

 名前も覚えておらず、両親の事も、故郷も思い出せないと言う少女は、まだ修練を行う精神状態にはない。

 毎日、毎日、ただ帰りたいと駄々を捏ねた。 

  

『帰るって、何処にだよ。お前の家、もう無いって師父が言ってた。帰る場所なんてないぞ?』

『でも、ここにいたくないんだもん』

『何で?』

『わかんない。でも、ここ嫌なの』


 トビにとっての帰る家を否定する少女。口ぶりも、トビやイーライとは違って魔術師になる意思などカケラも見えない。


 トビには、少女の心情が理解できなかった。

 確かに修練は厳しい。痛みを伴う事もよくあるし、初めて妖魔と対峙した時は恐ろしくて堪らなかったと、記憶をだどる。それを差し引いても、トビには昔の生活には戻りたいなどとは考えられなかった。


 ただ、トビはぐずぐずと泣きじゃくる少女を突き放す事はしなかった。出来なかった。


『目、擦りすぎるな。腫れるぞ』

『……うん』


 ぐすぐすと鼻を啜りながらも、顔に手をもっていかないように、服の裾を力いっぱい握る。

 堪えているのか、紅い瞳が悲しみに埋もれて揺れる。

 曇りなく色濃くも鮮やかな紅色は、見た事もない紅玉石すら彷彿とさせる程に美しい色をしていた。

 トビにとって、初めて見るその色。容姿は辰帝国のそれと変わらないのに、異質にも輝く瞳。色は違えど、異国を思わせるそれに、トビは親近感を覚えていた。

 奇しくも、妹も異国の色の瞳と黒髪。それが、何よりもトビの心を騒つかせた。  


『師父は怖いし修行は厳しいけど、腹一杯食わせてくれるし、住む家もある。お前みたいなガキ、下手にうろついてたら売られちまう。ここにいた方が良い』


 トビからすれば、少女の帰りたいなどという言葉は無謀で現実味のない言葉でしかなかった。幼いと言っても、ある程度の理解力はある。現実を思い知らせる事が、トビにとっての優しさでもあったのだ。

 少女はトビの言葉に何を反論する事も無かった。が、決して頷く事もなかった。


 

 少女は、その後一年。トビの警告を無視して何度か逃げ出そうとして――一度だけ成功した。結局、四日の後に連れ戻された訳だが。

 何が少女を変えたのか、その後は二度と逃げ出す癖は無くなった。


 けれども、少女の心は今も、何かに囚われたままだ。 


 ◆


 トビは、寝台のすぐ横に椅子を構えてユーリックが目覚めるのを待った。

 表情は重く、ユーリックが刺されるまで貧民街の者たちの行動に一切気づけなかった事を悔やみ続けている。

 あの時、もっと側にいれば。貧民街の者たちをしかと観察していれば。

 後悔ばかりに埋もれていく心をユーリックが眠る寝台に上体を預けて、トビは項垂れる事しか出来なかった。



 どれだけ時間が経った頃か、トビは朝の気配に目を覚ました。木窓で閉じられた闇の中、外の静けさに耳を澄ます。

 木窓の僅かな隙間が、ぼんやりともトビの感覚を明瞭にすると、トビは立ち上がって寝台の反対側にある窓へと歩み寄った。

 窓の隙間からこぼれる光に導かれるように、ガラス窓を開け、更には固く閉ざされた木窓を力一杯押し開く。

 朝焼けが始まろうとする眩い空。寒々とした空気と共に正常を取り戻した都から、ゴーン――という鐘の音が六つ鳴り響いた。


「……トビ、」


 六つ目の鐘の残響に混じって、掠れた女の声がか細くもトビの耳に届いた。背後で薄らと開いた瞼の視線は、弱々しくもトビの姿を映し、トビは慌ててユーリックへと駆け寄り元いた椅子へと戻っていた。


「大丈夫か?」

 

 トビが覗き込んだ顔は健康そのもので、ゆっくりとだが上体を起こして、起き抜けの顔を見せる。


「……トビ、ごめん、ね」


 掠れた声。潤いを失った喉から出る声は、途切れ途切れにより弱々しくさせる。トビは寝台横の飾り棚に置かれた水差しを傾け茶杯を満たして渡すと、ユーリックの喉は水を求めてか一気に喉へと流し込んだ。

 はあ、と感極まった息を吐き、ユーリックは真っ直ぐにトビを見た。


 色濃くも鮮やかな紅玉色の瞳。トビは、その宝石を見る機会があっても尚、その瞳の美しさの印象は変わらなかった。

 その紅玉色の中にくっきりと映る己の姿を覗き込無ほどに見つめ返す。

 目覚めたばかりのユーリックには決意があった。


「ごめん、次は、しくじらない」


 その決意は、トビが問い掛けたかった事ではなかった。

 てっきり、一番に怪我の事を話してくれるのだろうと、トビは信じていた。

 だがもう、ユーリックの中ではトビの目の前で起こった事は完結していて、何事もなかったとでも――大した事はなかったとでも言うかのように、決意だけがトビの前に吐き出されたのだ。


 納得出来る筈はなかった。血の気の籠った顔が、己を納得させる為にだけ吐き出された言葉はトビを置き去りにしただけだったのだ。


「怪我は、どうなんだ」


 トビは、ユーリックの身体を心配しながらも、口調はきつく苛立ちが籠った。

  

「……もう、見たんでしょ? 師父に聞いたんでしょう?」


 開き直った、、、ユーリックも反論でもしているかのようにキツい口調で言い返す。


「俺は、お前の口から聞きたい」

「……別に、ただ、傷が治るだけ……勝手に」


 それは、ユーリックが気づいた時にはそうだったのだという。ユーリックからすれば傷は簡単に治るものという認識で気にも留めなかったが、それがある日一変した。


「イーライが……傷が治る瞬間を見たの……それから、変わっちゃった」


 ユーリックが幼い頃。それこそ、まだ師父に拾われたばかりの頃、イーライはトビと同じぐらいに優しかった。ユーリックを奇異な物を見る目程度で見てはいたものの、それでも師兄として何かと世話を焼いていた。が、傷が治る様を見てしまったその後は、奇異は次第に、嫌悪に変わったのだ。

 

 トビもイーライの変貌は目の当たりにした記憶があった。ああ、だからか。そんな得心が芽生えるも、それ以上に不可解だったのはユーリックのトビを見る目が、イーライへと向けるそれと同じだった事だ。

 嫌悪でも、侮蔑でもない。虚無の顔。その顔は、平然とトビに向かって言葉を吐き捨てた。  


「だから、トビが何を思っても気にしないよ」


 気味が悪いでしょ? ユーリックの瞳は悪意なく答える。既に、ユーリックはトビの感情を決めつけ、今までの優しさも全て切り捨てようとしていた。

 トビを信じず、殻に閉じこもろうとする姿。

 その姿にトビは、ただ、腹が立った。


「何だよ、俺の感情はお前が決めるのか?」

「普通じゃないもの」


 紺碧の瞳がギラリと光る。その眼光鋭くも、紅玉色の瞳は動じない。 

  

「それは、お前の考えだ。イーライがそうだったからって、勝手に決めるなよ!!」


 そう言って、トビの腕が力無く垂れ下がるだけだったユーリックの上腕を掴んで引き寄せた。

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