二十 初めての

 ユーリックは何が起こったか、判らなかった。

 勢いよく引っ張られた上腕は、トビの熱が今もはっきりとある。だがそんな事は大した事ではなかった。

 目の前にトビの顔があり、自身の唇にはトビのそれが重なっていた。

   

 その意味を、ユーリックは知っている。娯楽文学を読んでいると、時々出る表現だったのだ。だから、その行為の意味も、それとなく知っている。

 ただ、初めてだった。


 口付けされている。その事実と、あまりの顔の近さでユーリックは思わず目を瞑った。

 腕は痛い程握られて、もう一方の手は後ずさろうとするユーリックの頭を抑えて僅かな抵抗も許さない。それどころか、空気を求めて僅かに空いた隙間から舌が滑り込んで、ユーリックのそれと絡まる。漏れる吐息と共に、ユーリックは僅かに溢れる甘い女の声色が、奇妙でならなかった。


 そう、長くはない。指折り幾つも数えない程度。トビの唇が離れ、ようやく見えた顔には怒気が残ったままだった。

 当たり前だ。態と怒らせたのだからと、ユーリックは納得する。けれども、怒らせた後の行動の意味が理解できずに、ユーリックは呆然とその顔を眺める事しか出来なかった。


「これで、少しは判ったか」


 そんな言葉を吐き捨てながら、トビはスッと立ち上がるとユーリックに背を向け扉へと向かって歩いていった。そして、迷わず部屋を出て行こうとして扉に手をかける。


「朝飯、食えるだろ。何か貰ってくる。あと、怪我人の振りをしろって師父からの命令だ。部屋を出るなよ」


 チクリと刺す言葉を残して、トビは出て行った。未だ、唇に熱も感触も残ったまま呆然とするユーリックを残して。


  

 ◆



 トビは部屋を出たままの足を、厨房や賓館の主人の元ではなく、師の部屋へと向けていた。

 まだ、時間としては早い。だが、部屋の外から声をかければ、いつも通りの低い声があっさりとトビに返事を返した。


 ほんの少しの隙間を開けただけで、立ちこめる匂いにトビは呆れながら大きく扉を開く。見事なまでに紫煙で染まった部屋。

 慣れたそれにトビは気にする事なく、紫煙の中心へと歩く。そこには、いつも食事でのみ使う円卓の一つにどっしりと座った師の姿があった。

 既に、床に血痕は残ってはおらず、部屋は何事もなかったかのように元に戻っていた。

 その部屋の主人は一晩中起きていたのか、つくえの上には山盛りになった灰皿に空になった酒瓶が乱雑に置かれている。

 不機嫌と取れるだろう。この男はいつだって険しい顔をしているから、表情では読み取り難いが、少しばかり荒くれた様子が浮き出る。

 今にも人ひとり殺せそうなまでの眼光を携えた男を前に、トビは毅然と立つ。


「あれの様子はどうだ」

「朝は至って普通に目覚めました」


 驚く様子もない。ただ、そうかとだけ答えて今の状態を深く探ろうとはしない。何も、疑わないさまが、当然と言っているようでトビの心がまた騒つく。

 何かが、引っ掛かる。今にも疑義を唱えそうなトビの様子を伺ってか、ロアンは重苦しい口を再び開いた。  

    

「お前は今日も書府院へ行け。ユーリックの分は、キーフに使わせる。何を聞かれても、答えてやる必要はない」

「はい」


 煙草の独特の匂いを燻らせて、ロアンは遠慮なくトビに向かって煙を吐き出す。紫煙の向こうにある紺碧の瞳には、今も逡巡が見て取れる。  


「それで、何が知りたい」


 どれだけトビが腹を探った所で弛まぬ精神は機微なる変化も見せない。ただ悠々と煙を蒸しては吐き出してを繰り返す。


「……師父は、最初から知っていたんですか? ユーリックに治癒の能力がある事を」

「ああ、だから拾った」


 あっけらかんと答えた口には、玻璃製の杯グラスが運ばれ、褐色がかった酒が喉へと流し込まれる。一気に杯を傾け喉を唸らせては、物々しく嘆息した。


「お前は以前、俺に問いかけたな。ユーリックをどうするつもりか、と」

「ええ」


 その時は、トビはユーリックの才能を見越して問いかけただけだった。何を見据えてユーリックを育てているのかと。

 だが、今とでは状況が違う。 


「……はっきり言って、才能だけでしたらユーリック程の者は存在するでしょう。逃げる癖のあるユーリックを育てる価値は師父には無かった筈です。その頃から、不可思議ではありました。態々、引き摺ってでも連れ戻す価値が何なのか、は。そこに関しては、昨日得心できました。あの回復力は、他に類を見ない。ですが――使?」


 トビの中で、既に答えに近いものはあった。大きな力を求める時、

 けれども、それを下手に口にする事は出来ず、あくまでもそれとなく述べる。


「トビ。お前は未だ、気づいていない事がある。その真実を知った時、お前にも俺の考えを教えてやる」


 だから、とロアンは立ち上がり、トビの眼前に歩み出た。鷹の如し鋭い眼は、威圧を宿してトビを見下ろす。


「今は――お前はただ、を妹の代用品にでもしていれば良い。まあ、妹でなくても良いがな」


 トビの心根を転がすように言った男は、ゆらりとした足取りで、寝台へと向かった。かと思えば、適当に寝台に放ってあった外套を手に取る。


「お出かけですか」

「あぁ、爺の所に行ってくる。これ以上は面倒事は御免だ」


 外套を羽織った男もまた、腹に抱えているものがあるのだろう。いつも通りに威圧的に歩くが、少々気怠げにも見えた。



 ◆



 静まり返った部屋。木窓は未だ閉じられたまま、薄明るい油灯ランプをぼんやり見つめたユーリックは、寝台の上で膝を抱えて小さく蹲っていた。

 傷と共に痛みは消え、動く事に支障はない。けれども、トビが部屋を出て行ったその時から、一歩も動く気になれなかった。


 今も、唇には感触が残る。

 トビが示した行為の意味を辿ることは容易であった。「判ったか」などと言われなくとも、ユーリックも薄々は気づいていた。

 幼い頃とは違う、トビの目線に。その手が触れる時の、僅かな差に。

  

 気づいていたからこそ、飲み込まれないように必死だった。


 師兄として尊敬しているし、隣にいて心地良い。けれども、それだけだ。

 それ以上を、ユーリックは求めてはいない。それどころか、不要とすら考えていた。 


 その感情は、ユーリックにとって邪魔でしかない。


「……どうして」


 ぽつりと、静寂の中にか細い声が虚しくも響く。

 どうして、思うようにいかないのか。


 今も、ユーリックの心根に、白い景色が巣食う。

 求めているのは、いつも一つだ。


 けれど、いつか。時が経てば経つほどに、その景色が薄らいでしまいそうで。それが、ユーリックにとって何よりも恐ろしい事だった。


 トビに身を預ければ、きっと心地よいだろう。だからこそ、ユーリックにはその選択はできなかった。いっそ、イーライのように嫌悪を示してくれたならどれだけ良かった事か。


 ユーリックは抱えていた膝に力を込めて、爪を立てた。

 飲まれてはいけない。

 ユーリックは、幼い頃の決意と同じく、心に楔として己が決意を穿つ。


 ――今生きる場所は、利用価値があるだけだ


 そう、強く心に誓い留めた。

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