十 小さな一歩

 パチパチと焚き火の音が嫌に響く。

 

 別行動をしていたロアンが戻り、一度山を抜ける次第となった。と言っても、今もまだ山の中である事には変わりない。違いがあるとすれば、空を見上げれば木々の隙間からは月と星々が煌めき輝く様が、真っ当な夜を思わせる、と言うことぐらいだった。


 焚き火が夕暮れにも近い赤をちらつかせ、温かみのある色として辺りを照らす。食事の支度、片付けをトビに習いながら済ませた後は、ユーリックは地べたに上に布一枚で寝転がった。

 トビとロアンも同様に火に背を向ける形で横になり、身体を休めている。明日もまた、ロアンは明日も同じ場所での調査であり、ユーリックはトビと共に妖魔狩りだ。


 今日の出来事を書き留めておく事など出来はしない。何度も、何度も繰り返して、身体に染み込ませるしかないのだ。

 それこそが経験であり、その身の魔術師としての糧となる。


 ――やっと、第一歩だ


 ユーリックは夜空を見上げた。

 暗闇でない世界を示すが如く、空の瞬きが美しくも旅路を照らす。手を伸ばした先は掴めず、瞬きは遠い。


 けれど、今日の出来事は掴めぬ瞬きとは違う。

 確かに、その手で何体と妖魔を狩ったのだ。その実感が今も手に残る。

 手に僅かに残ったじんわりとした感覚。ユーリックが追い求める『モノ』に、少しだけ近づいた気がした。そう、ほんの少しだけ――


 ◆


 薄寒い空気が漂う。山中の明け方独特の寒さが、壁も屋根もない故か、更には地面からの冷たさに夏である事を忘れそうな程に身に染みる。

 ユーリックは上体を起こすと辺りを見回した。師父の姿はなく、トビも丁度起きた所の様で、上体を起こして伸びをしていた。


「トビ、師父は?」


 欠伸混じりのユーリックの声で、トビは立ち上がると燃え尽きた焚き火を前に座り込む。

  

「そこらに居るだろうよ」


 と、目覚めてすぐとは思えぬ清涼な声が、いつもの事なのか確認もせずに言ってのける。

 トビは残っていた木切れを焚き火の燃えかすに放り込むと、積み上げた木切れの上で掌を翳した。ボウ――と音立てて、再び火が灯る。 


「ユーリック、俺は朝飯の準備するから、水を汲んできてくれ」


 近くには小川がある。昨晩すでに二往復はしているそこへ迷わず行けるだろう。ユーリックは、うんと軽く頷くと、桶を一つ手にすると小川の音がする方へと掛けていった。

 

「さてと……」


 ユーリックを見送り、トビは木切れを集めて火を大きくすると、火の前に座り込みながら昨日適当に片付けた荷物から鍋やら食料やらを漁った。元々、二日三日程度の工程で大した荷物は持ってきていない。

 鍋を置き、水筒に残っていた水を入れると煮立つまでする事がなくなる。

 すると、手漉きになるのを待っていたかのように、ふっと気配が湧いた。


「おはようございます」


 トビは背後を一瞥する。現れた気配――どこからか戻ってきた気配は、どかっと寝床にしていた布の上に腰を下ろした。


「――あれは」

「今水を汲みに。どこに行っていたんですか?」

「肉が食いたくなった」


 そう言って、トビの左横に麻袋を放る。兎でも入っていそうな大きさの袋を覗けば――仕留めたばかりの茶色い毛皮の兎が一羽、しっかりと血抜きだけがされて入っていた。


「どうせなら皮も剥いでくださいよ」

「それぐらいやれ」


 トビは、「はいはい」と軽口に返事すると早速作業に取り掛かる。慣れた手つきで兎の皮を剥ぎ、内臓を抜き、胴から手足を切り離していく。鼻歌でも歌いそうな程に軽々と作業を進めるトビだったが、ふと、ロアンが再び口を開いた事によりピタリと手を止めた。


「昨日のユーリックはどうだった」


 どう。成果ならば昨日話した。が、それはユーリックが目の前に居たため、討伐数の話のみだった。

 軽口は消え、冷淡と言えるまでに落ち着いた口調がトビから響く。


です。ユーリックは俺の動作を一頻り見ただけで、おおよそ同じ事をやって見せましたよ。やり口は違いましたがね。妖魔を一撃で、しかもどう殺せば良いか理解する――一朝一夕で身につくはずも無い技術ですよ」


 トビの手が再び動き始めた。鍋の中で湯が煮立ち、捌いて切り分けた肉と一緒に適度に香りの強い生姜と大蒜、そして適当な野菜を放り込むと塩を入れて味を整える。一見冷静、だが――


「気に食わない、とでも言いたげだな」


 流れる作業の中でも、トビの顔色は変わらない。ただ、腹の奥底で感情を抑え込む様に空いていた右手はしっかりと握り込まれている。


「師父、俺は最初の討伐で妖魔を死に至らしめる事は出来ませんでした。どうやっても相手が大きすぎて致命傷が与えられなかったり、うまく魔素が流し込めなかったりと、手間取ったのを今でもよく覚えています。それが、ユーリックは妖魔の身体全体に魔素を巡らし一体、一体を確実に凍結させ死に至らしめていた。しかも、ユーリックの討伐数を鑑みても、莫大な魔素量が必要なはずです」


 トビは無心で具材を入れた鍋を掻き回し始めた。まるで、昨日の事が白昼夢であったかのように、呆然と語る。

 その姿を知ってか知らずか、ロアンは淡々と言葉を吐くだけだった。


「言ってあった筈だ。あれは特別だと」     


 さも、平然とロアンが口にする言葉。『特別』など、無駄な口を開かないロアンが凡そ吐く事はないものだ。

 

 その意味をトビは昨日初めて実感した。いや、実際はそれとなく判じていた事でもあったのだろう。トビの脳裏には、何事もさも当然にやってのけるユーリックの姿が浮かんでいた。

 魔素の冷気化に加え、微細な魔素の調節に制御。そして、昂る心をいとも簡単に沈める弛まぬ精神。決して驕らず、自らが何を求められているかを容易に察する知能。


「師父は、ユーリックを如何する気なのですか」


 トビは、ロアンに背を向けたまま、ちらりと横目だけを向けた。

 その表情はトビも良く知っている。トビが拾われたその時から変わらない、厳しくだが常に冷静な男の顔だ。が、そんな男の口の端が吊り上がる。


「あれは、切り札だ」


 冬の山の様に冷たく低い声は、と称した小さな弟子に、何かを期待していた。

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