第二章

一 決意の日

 少女は、ただ走った。


 冬の始まりを告げる様に、空からはちらりほらりと小さな雪の花が舞い降りる。何処までも続く平原をほんのりと土色を白雪が染めていく中を、少女は白い息を吐きながら寒さを凌ぐ外套も纏わず走り続けていた。

 荷物は、腰に帯びた短剣が一つ。 

 目指すは、白い山と呼ばれる山脈地帯の何処か。

 その白い山は深々と雪を被り、今も山の天辺では猛吹雪なのか山頂は黒い雲で覆われ隠れてしまっている。陰鬱な雲に覆われても尚、厳かで、決して誰にも語りかけず佇む様が、いつも通りにそこにある。

 少女は、そこへ行きたい理由も、そこに何があるかも判らない。それでも、白で埋め尽くされた情景だけが、少女の記憶に残るモノであり、少女が白い山を目指すには十分な理由だった。

 

 時折夢に見る白い景色が、常に思考にちらついて離れないのだ。

 あの白い景色を走り続ける少女は、自分――なのだろうか。そんな懐疑的な思考ばかりが過るのだ。もしそうなら、走っている場所は故郷なのかもしれない。そんな淡い期待を抱いて少女は走り続けた。

 少女は何か希望を見出したかった。

 小さくても良い。

 夢でも良い。

 ただの白い景色の夢という曖昧な夢幻ゆめまぼろしだったとしても。


 まだ、少女は九歳という幼さゆえか、細い足に歩幅は小さく今にも縺れてしまいそう。けれど、止まる訳にはいかなかった。

 止まれば、追いつかれてしまう。


 少女は既に三日三晩、走り通しだった。

 大人でも三日走り続けるなど並大抵の事では無いだろう。

 少女は常に限界を感じていた。少女の足では白い山は果てしなく遠い。幼さ故の小さな身体が、より目的の地を遠ざけている様で、目的の山へ一向に近づいている気がしなかった。


 見えているのに、辿り着けない。それが絶望を感じさせ、少女の疲労、気力共に蝕んだ。

 されど、どれだけ絶望を感じようが、脚が棒になろうが、足を止める事だけは決してなかった。



 白い山を目指して、四度目の朝日を迎えた頃――


 背後から、馬の足音が近づいていた。


 ――何で……


 既に、精も根も尽き果てそうなまでに衰弱していた少女は、背後から近づく畏怖に怯え、まだ走れると自分に言い聞かせた。

 街道も外れた平原を選んだつもりだったのに、と少女は悔みながらも足を動かした。何が近づいてくるかなど、想像に難くない。


 そして、そう間をおかずして背後から地鳴りにも似た馬の駆け足が少女を追い越して目の前に立ち塞がった。少女は足を止めた。止めるしかなかった。


 一頭の黒い馬と、それに跨る一人の大男の目が少女を鋭く射抜く。

 もう二度と見たくもなかった厳しい顔が、いつも以上に険しく馬上から少女を見下ろした。その瞳の鋭さは、一目瞭然なまでに怒りを表している。

 その男――師父ロアンが現れた事で、ユーリックは絶望が人の姿形になって現れた気がしてならなかった。それまで、焦がれていた地へとたどり着けるかもしれない、という薄らとした望みだけが少女の原動力だったのだ。

 それも、潰えた。


「……何で、」


 何故、この男は自分を苦しめるのだろうか。逃げても、追いかけてくるのだろうか。山へと行きたいだけなのに、何故、邪魔をするのか。

 魔術師になどなりたくない。腐った国の中心でなど、生きていたくない。

 少女は、臓腑から湧き出た宿怨を気力に変えて、腰へと手を伸ばし剣を抜いた。


 まだ、幼い手には不似合いで、両手で握りしめなければ短剣を支えきれない。それでも精一杯の気迫を込めて鋒を男へと向けた。

 当たるかなど考えていない。湧き出た感情で、もうどうにでも慣れば良いとすら考える。

 投げやりで、無謀。

 小さな身体で最大限に威嚇する姿は、ロアンからしたら滑稽にも思えたのかもしれない。鼻で小さく笑うと、馬を降りて少女が短剣を構えている事など気にもせずに近づく様は威圧的だった。


「うわあああ!!」


 少女は堪らず踏み込んだ。この男さえいなければ。恐れが衝動へと変わり、衝動は焦りを生んだ。

 ただ真っ直ぐ正面切ってロアンへと向けるだけの剣は立ち塞がる巨躯へと届く事もなかった。それよりも早くロアンの右足が、幼い身体の左横腹へとめり込んだのだ。

 衝撃と共に少女の身体は吹き飛んでいた。

 

 朝日が上がったばかりの土は硬く、少女は受け身を取る事も出来ずに滑り転げた。

 カラン――と金属が転がる音が虚しくも鳴る。無情にも握っていた筈の武器を失ったと知るも、少女は起きあがろうと腕に力を入れた。が、突如左腹部に激痛が走り、少女は再び力無く地に伏す。

 ロアンに蹴られた左腹。肋骨が折れたのか、尋常ならざる痛みと無理やり体を起こした衝撃が胃へと向かい捩じ切れる感覚が襲う。

 それでも痛みを堪え、起きあがろうと腕に力を入れる。だが今度は、胸から喉にせり上がる感覚を覚えた。抑えきれずに四つん這いのままに嘔吐を催すが、三日もまともに食事も取ってないとあって血の混じった胃液を吐き出すだけだ。


「まだ逃げるのか?」


 逃す気もない声が、苦しみと絶望で起き上がれずにいる少女へと降り注ぐ。踠いている間に再び壁となり光を遮る大男を少女は苦悶の表情で見上げた。いつの間に拾ったのか、ロアンの手には既に少女の短剣が握られて、これみよがしに見せつける。

 

 既に、逃げ場はない。ロアンが逃す気がないのだ。


 ――今じゃない


 少女は小さな想いを抱いて、悔しさを堪えて地に爪を立てる。今は、堪えるしかなかった。

 項垂れ、地面に向かって嫌々ながらも、小さく「いいえ」とだけ零す。胃液の酸で焼けた喉から搾り出した声は、掠れて今にも消え入りそうだった。

 

 そんなか細い返事でも、ロアンは聞くや否や行動は早かった。少女を抱えると馬乗せ、自らも乗り上げる。目的は果たしたと言わんばかりに颯爽と踵を返し、元来た道を辿って行った。


 お世辞にも乗り心地が良いとは言えない馬上で、少女は疲れからか瞼が徐々に徐々に下がり、ロアンに身を委ねた。

 今にも眠りの彼方へと引き込まれそうになりながら、少女は瞼の裏側で静かに誓いを立てる。

  

 ――まだだ、


 ――まだ、今じゃない


 ――この男が殺せるぐらい、強くならなければ


 少女は、再び白き山を目指すが為に今日と言う日を己に戒めた。

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