二 成長 壱
幼い少女だったあの日から、七年の幾年月が経った。
十六歳になったユーリックは上背が五尺八寸程(一七五センチぐらい)まで伸びて、あどけなかった様相は消え顔つきは一段と大人びた。鍛えて筋肉で絞られた身体はすらりとしなやかで、逞しくも女性らしさを残す。
紅玉色の瞳が幼き自分を映し、更にはその向こうの今も求める地が、白雪の色に染まって聳え立つ。地平線の彼方の、その向こうに――
ユーリックは同じ地で、少女であった頃に見た景色を眺めていた。幼くも必死だった、あの日と同じく舞い散る雪の冷たさに想いを重ね、今も宿怨と誓いが胸の中で駆け巡る。
九つの足で三日掛かった工程は、馬に乗り半日も掛からない場所であったと思い知らされ、更には街道を外れた平原は見通しが良く、遠眼鏡を使えば動くものがよく見えた。
何と、無知だったのだろうか。幼さ故の浅知恵と無計画な旅路の終わりが、今も尚、ユーリックの心を掻きむしっていた。
「ユーリック、」
深く息吐く様に男がユーリックの名を呼んだ瞬間に、幼き頃の姿は朝靄のごとく記憶の中に消えていった。
名を呼んだだけ、けれどもそれだけの行為はユーリックを縛り付ける。「何を見ている、判っているのだろうな」と言っている様でユーリックは未練を残しながらも、想いを山へと返してゆっくりと振り返った。
何事もなかった、何も感じてなどいないと知らしめる為か、山への想いを切り捨てた顔は無為に包まれる。
「そろそろ、向かいますか?」
「ああ」
どれだけ想いを打ち捨てた姿を演じたところで、ロアンもまた虚無の眼でユーリックを虎視する。
互いに信頼などありはしない。あるとすれば、互いに才腕を利用せんと孕んでいるという程度だろう。
その二人が今向かっている土地は――
南部
冬の始まりとあって、実る野菜の多くが根菜が土に埋もれたまま畑は雪色に染まっている景色ばかりに飽きた頃、それまで遠方にあった山々の麓へと辿り着く。
蕗県と隣県の境目である山の連なりが、此度の目的地であった。
街道から真っ直ぐ山へと繋ぐ道は、県境にある宿場町へと続いている。隣である
賑やかしい町中は、酒楼や旅籠、茶館など街道らしく人の往来のおかげで繁盛した様子を見せる。
その宿場町で一晩宿をとると、今度はそのまま宿場町から北西へと足を踏み入れた。単純な木々の生い茂りは段々と深くなり、気づけば高々と木々が光を遠ざける鬱蒼とした山々へと足を踏み入れた。
冬と言うのは妖魔関連の仕事が激減する。と言うのも、冬場は春まで山々が寝静まり陰に力を蓄える為か妖魔の数が極端に減るまたは現れなくなるのだ。
お陰で冬場は暇を持て余すか研究に没頭する者が多くいる。まあ、暖かくなるとそれが一斉に放出されるものだから芽吹きの春は大忙しなのだが。
ロアンも例に漏れず、手持ち無沙汰――になるわけもない。ロアンの仕事はもとより、南部未開の地開拓やら、妖魔の研究やら、その他にも魔術師最高位である男――最長老から色々と仕事を押し付けられているらしい。
その忙しい男の今回の仕事は、というと――
「ここだ」
曇天の薄暗い森の中、行き止まりの岩壁が続く中、ようやく見つけたのは
二人は馬を降りて繋ぐと、何の気無しに近づいていく。
巌窟の入り口には夥しい量の血の跡が残されたていた。引きずられたであろう血痕が深々とした闇の底まで繋がって、今にも断末魔まで聞こえてきそうだ。
ユーリックはしゃがみ、血痕に指先で触れてみるが既に乾き切った後かさらりとした感触だけが指に残るだけだった。
「妖魔の仕業……でしょうか」
「でなけりゃ熊だな」
と、さして熊が潜むか妖魔が潜むかも知れぬ洞穴へとロアンはあっさりと踏み込んだ。
――熊ね……
相変わらず指示も、今から何をするかを教えてもくれないロアンの背を、そこら中が赤色で染まった断末魔を眺めながらも後を追った。
冬眠しそびれた熊と言うのは珍しくはない。気性も荒く、肉を巣に持って帰る事も、人を襲って食うことも異常性の有る行動とはならない。
ただ、ここ最近の被害件数だけが異変として魔術師が呼ばれる事となった。
しかも、被害の殆どが宿場町までを通る行商や旅人だ。そのお陰か行政への届出が遅れ(早かったとしても対応がすぐ有るかは話が別であるが)、熊と仮定した漁師やら妖魔退治を生業にしている者やらも含め五十人近くの人間が消えているという報告が上がっていた。
そして、現在。その報告したはずの魔術師も行方知れずとなっている。
そもそもの論点として、この山には普段妖魔はそれ程湧かない。人の手が入った山と言うのは、陰に精気が溜まらないとされ、この山の妖魔の報告件数も皆無だった。
そうして油断している間にじわじわと被害拡大し、気づいた時には大勢が消えていた。
光が遠くなる。
明かりは灯さず、ロアンは迷わずにさらなる暗闇の奥底へと進んでいた。ユーリックも一切の迷いも不安もなくロアンに続く。生命体が歩くのに適していないそこは、わずかな傾斜で下へと続いている事だけは窺えた。
下へ、下へと進むほどに、寒々とした洞穴は冷気で包まれる。ユーリックは足の裏からじんわりと岩を伝って冷気が押し寄せ、感覚を奪っていく感覚に思わず爪先を丸めた。靴に仕込んでおいた芥子のお陰で、多少はマシだがそれでもジンジンと冷気に侵される感覚が絶えない。
――血生臭い話でも無ければ宿場も近く氷室にでも使えただろうに
どうせなら夏の方が良かったな、なんて思考が欲望へと変わり始めた頃、ふと気付く。
「……師父、此処は普段妖魔が湧かないのですよね?」
「らしいな。普段此処らを
含みのある言い方に、ユーリックは眉を顰め、うんざりしたと言わんばかりに「うへえ」と嫌悪を溢す。
妖魔がいない土地と言うのは珍しい話ではない。場所によっては、山中でも木々などが多く切り倒されたり開拓されたり等の人為的行為により妖魔の減少は確認されている。
その為、宿場町が栄えているこの地域でも、妖魔がいないと行政へ報告があれば、それで終いなのである。
ただ、時折この報告が虚偽の場合がある。特に、行政から目が遠くなる宿場町などに後ろ暗い事がある時に、だ。
「それって、
「ああ、面倒この上ねえ」
三合。平たく言えば、町を自治する者、
妖魔がいないと虚偽の報告を行政に上送する事で利益を得る事が出来るのは、宿場町だ。安全な道と提示できれば、それだけ利用客が増える。
そして、宿場町を行き交う者が増える事で宿場町の賭場やら売春宿を取り仕切る組織にも利益がある訳だ。
だがしかし、妖魔がいない事を証明するのは、行政と繋がりのある
言うなれば、賄賂だ。魔術師は国家機関に所属していても、仕事は国から提示される事もあるが、少額だ。なので、自ら動かねば大金は稼げない。そこで、小さな町や村で用心棒として居着く事も珍しくはないのだが、此処で黒道と取引を行う者が出てくるのだ。
大体が黒道が町を自治する者を脅すか結託させるかで魔術師に賄賂を渡し、行政に虚偽を伝えさせる。
という、如何にもな構図が出来上がるという訳だ。
当たり前だが、三合は御法度である。
「――で、賄賂でたんまりの筈の魔術師は……
「だろうな」
本当に熊であればの話だが。熊にしろ妖魔にしろ三合の事実があったのならば行政への報告が必須となる。特に、ロアンの立場となると尚更に。
「どうしますか?」
「……此方を片付けたら考える」
うんざりと零した言葉は、いつの間にか光の届かなくなった闇の中へと消えていった。
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