三 成長 弍
魔術師には、位階と序列が存在する。
位階とは言葉通り位を示すものだ。最上位である最長老を筆頭とし、次位に老師、上位魔術師、中位、下位と下がっていく。
そして、序列は同じく最長老を第一位として、百位までを示したものであり、百位以降に序列は存在しない。
魔術師の機関は国に一つだけだ。
古来に、陰なる存在から人々を守る役割であるとした事から魔術師ではなく夜の門番――『
ロアンもその組織の一員である。位階は老師であり、序列は最長老に継ぐ第二位。
なので正式にロアンの名を呼ぶならば、『二の老師』または、『ロアン老師』であるが、それはあくまで外部の呼称だ。
弟子達からは敬愛を込めて『師父』と呼ばれる。
『二の老師』ともなれば、行政機関の目を掻い潜って悪事を働いている者達を建前上見逃してはならない。――ならないのだが、妖魔退治以外の報告書が増える事と、州軍や憲兵団への伝達、報告を考えると、悪事を見逃そうかと考えるほどに面倒なのである。
まあ、その建前というのも、不正な利益は許されない――という、単純な国及び州の損失を鑑みたものである為、ロアンからしてみればどうで良い程度のものでしかないのだ。
◆
暗闇ばかりの奥底。ロアンの背後でユーリックの足は軽快に進んだ。暗闇であって、そうでない。夜をしっかりと映す瞳には、洞穴の形すらユーリックの目には映っていた。恐らく迷う事なく突き進むロアンも同じだろう。
道は一本だが、段々と広くなる。天井は既に二丈を超えて、上からは水がぴちゃりと鼻頭に落ちた。その冷たさといったら、冬の朝一番の井戸水にも近いく、針でも刺さったような鋭い痛みが走る。
辺りを見れば、乳白色で隆起した石灰の氷柱と柱ばかりが立ち並ぶ。しっかりと血を染み込ませた姿では、美しいなどという言葉は一切出てこなかったのだが。
一体どこまで続くのかと考え始めた矢先、ロアンの足がピタリと止まる。
「いたぞ」
と、呟いたロアンの目と鼻の先。
ユーリックも漂い始めた陰鬱な気配を視認するべく、巨躯なロアンの背後から隣に並びでた。
熊ではない事は最初からわかっていた。
岩窟の洞が出来上がったそこは、大きな水溜りが出来上がり、所々に乳白色の天井まで続く柱が立ち並ぶ。
その水溜まりの向こう側。洞の最奥。
妖しげに光る、赤色が二つ。
「熊じゃなかったですね」
「ああ、猿だな」
大きく口の空いた洞からは、染みついた血の匂いと死臭が漂う。その中心は、赤き瞳の妖魔だろう。
猿――の姿だが、大きさは人の倍以上はあるだろう。今も、煌々と光る目が侵入者であるロアンとユーリックを睨む。その左手には食事中か肉と成り果てた人であったものが掴まれていた。
胴を鷲掴みにして骨ごと貪り、既に既に頭や片足等欠けている部分が目立つ。
「ユーリック、やるか?」
と、悠長に構えるロアンがユーリックに問いかけた。
これは、挑発だ。怖いなら、下がっていろとユーリックを試している。
だが、ユーリックも乗らない訳にはいかない。怖気付くなど、
ユーリックが前へと軽々と歩み出れば、大猿の視線がユーリックのみを映す。警戒色が強くなり、黒々とした毛並みが逆立って手にしていた肉を捨てた。虚しくも、屍はドプン――と水面を波打たせ湖の底へと沈んでいき、青く澄んだ水がどろりと赤が混じり濁る。
それを始まりの合図としたか、ユーリックは悠然と大猿へ近づいた。
ユーリックと大猿を湖が隔てるが、ユーリックは躊躇なく湖水に一歩踏み込む。永い時を得て自然によって岩が抉れた水溜まりは、足を入れたら深く落ちるだけだろう。
だが、ユーリックの足先が水に触れた瞬間。湖水が全て凍りついた。
魔素が凍気で染まる。
冷気を放つユーリックの一動が、寒々とした空気により寒冷の息吹を齎した。大地までもが凍りつくような冬季の息を吐き出しながら、さも当然と氷の上を歩く姿は、それこそ人か妖かの見分けも付かない。
冷気は大猿にまで差し迫った。氷刃の爪と牙を向け、じわじわと大猿の領域を侵す。その毛先、長い尾が逆立ち、牙を剥き出しては威嚇を見せた、次の瞬間。
大猿がユーリックの視界から消えた。
あれだけはっきりと見せていた威嚇も敵意も一瞬で消え、暗闇の中に溶けてしまったか。
領域に踏み込んだ、魔術師をあっさりと敵とみなし、あまつさえ魔術を見せてあっさりと冷静さを取り戻す。
――賢いな、新種か?
闇に溶けるのは、元々妖魔の領分だ。知性を持ち、獣の本分も忘れていない。あまりにも、
妖魔とは基本獰猛で、人間と見れば襲い食らう習性だ。それが、今は闇に紛れてユーリックの様子を伺っている。しかも、怯えるのでもなく、どう見ても機を伺っての行動だ。それが、何よりもユーリックの知的好奇心をくすぐった。
呆然と立ち尽くすようだが、洞の中で僅かな空気の流れ、大猿の呼吸を辿る。
血の匂いでは、そこら中に染みついた死臭が邪魔をして意味をなさない。卓越した獣の性か天井か柱を移動している筈だが、微細な音すら響かない。視覚に関してはもっての外だ。
ならば、ユーリックは大猿がどう出るかを待つだけだった。
冷気がより濃くなった。空気が乾き、僅かな空に浮いていた水分ですら氷の粒となって地に落ちる。その粒はあまりにも小さく、ヒラヒラと六花の如く舞い散る。
洞の中が、完全に冷気で満たされた。
ほんの些細な感覚だった。
例えば、たった一本の髪の先を不意に触れられた、そんな本当に錯覚にも近い微細な他人が己に触れた様な感覚。
ユーリックは立ち並ぶ柱の一本を見上げる。と同時に背に手を回し、腰に収めていた短剣に触れる。
ユーリックが気づいたと知るや否や、大猿は柱を蹴り、落下の勢いも相まって恐ろしい勢いでユーリックへと飛びかかった。握り拳を作った右腕を大きく振り上げ、ユーリックの頭めがけてそれを落とす。
ドゴッ――と、大猿の右手が氷面となった湖水を叩き割った。
ピシピシとひび割れの筋が幾つも入るが、氷面の分厚いこと。亀裂こそ入ったが、岩窟同然にびくともしない。
しかし、大猿には肝心の手応えが無い事に気づいて重々しい拳を再び振り上げた。その手が、消えた手応えを追って背後へと体を回転させる遠心力を乗せて振り回し、長い腕が鞭のようにしなる。
人では成し得ない肩の可動域がよりそのしなやかさを助く。ブオン――と、空を震動させる音を響かせて、今にも飛びかかろうとしていたユーリックは足を止める。
ユーリックの眼前を大猿の拳が掠め、剛腕が故に空気が流れ風が起こった。
僅かに避けたユーリックを追いかけ、更にもう一方の腕がユーリックに振り下ろされようとしていた。その瞬間、ユーリックは高く、業魔の首筋に向かって跳び上がる。
羽でも生えたかのように軽やかに身を翻し、しかし鋭敏さは健在のまま。あっさりと狙っていた肩へと乗り上げると、耳の下。動脈へと短剣を突き刺した。
どくどくと脈打つ音が、大猿もまた生物として生きているのだと実感させる。
それまで空気中に放っていた冷気が、大猿へと集まった。短剣からは魔素が流れ込み、その巨躯に口からは冷気が肺へと容赦なく流れ込む。
大猿は一切動けなくなった。次第に、脈打つ感覚も弱くなり、やがて止まった。
ゆっくりと命を蝕む行為に、殺生という言葉が浮かんでは、暗闇にも似た胸の奥底に消えていく。
***
お知らせ
次話(六月十五日更新分)より、一日一話更新から、二話更新とさせて頂きます。
理由とつきましては、このままですとドラゴンノベルスの規定文字数に達しない為です。
途中でストックが切れる恐れもありますが、出来る限りのことはやってみようと思います。
宜しくお願い致します。
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