四 死の匂い
湖水の上で、大猿は立ったまま死に絶えた。
ユーリックが魔素を途絶えされると、冷気は薄まり、場の空気が元に戻る。すると、それまで気にならなかった死臭が途端にユーリックの鼻を掠めた。
大猿の
いっその事、憲兵にでも要請を出して任せたいと、背後で高みの見物をしている人物をじとっと覗いてみる、が。その男はというと、いつの間にか大猿の肩あたりに乗っかって、しっかりと観察中だった。
「ユーリック、凡その数ぐらい数えておけ。念の為、死体を並べて
と、ユーリックに目もくれずに命令を下す。
――こう言うのは、下っ端の仕事ですよねぇ
目を逸らしながら、ユーリックは適当に「はーい」と返事する。ロアンの下にいる中では、ユーリックは万年下っ端である。ロアンの下で収っている立場上逆らう道理もなく、作業に取り掛かるしかない。
ユーリックは適当な長さの骨を拾うと誰のかも分からない衣服の一部であったであろうズタボロになった布切れを先端に巻く。
暗闇の中では虚な屍の山だったものが、現に死に様を伝えるとでもいうように、無惨な光景がユーリックの視界一杯に広がる。
救いは、どの死体も損傷こそ著しいが、腐食はほとんど進んでいない事だった。
暑い。そう感じたのは、ユーリックが丁寧に死体を並べ終わった頃だった。
寒々とした環境下は変わっていない。二時間ほど、延々と重いのから軽いのまで屍を動かし続けたから、単純に汗をかく程の作業だったからなのだろう。しかも、ユーリック一人で全て片付けたのだから尚更苦行だったはずだ。
――何が悲しくて知らん奴の死に顔ばっかり眺めなきゃいけないの
眉を顰めた顔から、うっかり胸の内の言葉が飛び出てきそうな程にうんざりしていたユーリックだったが、並べただけで仕事が終わっていないと嫌味が飛ぶ前に一体一体を確認していく。
ロアンの言葉の意味は、単純だ。
妖魔が存在しなかったと言う報告が虚偽でなかった場合。
虚偽であったとしても、魔術師が黒道等と共に良からぬ事を行なっていた場合。
夜門機関に所属していると言う立場から、建前として司法の場に引き渡す必要がある。
そして、ロアンが確信にも近い形で言葉を吐いた理由は暗がりに集まる黒道が何をするか――それを考えた時に邪推程度では済まされない事を行っていると容易に想像できるからだろう。
その推察から、ユーリックが松明で照らし眺めたのは女の屍だった。
旅路の女は少ない。一人旅は相当腕に自信が無い限りは危険極まりなく、また女を連れての旅路も似たようなものだ。
この国で、女の地位は低い。
簡単に拐かされ、当たり前のように売り買いされる程に。そして、売った側が捕まる事は稀であり、捕まったとしても大した罪にもならない。
大罪となるのは、大抵貴族にまで被害が及んだ時のみだ。
今回の場合、明確な三合を行なっていた証拠があれば別である。その間に行われた軽微な犯罪行為含め全てが証拠として扱われ、刑罰対象となり得るのだ。
現在、三合に関わって生き残っているのは、恐らく宿場町の統治者だけだが。
そうやって整列して並べた顔を眺め歩くと、ユーリックの足が止まった。
一体の女の屍。どれだけ長い間放置された屍か肉は腐りかけてはいたが、妖魔に喰われた跡もなく死斑がくっきりと残る。顔や首、腕に、衣服を捲ると腹にも、殴打された跡があった。
嫌でも、この女が生前何をされていたのか想像に難くない。
死の間際まで凌辱され、使い物にならなくなったからか、飽きたからか。人としての心など、ありもしない連中に弄ばれるままに命を落としたのだろう。
もう、その様を見てもユーリックには同情の言葉も浮かばない。ただ、人の醜さだけが、ユーリックの心根をじわじわと痛ぶっていた。
◆
宿場町に戻ると、ロアンは真っ直ぐに町の統治を行なっている町長の元へと向かった。
町中でも一等大きな家は、小綺麗に調度品が並べられ、小さな宿場町にしては少々羽振りの良さに明らかに黒であると自供しているようなものだった。
『夜門』を名乗ると、目が泳ぎ出す町長や取り巻き。共に荒稼ぎをしていた賊が突如現れた妖魔によって壊滅したか、行方を眩ましたか。その辺りを調べるのは憲兵や州兵の仕事である為、事実はロアンにとってどうでも良い事だ。簡単に棲家を変えられる者達とは違い、逃げ場なく、己が財の保身の為に街に留まった男――今、罪は全て町長に降りかかっている。
仰々しく客間に通すが、町長がロアンの目を見る事無く膝の上で握り拳を作ったまま俯いて震えていた。
向かい合う長椅子で町長は対面に座った事を今や後悔しているやもしれない。何と言っても、その厳粛な姿勢と強面の顔。物々しい雰囲気を醸し出す屈強で大柄な体格。そんな座っているだけで相手を強迫観念に駆られる相手が事もあろうに老師格である事を漏らしたものだから、さぞや町長は生きた心地なぞ彼方へと吹き飛んでしまったのではないだろうか。
「付近で妖魔が目撃され、先ほど討伐を行ってきた」
「……それは、ご苦労様です」
六十歳程度の皺の寄った表情をした男は、項垂れ、縮こまり、顔が青ざめる程に怯えて、既に罪に怯えている。冬の寒さを忘れ、冷や汗が頬を伝う様は緊張と動揺が滲み出て、それこそが証拠そのものだろう。
泳いだ目が小さな助け舟でも願うかの様にチラチラとロアンの背後に立つユーリックを映したが、ユーリックは触れた屍の匂いが染みついたまま忠実な弟子を演じるだけだった。
夜門へ討伐依頼を出したのは町長だ。巌窟でよからぬ事を行っていた者達と魔術師が消え、対処できなくなった時点から言い訳を考えていた事だろう。が、眼前に座る威圧感を前に口は震えて口から出るのは音ばかりで意味をなさない。
「屍は調べた。現状であんたが脅されていた証拠でも無い限りは全てこの町の責となる。この町が黒道と何をしていたかを調べるのは俺じゃないからな」
「で……ですが、魔術師様も……我々に……強力を……」
「虚偽報告がなければ、収賄でなく報酬として三合は成り立たなかったがな。どの道、俺の弟子ではない。南部
この言葉に、町長の肩が揺れ、その目に期待が籠る。含みのある言い方にも聞こえるそれに、不安げながらも上下に両の掌を重ね擦り合わせ、如何にもな姿勢を見せる。
「も、もちろん、幾らかの上納金でしたらお支払いします。今までの方の倍は――」
調子が回り始めた口が軽快に動き始めた矢先、「はあぁ、」と態ととしか思えない重く深い溜息に、快調に向かい始めていた町長の顔色はびくりと肩を震わせると同時に顔色は青ざめた。
「あんたは今までそれなりに利益があったようだ。既に三合として伝達は回した。明日には憲兵があんた等の捕縛に来るだろう」
ロアンは言葉を吐き捨てると同時に、町長に侮蔑の眼差しで睨むと立ち上がった。「帰る、」とだけユーリックに告げた時には町長に背を向け、そのまま客間を後にしようとした。
慌てたのは町長だ。このままロアンが帰れば、己が末路は決まったも同然だ。
「……ま、待って下さい!!」
何か、何かと思考を巡らせるが、ロアンを引き止める言葉も浮かなければ町長は許しを乞う事すら無かった。
ああだこうだと考えている間に、ロアンはユーリックを伴って町長の視界から消える既の所。扉を今にも閉じて消えてしまいそうなその時に、ロアンは振り返り町長へと追い打ちをかけた。
「俺は欲目しか考えていない奴らが嫌いだ。上納金しか己が行いを正当化する手段が無いと知っているのなら、金で解決する同類でも見つけるんだな」
まあ、今更遅いが。と、現実を突きつけると、無情にも愕然とする男を一人残して扉は、バタン――と大きな音を立てて閉じた。
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