九 魔術の本質

 ユーリックから流れ込んだ魔素に変化が現れた。

 魔素は、体内にある動脈を流れる血液を模した影響か、血と同じく紅き色をしている。

 

 其の紅が妖魔の身体を侵し駆け巡った、その瞬間。

 その紅色は急速なる冷気となった。


 魔術の根本は、知識か、その身に触れた経験だ。


 例えとして――水を知るならば、けい(水素)とよう(酸素)を合わさったものとして知識に置きとどめる事で魔素をそれぞれに変化させる事も可能だ。本質を理解する事こそ、魔術に求められる事でもある。

 が、経験もまた然り。

 水に手を触れ、その冷たさ、感覚を身に染み込ませる程に何度も何度も観察、研究する事で魔素による具現化は可能なのである。但し、科学式で知るよりも威力は個人差により乱高下する為、不安定で推奨はされていない。



 しかし、ユーリックが今、妖魔に対して実行しようとしている事は正にそれであり、ロアンがユーリックの才能を最大限に引き出そうとしている事柄でもあった。



 冷気は単純な化学式では存在しない。凍結は、温度が凍結点を下回った場合に起こる現象だ。

 けい(水素)とよう(酸素)の化学式を絡め凝固作用を用いたとしても、そこに凍結に至らせるには魔素を用いた冷気を創らねば不可能だ。


 そこに、経験が必要となる。寒さは誰しもが知っているが、記憶を頼りに創った所で、水を凍らせる程の冷気を発するとなると容易にはいかない。

 水の上辺を凍り付かせる、その程度が殆どだろう。


 されど、ユーリックはその冷気を自在に創り出せる、唯一無二の才能を持つ者だった。


 魔素が浸透した妖魔は、その身体の芯から一瞬にして凍てつく。血管を伝い、臓腑、肺、心臓、骨までもが冷気に侵され、たった数秒で冽冽れつれつとした寒さに怯える間も無く妖魔の身体は地に倒れ、その命は潰えたのだった。


 ユーリックは妖魔の屍が地に斃れるよりも速く、その場を移動していた。

 既に、次なる標的がユーリックの背後に差し迫る。瞬時にユーリックは振り返る事もなく地を蹴り、ひらりと舞い上がると、襲いくる妖魔の頭上へと降り立った。同時に頭部右耳の下辺り、同じく頸動脈へと狙いを定めるとその刃を振り下ろす。

 下からとは違い重力の乗った一撃は先程よりも深く突き刺さる。迷いも焦りもない冷徹な一撃は又も一瞬で魔素が流れ込み、あっさりと死へと至らしめた。

 そして、紅玉色の瞳は妖魔が崩れ落ちるよりも早く次の獲物を見定める。

 恐れはない。その瞳には、ただ闘志だけがある。 


 ◆


 どれだけ殺し続けた頃か。ユーリックは、最後に殺したであろう獣の上で天を仰いでいた。

 返り血で衣服が黒々と染まる姿は、狂気に染まったかのよう。 

 魔素を多量に消費した事と初めて妖魔討伐を成功させた事による麻薬にも等しい高揚感をユーリックに齎し、身体中に血液と共に昂る感情が駆け巡る。紅玉が如き瞳の瞳孔が開き、「はあぁ」と大袈裟に天に目掛けて吐き出す吐息は声色にまで昂りが滲み出ていた。

  

 これで、身に起こった感覚のままに飲み込まれたのなら、殺す事を楽しむだけの狂人に成り果てる。

 こぼれ落ちる吐息が終わりを告げ、ユーリックは瞼を閉じた。魔素から滲み出る高揚感を鎮める為か、数度の深呼吸を繰り返す。

 次に紅玉色が現れた時には、その瞳は真直な姿を映し、ユーリックの様子を伺っていたトビの居所へと向いていた。 


「何も問題なかったな」


 トビは穏やかな様相を取り戻して、柔らかい笑みを見せた。当人は慣れと、初めてを完遂したユーリックを慮っての行為なのだろうが、妖魔の死骸に埋め尽くされたそこでは、まるでトビの気が違ってしまったかのようにも見える。


「さてと、一度戻るか」

「今って……どれぐらいかな」

「ユーリックが存外に動けたからな、大した時間は

 過ぎちゃいないさ」


 トビはユーリックに近づき、手を差し出し妖魔から降りるようにユーリックを促す。子供じゃない、と感じつつもユーリックは素直にその手を受け取った。 

 ユーリックよりもずっと硬い掌は、トビの穏やかさとは裏腹な姿を連想させる。妖魔と対峙している間も、ユーリックは時折トビを盗み見ていた。


 的確な一撃と、その鋭さ、その動き。全てが、ユーリックにとって目に焼き付け物にしたい技術ばかりだった。今も、トビに返り血は少なく、それだけで卓越した技術を知らしめる。どうせなら、一挙一動全てを観察したかったのだが、流石にその余裕はなく悔やまれるばかりだ。


 二人は、拠点に向かいながらも念の為、警戒を怠らなかった。トビ曰く、近場の根源が『枯れた』が他にも近くの根源が反応しないとも限らないとの事だった。『枯れた』とは命を吐き出していた根源――陰の精気が底をついたのだと、ユーリックに説明する。


「何で、湧き出るとか、枯れるなの?」

「さあなぁ、そればっかりはな……師父に聞いてみるか」


 古くは、妖魔は大陸中に居たとされる。しかし、時代に合わせ山が減り根源となる場所も減ると、次第に数も減っていった。

 今では、南部のみが陰の存在が色濃く残る地でもあるが、その南部でも妖魔の解明は殆ど進んではいない。

 未開の地が多い故、陰の影響を受けやすいのか、それとも何か別の要因があって今も尚、南部だけが陰の存在を生かしているのか。それすら、誰も解してはいないのだ。


 判っていることは、昔と違わず増えすぎると山を下りて人を襲うという事、人しか襲わないという事、一つの陰が生み出す妖魔には一定の推量があるという事。推量に関しては場所によって違いがある為、推量の最大値の特定は難しいとされる。


 何故、暗がりというだけの陰から生命体が生まれるのか、それこそが神秘とも言える謎でもあった。

 まあ、魔術師は『奇跡』などの類を信じてはいない。彼らにとって、目に見えない存在など存在証明の問答の時間すら無駄と考える。それこそ、『神秘』などといった人では推し量れない事象など最も嫌う。その推し量れない存在の中でも頂点たる『神』なるものを現世から消し去り、幻想的存在であると世間に広める程に。


 ◆


 拠点に近づくと、ぼんやりとした灯りが指標となって二人を導いた。

 暗闇の中の光は、近づけば近づく程に安らぎにも似た感覚がユーリックにじわじわと湧く。

 光源の暖かみある色が、感覚を鈍らせて視界に映る全ては安全で、遠い闇の向こうが恐怖渦巻く恐しどころにも思えるのだろう。人の感覚が見えない闇を忌避し、ぼんやりと映し出す場所――目に映る場所しか見なくなるのだ。

 だからこそ、ロアンは灯りを持たせない。闇に混じり身を委ねる事で、闇の中の気配をより鮮明に読み取れる。口では、はっきりと説明しないが要はそういう事なのだろう。


 拠点に戻ると、そこにロアンの姿はなく、木に繋がれた三頭の内、しょうだけがユーリックを見つけて切なげな目を向けていた。

 どうにもでつとトビの馬であるはつが隣にいるだけでは不安で仕方なかったのだろう。じいっとユーリックの顔を見つめたかと思えば、前足の蹄を地団駄踏んで鳴らしては怒っているかの様な仕草を見せる。


 『寂しかったんだからっ!』とでも訴えているようで、怒っているしょうに胸打たれたとでも言うのか、ユーリックはすぐさまに駆け寄り頭を撫でていた。甘やかすつもりはなく、ただ可愛くて撫でてやりたいと思っただけだった。なのに――


「臆病だな、これからを思うと別の馬にした方が良いかもな」


 トビの言葉にユーリックの肩がびくりと跳ねた。

 

「でも躾すれば問題ないでしょ?」

「いや、肝心な時に主人を置いて逃げ出すかも知れない。そう言う奴は、俺たちの仕事に合わないよ」


 トビの言葉が、ぐさりとユーリックに刺さる。トビはユーリックの事を想って、師父であるロアンの考えと己の経験則を絡めて話をしている。何も間違ってはいない。広い森の奥底で財産の一つでもある等しい馬を失うのは痛手でもある。

 それでも、道理だけで物事を考えるトビの姿が、ユーリックには少しだけ遠く感じた。

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