八 陰から生まれる獣
深い深い闇の底、山々が自らを苗床にして命を孕む。
そこに意思はない。
ただ、溜まったものを吐き出しているだけなのかもしれない。されど、悪意であれ無垢であれ、それが災である事に変わりはない。
暗く、どろりと肌にまとわり付く闇の中、生まれた命は牙を剥く。
ユーリックは短剣を右手に握り締め歩いていた。何もするなと言われたが、手持ち無沙汰では心許ない。暗闇の中で精神を保つ為には、己が手の内に武器があるという事が、僅かながらに冷静さを取り戻してくれるというものだ。
「あんま身構えんなよ、言われただろ?最初は暗闇に慣れろって」
前を行くトビは、振り返る事なく言い放った。甘やかすなと叱責されたばかりが、トビの口ぶりは相変わらず穏やかだ。
ただ、いつもと違い、トビの背からは殺伐とした空気が漂った。手合わせの時ですら、トビは穏やかで清涼とした気配を思わせる。
それが今はどうだ。
不穏を思わせる闇の中、拠点とした灯りが遠くなればなるほど、ユーリックはトビを視認するのが難しくなっていた。
けれども、前方からはトビの気配だけは嫌でも感じる。それもトビとは思えぬ程の重々しい殺意。
ユーリックが教わってきたのは、闇の紛れ方だ。
トビの手法は、寧ろ己の存在感を露わにしていっと言っても良いだろう。
歩き方も、ザッ――ザッ――、と地に足の裏を擦るように歩いている。
丸で、態と居処を知らせているような――
ヴヴゥ――
突如、獣の唸り声が闇の底から響き渡った。
闇世に紛れる気配は正に闇そのもの。唸り声が一つ始まると、それに続いていくつも声が連なって行く。
――囲まれている
目の前を歩いていたトビが足を止め、ユーリックは咄嗟に構えた。けれど複数の見えぬ敵を前に、どれに敵意を向ければ良いのかすら迷い身体は強張っていた。
初めての環境に、初めて間近に感じた陰から生まれた存在。まだその姿を認識すらしていないのに、極度の緊張状態からかユーリックの額には冷や汗が伝った。
「ユーリック、大丈夫だ。離れるなよ」
暗闇の中、ユーリックの指標はトビの気配だけだった。顔の表情など到底見えない。なのに、ユーリックにはトビが笑っているような気がしてならなかった。
トビが動いた。
腰に左手を伸ばし背に隠れた短剣を掴むと、ゆっくりと構える。
左利きのトビは右足を軸として、身体を左背面へと傾けて、左足を下げた。動作に寸分の迷いはなく、動きも滑らかだ。
ユーリックが不安の波に押し寄せられそうになっている、今。トビの姿は悠然として、ユーリックの胸の中に不安が襲いかかる既で一気に波が引く感覚があった。何故だか、トビを見ていると安心して恐怖が薄らいだ。
トビからけたたましい殺気が満ち、満ちた。その瞬間。
煌々と赤い色が光る。敵意の色か、怒りの色か。真っ赤に染まった瞳がユーリックとトビを見定める。
一定の距離から近づいて来なかった獣達が一斉に駆ける音が響き、それ迄闇に紛れていた存在がしっかりと存在を浮き立たせて飛びかかって来たのだ。
最初に動いたのは、三頭。どれも狼に似た姿だが、大きさは一回りも二回りも上だ。それこそ、ユーリックなど顎で砕かれたら一溜りもないだろう。
殺気を纏い黒く染まった狼は、口を大きく開けて距離を詰め、ユーリックの視界に飛び込んだ。
一瞬だった。
ほんの一瞬でユーリックの鼻先に爪が届きそうだった。
が、牙がユーリックに届くよりも早く、眼前にいたはずの獣の頭には短剣が突き刺さり地に伏していた。いや、叩きつけられたと言った方が正しいだろう。
ドゴォッ――と、地でも割れそうな音がユーリックの耳に届いた時には、トビは妖魔の頭を地面に叩きつけると同時に次の標的へと視線を移していた。
微かに焦げたような匂いが漂うも、それが何かを理解する間はなく、驚くあまり身体が固まり指の先すら動かなくなってユーリックは呆然と立ち尽くすしかなかった。握りしめた短剣の存在すら忘る程に。
トビの動きは、ユーリックとは違い軽やかではなく、一撃一撃が重たく鋭い。
背後からトビの頭を狙い定めた獣を、一歩下がって鼻先を掠めたかと思えば再びその頭蓋へと短剣を突き刺し地面へと叩きつける。
更にもう一頭。ユーリックの横腹を狙う牙。
一点を狙う脅威にユーリックは気づき構えようとする。だが遅い。それよりも先にトビはユーリックの腕を掴み引き寄せると、再びその頭に短剣を突き立てていた。
全て、一撃だった。
あっという間に三頭は討ち倒され、ピクリとも動かない。
「ユーリック、ぼさっとするな。喰われたいのか」
突き刺さる言葉に、ユーリックは思わずトビを見上げた。闇に目が慣れたのか薄っすらとだが、トビの表情が読める。が、その眼差しは厳しく次に来る妖魔を見定めていた。
「今ので動きは判ったか?」
暗闇の中、動きこそ遅れたがユーリックの目には妖魔が視認できトビを目で追えていた。
不安は残るも、ユーリックは頷く。
「大丈夫……」
「ならば、次は動いてみろ。あれらは手合わせで加減している師父よりも弱いんだ」
険しかったトビの顔が、また笑ったようにも見えた。
ユーリックはトビから離れた。トビに背を向け息を吸い込むと静かにそれを吐き出す。
闇に溶ける獣達。けれど、ユーリックも又、その闇を手懐け始めていた。既に獣達が闇に紛れる事に意味はなさない。
――大丈夫だ、見えている
あれらは、トビに恐れをなして安易に近づいてこない。最初の三頭は最も臆病で急いてしまっただけ。だから怯えて縮こまる弱い存在を見抜いて、トビよりも弱いユーリックを狙ったのだ。
冷静に考えれば、考えるほど、陰から生まれる奇異な存在であったが、単純な獣にしか見えなくなっていた。
恐れは、完全に消えていた。
地を擦る音が聞こえる。それは、トビが再び構えた合図だ。
ユーリックも同じく構えた。
己の気配を消し、呼吸を止める。
そして――妖魔は一斉に動いた。
次々と闇から姿を表すそれに、ユーリックが動じる事はなかった。背後はこれ以上ない安心で包まれ、ただ前を見るだけ。
――
考えを巡らせる必要はなかった。
最初のトビの一撃の時に鼻についた匂い。あれは、獣の毛皮と肉が焦げた匂いだ。
ただ短剣を突き刺すだけでは致命傷にならない場合もある。確実性を求めるとすれば、妖魔の内部に魔術を使う事だ。
『下手に魔術は使うな。隙を作るだけだ』
ユーリックは昨晩言われただロアンの言葉が浮かぶ。『魔術を使うな』とは言っていないのだ。
だとすれば、トビは手法はともかくとして内部に魔素を流し込み、妖魔の脳を焼き切ったと考えるのが妥当だろう。
ユーリックの手に魔素が籠る。その魔素は短剣の
最初の一頭は眼前から差し迫った。
興奮状態で獣のそれと何ら変わりない姿を晒し、ユーリックの頭に齧り付こうと飛びかかるも、ユーリックはその下へと潜り込む。
妖魔の顎の下。潜り込んだ瞬間に、首の辺りの毛を掴みぶら下がると頸の付け根でもある頸動脈がある辺りへと短剣を突き立てた。
毛深い、獣そのもの。闇色に染まった毛並みを無視して、その更に向こうにある固く丈夫な皮へと力いっぱいに深く押し込んでいく。短剣の剣身が全て肉の内に入り込むのはあっという間だった。
その鋒が肉の内にある血管を上手く傷つけたのか、妖魔の黒い毛から、どろりと生温かい感触がユーリックの手にも伝わった。
――当たりだ
妖魔は陰から生まれるが、その身姿だけでなく
が、その死には時間が掛かる上に確実とは言えない。
トビは全て一撃で仕留めて見せた。ならば、ユーリックに求められているのも、同じくそれだ。
ユーリックは手に篭っていた魔素を短剣へと流し込んだ。流れ込んだ魔素は、短剣を伝い妖魔の肉の内へと到達する。
脈々と流れる血の如く、魔素は異物となって妖魔の内側で駆け巡る。その時間は、ほんの一瞬。体内で鼓動が脈打つのと同じ速さだった。
その一瞬で、ユーリックは自らの魔素が駆け巡った妖魔に更なる力を込めた。
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