七 期待
明朝、ユーリックの朝の日課は変わらなかった。違いがあるとすれば、雄鶏の鳴き声で目を覚ましたという事ぐらいだろうか。
いつもよりも一時間程度早く目覚めたユーリックは、微睡む余裕もなく起き上がった。身体の調子は万全で、あっさりと着替えを済ませると、颯爽と外に出た。
妖魔討伐は南部の魔術師にとって一人前の一歩と言われる程に重要事項だ。その一歩を踏みしめるかもしれないと言う期待で、意気揚々とユーリックの身体が動いて井戸の滑車がいつも以上に軽快に鳴った。
水桶が丁度手前までくると、滑車の音も無くなる。
周りに家屋もない中で、朝は静寂の中にある。
静寂が嫌に耳につく。ほんのりと冬の始まりにも似た冷気を頬に感じて、ユーリックは思わず南へと目を向けた。まだ空は東が白み始めたばかりで、いつもの起床時間よりも寒々しい。
白き山もまた、悠々とこちらを見ていた。朝焼け前の澄んだ空気を纏って冷厳なる姿を見ていると、朝の寒さが彼方から来ているようで、ユーリックは忙しさも忘れて白き山に心奪われ立ち尽くした。
――行かないと……
ふと、脳裏に幼子の声が浮かんだ。
幼子は何かから逃げ焦る様に、何度も言葉を繰り返していた。何度も、何度も。
――行かないと……
少女の思想が、徐々に、徐々にユーリックの脳裏を埋め尽くしていく。視線は虚になり、夢の中の幼子の心に引き摺られ、ユーリックは手にしていた井戸の縄から手をはなしていた。
滑車がカラカラと回り、引き上げた桶は遠くでバシャんと水音たてて井戸の底に着水した。が、どの音も、ユーリックに聞こえてはいなかった。ふらりと白き山へと歩き出した――が、
「ユーリック!!」
「え?」
トビが血相を変えた顔で、ユーリックの腕を掴んだ。
突然掴まれたからか、それまでゆらゆらと揺れていたユーリックの身体がピタリと止まる。と、同時に掴まれたままの腕を見下ろすが気にする様子もなく、トビに向かって微笑みかけた。
「トビ、おはよう」
焦りと不安を抱えたトビとは裏腹に、ユーリックは素っ頓狂に平然と挨拶をするものだから、トビはユーリックを引き寄せて抱き締める事しかできなかった。
「そうじゃねえだろ……」
「なんで? 朝だよ?」
首を傾げて、ユーリックは何かあったのかとトビへと問い掛ける素振りを見せる。まるで、何事もなかったかの様に。
トビは心苦しくなるも、抱き締めていた腕の中からユーリックを解放すると、陰気を取り払い顔を上げる。目の前にある顔は、きょとんとトビの様子を心配する十三歳の少女の姿だった。大丈夫? と寧ろトビが心配されている始末に、トビは苦く笑う事しか出来なかった。
「……はあ、まあ良いや。餌と水はやったか?」
「あ、まだ」
「じゃあ、とっとと済ましちまえ。朝飯食って、早めに出るってさ」
わかった、とユーリックはあっさりとした返事と共に動き出す。それまで白き山に心奪われていた事など忘れ、ユーリックは再び井戸の縄を掴むと軽快に、
トビが背後で胸を撫で下ろしている事など知らずに――
◆
生命漲る山々は国の奥底を全て包み込むが如く、行く先々を遮って静かに佇んでいた。
南部の面積の半分以上を覆い尽くす深緑に染まる大地は、一様に雄大でありながら厳粛に人を拒む。朝靄に包まれて、聞こえてくるのは朝を喜ぶ鳥の声と、獣達が侵入者を知らせる遠吠えだ。山にこだまする音の響きは、現実と夢の狭間の様相をより醸し出した。
百年――いや、千年の歳月を重ねたであろう巨木は重厚たる生き様を見せ、人を見下ろす。足下は獣の足跡はあれど、苔むした緑青に覆われていた。
美しくも、異界すら思わせる生命色濃く溢れるその土地を、遥か昔は『神』という言葉で表したのだろう。
道すがら、木々の揺らめきすら無いそこでユーリックは馬上から上を眺めた。空は大樹の重なり合う枝葉で覆われ、木々の隙間からの木漏れ日はか細く、光は遠い。
薄暗い夕闇にも似た感覚を携えて、その様が妖しき気配を産んでいた。
獣は人よりもずっと敏感だ。ユーリックと同じく、山深い場所に慣れていない
馬は存外臆病な生き物だ。しかし、これからの事を考えたならば、錆もこの薄気味悪い山々に慣れておかねばならないだろう。
落ち着かせる為にユーリックが
「大丈夫、大丈夫」
ユーリックは何度も同じ言葉を繰り返した。臆して山へと入れないとロアンが判断すれば、錆は売られてしまうかもしれない。ユーリックが勝手に考えただけだったが、それでもそんな可能性すら浮き立たせるのが嫌で、何度も何度も錆を撫であやした。
前にはロアン。背後にはトビ。どちらも、山など手慣れた場所のはずで、何度も足止めを喰らっているユーリックは置いていかれてもおかしくはない。が、一度としてユーリックとロアンの距離が大きく開く事もなければ、トビに追いつかれる事も無かった。
恐らく、どちらもが現状を問題無いと判断しているのだ。
そうして、暫く進んだ頃。
もうそこまで来ると山々には木々が犇き合い、闇にも近い空間が出来上がっている。
今にも
南部には未開の地が多い。今日も、ユーリックの修練を兼ねてはいるが、本来の目的は地理と妖魔の把握だ。
何が起こるかも分からない場所にロアンが新米の弟子を連れて行くのは、己にそれだけの実力と自信があってこそだろう。
「馬はここら迄だ」
そう言って、ロアンは馬を降りた。トビとユーリックもそれを見習い、少しばかり開けた場所を探すと三頭を手頃な木へと繋いだ。
其々が荷物から角灯を取り出し油の染みた芯へと手を触れると、ぼうっ――と火が灯った。
小さな灯りが三つ。闇を照らすにはか細く、導にしては小さい。
「妖魔は人を襲い、光を恐れる」
ロアンの静かな語り口は、ユーリックへ向けた警告だ。
「だが、灯りを頼りにすれば、視認出来ない暗闇の先を恐れていると同義だ」
角灯三つで馬を繋いだ木を囲む。唯一の指標はか細く角灯のガラスの中で小さく揺れて、ユーリックの不安を駆り立てた。
「最初はトビの後ろで学べ。下手にトビの邪魔はするな。トビを殺したくなければな」
ロアンの口調は冷たいが、ユーリックが胸に置き留めておかねばならない事でもあった。お前の命だけではない。その言葉の意味など考える必要はなく、恐る恐るトビを見上げた。
変わらず優しげな表情でユーリックの隣に立つ金の髪を携えた男は、ユーリックと違って堂々としていた。
恐れていない。今在る闇にすら、トビは一切の恐れを持ってはいなかった。
「だってさ、出来るな?」
冷徹な言葉と違い、トビは穏やかに諭した。
「トビ、甘やかすな」
「判っています。出来る限り手は出しません」
トビは両手を上げて降参にも似た素振りをしてみせる。素直な姿勢と、師父に従順な姿。トビは、何もロアンの叱責を恐れているのではない。
ユーリックの成長を想えば、手は出すべきではない。トビも、ユーリックと等しく厳しい修行を切り抜けてきただけに、ロアンの方針が間違っているとは考えていなかった。
それを悟ってか、ロアンはトビから目線を逸らし、隣で緊張を見せるユーリックを見据える。
「先ずは、闇に慣れろ」
最後にそう告げて、ロアンは闇の中へと消えていった。
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