六 師兄と師妹

 気付けば――窓から差し込む光はうつろい、黄昏時へと変じていた。

 視界に夕暮れの陽光が差し込んで、既に夕闇が近いことを知ったユーリックの手がピタリと止まる。同時に背後に気配を感じて、慌てて立ち上がり振り返った。


「よう、」


 と、気さくに話しかけたのは金髪碧眼の男だった。ユーリックの真後ろの書棚にもたれ掛かる姿は、清々しい温和な青年だ。


「トビ」


 ユーリックが振り返った事で、慣れ親しんだ仲の様に無遠慮に机へと近づきユーリックが訳した紙を手に取った。まだ二十枚程度しか終わっていないそれを、男は一枚一枚丁寧に読んでいく。


「へえ、よくできてるな」


 その金髪の男――ロアンの弟子の一人、トビは朗らかに笑いながら呟いた。トビの優しげな顔で、ユーリックも嬉しさから顔が緩む。

 トビの言葉は無情な世界の中でも真っ直ぐで、穏やかな声質も相まって心地が良い。兄弟子としてなのか、歳が六つしか離れていないからなのか、冗談まじりに言う可愛い妹弟子だからなのか、トビはロアンの弟子の中でもユーリックに対して本当の兄妹の様に親身だった。

 しかし、トビの来訪に浮かれてもいられない。魔術師として独り立ちしたトビがわざわざ師父であるロアンの家で宿泊するとなると、何かしら理由がある。

 ユーリックは、日も暮れたこともあって、本を閉じ書棚へと戻しがてらトビに問いかけた。


「何か大きい仕事でもあるの?」

「あー、大きくはないな。お前を妖魔退治に連れていくってさ。俺はその補助」


 寝耳に水に話だった。驚きのあまり、仕舞いかけていた本がユーリックの手の中からずるりと落ちそうになる。


「本当?」

「俺は嘘は吐かない。イーライと違ってな」


 一瞬、心弾んで浮かんだ気持ちが一気に突き落とされた。イーライ――それも、ロアンの弟子の一人である。が、ユーリックがロアンと同じぐらい忌避する存在であった。


 ユーリックの言葉を借りて喩えるならば――性格がひん曲がったクソ野郎、と言う言葉が一番似合うだろうか。

 片付けが終わり、二人は並んで書庫から出たが、イーライという名前が気に食わないのか、ユーリックの顔はあからさまにトビが現れた時とは違って不機嫌そのものだ。


「……イーライもいるの?」


 その名前を口にする事すら嫌悪するかの様に、濁り濁った口ぶりの上、顔は歪み口はへの字に曲がっていた。


師兄しけいは留守番。お前と相性悪いからな」


 トビはユーリックの頭を撫でながら、顔に出すもんじゃないぞと嗜める。が、「俺もイーライの事好きじゃないけどな」とあっけらかんに笑って見せた。

 一条の光の如く、清々しく明るい様。ユーリックもトビといる時だけは心に安寧が戻った様な気がしていた。


「今日は俺が手合いしてやるよ」

「良いの? 師父に怒られない?」


 トビはユーリックに甘い。以前にもそうやって勝手に申し出て、トビが師父に叱られている事があった。手合いの相手をした事にではなく、加減をして手合いをしたという理由で、だ。


「今日は良いんだよ。軽く身体を動かしとくだけだから」


 加減する事を否定はせず、トビは悪戯に笑った。


 ◆


 夕餉はいつもどんよりと重い。

 朝と昼こそ忙しいからと、メイと二人でお喋りしながら食事を楽しめるが、夜ばかりは礼儀作法も兼ねて、ロアンと顔を見合わせる事になる。

 ロアンの性格上世間話といった会話があるわけではない。

 重苦しい空気に、静まり返った食堂。おかげで、食事の味は今一つだろう。

 しかも細かく作法を教えて貰えるわけでもなく、ただ、見て覚えろとユーリックは言われていた。ただし、相手が不快にさせる程に見つめ過ぎることは禁止されている。

 見て覚えろと言うのに、見てはいけない。何とも難しい話である。

 ロアンが口を開く時があるとすれば食事を口に運ぶ時か、ユーリックが無作法な真似をした時ぐらいだ。


 そして、今日は重苦しい空気に嫌な視線が追加された。

 ユーリック眼前、円卓の正面には師父ロアンが。左にはトビ。そして、右側にはユーリックに今にも唾棄しそうな程に嫌悪の目を向けるイーライの姿があった。


 ――はいはい、私も嫌いですよ


 ユーリックはわざと気づかないふりで、師父ロアンとのいつもの食事通りに無表情を貫いて卓に座っていた。

 

 卓の上にはユーリックの好きな鶏肉の煮込みが置かれている。醤油と生姜の香りが漂い、箸で突くとほろりと崩れる程に柔らかい。それ以外にも、青菜を塩と大蒜にんにくで炒めただけのもの。塩見は薄いが、鶏肉の味付けと相性が良い。

 更に大きく切られた豚肉が入った燉湯ドゥンタン(スープ)もまた、肉が箸で切れるほどに柔らかい。

 何故今日に限って……とメイに恨み節を言いたくもなったが、男三人分の食事を思うと手軽だったのだろう。

 これをメイと共に楽しめたらどれだけ良かった事か、と存分に味を楽しめない事が只々苦痛でしかなかった。

 もういっそ早く終われと念じて、黙々と咀嚼にだけ集中していた。

 そんな時、静まり返った憂鬱な夕餉の中、唐突にロアンは口を開いた。

 

「明日の事だが、トビから聞いたな」


 話しかけられる事はないと油断していたのもあって、ユーリックの肩がびくりと揺れる。目溢しか、特に注意もされない事は良かったのだが、いつも以上に厳しいロアンの目がユーリックを睨み威圧で押し潰した。


「妖魔一頭殺せば上等だ。が、妖魔殺しが全てではない」


 要は、ただ殺す事だけでは駄目だという事だろう。

 突き放す物言いに、穏やかではない視線。殊更、イーライは腹の中でしくじって死ねとでも願掛けしていそうでならなかった。

 その様な状況下でも、ユーリックは動じない。

 

 妖魔は、南部にのみ現れる陰より湧き出る存在だ。陰とは――文字通り、翳りのある場所を指す。

 生気溢れる山々の陰りから、時折命の持った獣が生まれるのだ。夜にのみ活動し深い山々を彷徨うのだが、数が増えると山を降りて人を襲う。それゆえに、南部の魔術師の多くは妖魔討伐を生業とした。

  

 そう、南部では妖魔など一人で倒せなければ、実力を認めてすらもらえないのだ。特に、南部はロアンの考えが浸透している。

 実力がなければ、無慈悲な世界で生きてなどいけない。


「わかりました」

「下手に魔術は使うな。隙を作るだけだ」

「はい」


 助言は終わったのか、止まっていたロアンの箸が動き出した。また、鎮まり切った食事の再会だ。箸と食器がぶつかる音だけが、食卓らしさを醸し出すだけの時間は、僅かながらに明日への期待が込み上げ始めたユーリックにとってあっさりと終わりを迎えた。

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