玄冬の魔術師

第一部

序章

零 死

 真っ暗な竈門の奥底で、少女は自分の心臓が張り裂けそうな気がしてならなかった。

 

 猛吹雪が叫び声を上げながら家にぶつかる度に戸口が揺れる。

 ヒュウヒュウ、ガタガタと繰り返される音に紛れて、少女は嗚咽混じりに溢れる息を必死になって押さえていた。

 荒い息はどれだけ口を塞ごうとも興奮状態冷めやらぬ今では止まる事もない。

 歯を食いしばって、両手で口を覆って――けれども、恐怖心だけはどうやても抑え込めなかった。


 怖い。

 怖い。

 怖い――


 少女の鼓動が、家の中で鳴り響く音に合わせて早鐘を打つ。 

 コツ、コツ――と耳慣れない足音が、今も尚小さな家中で鳴り続けているのだ。強盗という言葉が無縁の山岳地帯の小さな村で、ただの足音が張り詰めた空気を生み出す。その足音に合わせて部屋の明暗が移動していた。


 足音の主が手にした松明がゆらゆらと揺れ、見たくもない現実を少女に齎す。竈門から一丈いちじょう(三メートル程度)も無い家の中心、少女の両親は床に伏して血を流していた。ピクリとも動かない姿に、年端もいかない少女の脳裏に死という言葉が浮かんだ。

 

 松明の灯りと一緒に靴音を家中で響かせ続け、近づいたり、遠のいたり。探し物でもしているのか、家中を何度も丹念に歩き回っていた。貧しい、山岳地帯の村に、まともな金目の物など何も無いと言うのに。


 ――早く、あっちに行け


 少女は、ぎゅっと目を瞑ると頭の中で念じ続けた。目を開けたその時には、怖いものがどこかへ行っているかも知れないと、僅かにも希望を抱きながら。

 次第に探す場所が無くなっていた足音が、ピタリと止まった。出て行くのだろうか、そう期待もしたが、コツコツと靴音は再び鳴り出した。あと、最後、探していない場所へと向けて……


 

 徐々に、一歩、また一歩と足音が近くなる。

 そして、無情にも、すぐ傍まで近づいていた足音が竈門の目の前で――止まった。

 

 音が消えたと同時に、竈門へ差し込む灯りが強くなった。ゆらゆらと揺れる赤色。

 それ迄、あれ程靴音が恐ろしかったのに、今度は轟々と吹雪の音が恐ろしいまでに耳の中で入り込む。それが己の鼓動とは気づかずに、少女はうっかりと喉の奥から、「あ」とだけ声が漏れた。

 

 その瞬間、灯り指す竈門の入り口から大きな手が少女目掛けて伸びた。

 少女に逃げ場は無く、力任せに捕まれた首に苦しむ間も無く竈門から引き摺り出される。煤だらけの身体が、乱暴に床へと投げ出され、少女は勢いのまま床で頭を打ちつけた。


「う……あ……」


 痛みと恐怖が同時に襲う中、少女はもがいた。

 

 ――逃げなければ

 

 少女の視界が揺れた。頭を打ったからか、目眩が視界を阻む。

 逃げろ、早く逃げろと少女は床に投げ出されたままの身体をうつ伏せに這いつくばらせ、腕を押し出し、僅かでも足を動かし、怖いものから逃げようとした。

 

 それが、少女のほんの些細な最後の抵抗だった。

 

 少女は、背中辺りの服を捕まれた感触がして前へと進む事が出来なくなっていた。それでも尚、手を前へ前えと無駄にも思える抵抗を続けた。


 ――逃げないと、どこか遠くへ逃げないと


 だがその思考も、少女の身体が仰向けに転がされ、その視界が怖いもので埋め尽くされるまでだった。

 いつの間にか床に放り投げられていた松明の灯りで、怖いものの顔がくっきりと映し出される。

 少女には大男同然のそれは、黒い外套に身を包み、まるで魂を狩る幽鬼でも真似ている様だった。

 

 揺れる視界の中で、幽鬼に首を掴まれ息が苦しくなった。

 子供が抵抗できる力の加減は遥かに超えている。男は、ゆっくりと自らの外套を弄ると、その外套の隙間から松明の明かりに照らされた鋭い短剣がギラリと光った。

 

 高々と掲げられたその意味を、少女は理解した。

 せざるを得なかったのだろう。先程、両親が死ぬ間際に見た光景が、その目に焼きつき離れないのだ。

 

 男の表情は、幽鬼宛らに皆無。

 

 少女は押さえ付けられた喉元から恐怖の声色が飛び出す事は無かった。松明の炎で赤々と揺らぐ幽鬼の顔を、ただ、じいっと見つめる。

 命乞いする瞳ではない。侮蔑でもない。


「恨め。お前には、その資格がある」


 そう低い男の声が響くと共に、ギラリと光る刃が振り下ろされた。

 

 少女の胸に重い衝撃が降り注いだ。心臓が潰され、かんかんに熱された火かき棒でも胸に突き刺さっているかの様に熱い。

   

 死の瞬間、その間際。

 

 少女の紅色の瞳は、苦しみと、恐怖と、絶望で埋め尽くされ、そして――一つの命が終わった。

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