十三 死に戻り

 一人の女が死んだ。

 呼吸が止まり、最後の息を吐くと、紅玉色の虹彩が光を失い、心の臓は鼓動を止めた。


 少しづつ失っていく体温が、女の死を明確にしてく。

 黒き異形は覆い被さっていた女から離れた。女に背を向け、特に何をするでもなく呆然と歩き始め、彷徨う幽鬼が如く、ふらりふらりと不気味に歩いた。


 だが、女から何歩か離れた頃、冷えた空気が異形の頬を掠めた。

 ざわざわと揺れる木々がもたらすそれとは違い、背後から押し寄せる冷気。

 その冷たさは、次第に異形の身体に突き刺さる。


 覚えがある。とでもいうように、異形は足を止め振り返った。

 ドクンと鼓動が脈打った。

 女がピクリとピクリと動いて何事も無かったように短剣を握ったまま起き上がる。ゆっくりと重たい身体を持ち上げて、項垂れたまま立って見せると口に溜まった血を地面に向かって吐き捨て、血肉でも喰らったかのように赤く染まった口を拭うが唇が赤く染まったままだった。


 紅でも塗ったように赤く染まった唇からは、冷気が溢れている。寒々として、辺りを飲み込まんとするその息吹は春の季節も常闇の森も飲み込んだ。


 冷気を滲ませた吐息を吐きながら、女の首が持ち上がった。煌々と輝く紅色の瞳。その瞳は虚無にあり、の姿を捉えた。

 妖魔とはまた違う赤を宿し、輝く紅玉を携えて女の視線が異形を捉えた。


 瞬間。ユーリックは前に出た。

 

 その俊敏さを見せ、勢いよく踏み込んで振るった一撃は異形の首を捉える。

 異形は鈍間ではない。踏み込んだ初手を身体を軽く逸らして避けて、掠めるに留まる。

 その動きが何とも――


 ――まるで、人間みたいじゃないか

 

 ユーリックは不意に過ぎった思考を振り払う。余計な思考は無用だ。それまでの人生の鬱憤でも晴らすかのように、ユーリックは我武者羅に短剣をふるった。


 無駄な動き、無駄な力。動きはめちゃくちゃで、策などあったものでもなかった。

 ただ相手に反撃の隙を与えない。たった一撃で骨まで抉る威力をまざまざと喰らえば、大きな隙となる。

 

 ただ、死んで生き返ったという事実と、今も尚残る胸の痛みと眼前の恐怖が、ユーリックの原動力となっていた。

 短剣を一度ふれば、僅かだが前に出る。まあ、勢いだ。

 力任せに短剣をふるものだから、余計にそうだろう。


 じりじりと。

 また殺されるかもしれない焦燥と恐怖。

 だが、その恐怖と焦燥がユーリックを駆り立てているのも事実。

 勇猛果敢ではなく、これでは無謀だ。そうとわかっていても、ユーリックは止まらなかった。

 ふるった攻撃は、その黒い巨体に当たるも、何の手ごたえもない。

 水か泥でも相手していると勘違いしそうになるほど、刃になにかが当たった感触がなかった。


 ――くそっ……


 苛つきで僅かに腕に力が篭ったからか、一撃が遅れる。

 その僅か隙、異形が動く。

 相手が右腕を振るわせ、上段からの爪を受け止めると、ガキンーーと、金属がぶつかる音がする。

 ああ、くそ。と、ユーリックの腹が据えた。


 ーーこれは何だ


 雑念。それこそが大きな隙。ユーリックが初手の一撃を受け止めていると二撃目の左手が下段から飛ぶ。

 防御は間に合わなかった。腹から胸部へかけて抉る爪。

 更には、遅れた防御で再び左腕から鮮血が飛び散る。


 胸糞悪い状況だ。ユーリックはやられたままという状況で、恐怖は消え、怒りが湧き始めたのだ。

 その怒りは痛く冷静で己の血の巡りすら感じ始めるほどだった。


 ユーリックは短剣を捨てた。最早防御を捨てたと言っても良いだろう。更には己のが今、異形の爪が食い込んでいるという状況で異形へと縋り付くように近づく。異形の爪がさらに自身の肉を抉ることも気にせず、両手を異形の首へと絡み付ける。

 異形の肉体が水か泥だというならば、凍らせて仕舞えば良い。掌に冷気を纏わせ己の手の皮膚ごと異形の身に貼り付ける。容易には剥がれないだろう。

 

 ほとんど身体を密着した状態で異形の左手が心臓の既へ突き刺さり、ユーリックは血反吐を吐く。

 だが、ユーリックは頑なに離れない。


 痛みが何だ。どうせ死なない。

 

 他人事のような思考が、ユーリックに湧いて無謀な行為に拍車をかけていた。痛みと、恐怖と、出血の所為でユーリックの感情は高揚感を生み出すまでに昂っていた。


 が、昂る感情とは裏腹に気温が下がった。

 ユーリックの身体は、冬季が如く体温が下がる。口から溢れる冷気は色濃い白。その冷たさ、その冷酷さ。


 ユーリックの手から伝わる冷気が、異形へと流れ込んでいった。


 ――ウウォオオオォォォ!!!

 

 劈く声で、ユーリックの耳から血が流れた。異形は、怒りのままに叫び続け、抱きつくように異形へと冷気を流し続けるユーリックの背を無闇矢鱈に爪で抉り続けた。

 切り裂き、痛めつけ、内臓を潰す。

 しかし、傷は治る。一瞬死んだとしても、身体は張り付き、目覚めればまた冷気を流す。

 次第に異形の動きが鈍くなった。

 次第に、ゆっくりと、ユーリックに新たな傷ひとつつける事が出来ないまでに。そして、止まった。


 完全に動きを止めた異形を前にして、ユーリックは離れた。

 凍ったまま立ち尽くすそれは、黒で覆われただけのただの人。爪はあり、牙もあり、角もあるが、ユーリックは人に近しいものに見えていた。


 ユーリックは短剣を拾い上げ、異形を砕こうと振り上げた――が、不意に足下で広がっていた黒い沼が動き始めた。

 それは、ずぶずぶと幕のように広がりを見せ異形の身体を覆い尽くすと喰らいつき、呑み込んだ。異形は一切の抵抗も見せず、沼の中へと沈んでいった。



 それを見届けたユーリックから、張り詰めていた気が抜けた瞬間だった。

 その瞬間、どっと、溜まっていた痛みと死の感覚が一斉に押し寄せた。

 目まぐるしいまでの痛みの記憶。一度に何種類もの拷問でも受けているような責め苦は形容し難い感覚だった。

 その感覚と死の反動か、ユーリックは身体は眩暈と同時に傾いていた。


 霞む視界の向こうに、妖魔の気配がポツリポツリと現れた感覚があった。が、とても意識を保てる状態ではなく、ユーリックはそのまま意識を手放していた。



 ◆◇◆



 ずんと重苦しい暗闇。ユーリックは闇がそのまま重石となって乗っかっている気がしてならなかった。

 それ程までに身体が重い。

 夢見心地のような感覚で、辺りを見渡すも、そこには闇があるばかりだ。

 と言っても、どうにも地べたに寝そべっている状態なようで、見える範囲は視界が動かせる程度に限られていた。

 だが、違和感に気づく。自分の身体に掛けられた黒い外套。これには、見覚えがあった。というよりも、その外套の大きさを必要とする大柄な男を一人しか知らないのだ。


 辺りに妖魔の気配はない。ということは、近くにロアンがいるのだろうと簡単に鍛えは出た。だからと言って、いつまでも地べたにに転がっているわけにもいかず、ユーリックは重たい身体を無理やりに動かし気だるげに上体を起こした。

 

「うっ……」


 痛い。身体中が。

 ずきりと心臓の中心から胸部、背中へと痛みが駆け巡る。骨にまで響きそうで、その痛みが記憶の中の痛みまでもを思い起こさせた。


「あ……」


 そうだ。確か、と冷静になった今ユーリックの記憶が蘇る。

 

 ――死んだはずだ


 自分が譫言うわごとでも言っている気分だった。夢だったのか、と。けれども、もう一つの記憶がユーリックの思考を遮った。

 幼き頃、真冬の――何処か。そこで、ユーリックはロアンに殺された。

 似た痛みを知って、ユーリックは胸を押さえた。痛いからと言うよりも、その痛みが現実かどうかを探っているよう。


 瞬く間に怪我が治ってしまうその身体が、忌々しく思えた瞬間だった。


 ――本当は、ずっと前に死んでいるはずだった


 記憶の中で死んだ、と共に死んでいるはずだった。

 ユーリックの脳裏に蘇った記憶は、死んだ瞬間だけだった。男女二人が折り重なった亡骸が、多分両親だったのだろう程度の感情しか湧かず、悲しみも浮かばない事が寧ろユーリックにとっては良と言えたかもしれない。


 だが、何よりも、ユーリックの心を蝕んだのは――


「目が覚めたか」


 目覚めたばかりの思考に、闇に慣れ始めた視界。寝覚めに出会いたくはない人物が、闇の向こうから近づいていた。

 記憶の中で、自分を殺したであろう人物。


 その顔を見れば見るほどに、ユーリックの中の記憶は鮮明になり、現実味を増した。

 だからだろう、ユーリックは自身から溢れ出る感情を前にして躊躇などなかった。


「…………私を二度殺して、此処まで育てた理由は何なのでしょうか」


 ユーリックに対峙するようにロアンはユーリックの目の前で立ち止まった。厳しい顔はいつも通りだ。その顔は何の感情も浮かべてはいない。


「何、死なない人間なんぞ、二度現れるかも分からんからん。イーライもトビも予定外の弟子だったからな。年頃も悪くないと思ったまでだ」

「私が住んでいた村は……」

「そこまで思い出したのか」

「……いえ、昔トビにもう無いと聞いたので」


 ロアンもまた、躊躇がなかった。未だ闇深き森の中であると言うのに、どっかりと座り込むと聞かれたのなら答える、程度に淡々と語った。


「昔から、山の麓には信心深く、ひっそりと生きている連中がいると噂があった。その噂通りか、白い山の麓には幾つかの集落があり、どの村も同じ神を崇めてた」

「……だから、殺された?」

「ああ、俺がやった」

「ただ、信仰心があるだけで?」

「そう言った連中は、人心を惑わすんだそうだ。馬鹿らしい話だがな」


 ユーリックは呆然として、だんだんと目線は下がっていた。どう受け止めれば良いかわからず、悲しみも浮かばない。


「……俺を恨み続ければ良い。お前はそうでもしないと現実よりも、意味のない幻想を求め続ける」

「それって、私が逃げる度に連れ戻した言い訳ですか?」

「無意識か、お前は故郷を目指し続けた。もう何も残ってはいない。行くだけ無駄だ」


 だから、わざと恨まれる手段ばかりを選んだとロアンは静かに語った。目的さえ作って仕舞えば、ユーリックはロアンを殺さんとする為に力をつけようと必死になった。

 負けず嫌いも相まって、学ぶ事も、鍛える事も何一つ手を抜かなかった。

 それこそ、ロアンが求めたものと言える。

 ユーリックの精神は尋常では無い。幼い子供が痛みを植え付けられたなら、それこそ学ぶか回避する術を覚える。


 だが、ユーリックは抵抗を続けた。どれだけ痛めつけられようが、ただ一つを目指した。

 ならば、ロアンはその精神を利用するだけだった。

 己を恨ませ力をつけさせる。意思のある者、更には目指すべきものがある。無気力に生きるよりも、恐ろしいまでに成長するだろう、と。

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