四 新種 弐

 熱で、氷が溶け始めた。そうなると、ロアンの足元も揺らぐ。

 春の現れの雪解け。氷は瞬く間に水に戻り、ロアンは既に洞の入り口迄退避したバイユーとイーライの元へと沈みゆく氷を飛び石の如く跳びながら戻っていった。


 ブクブクと沈みゆく黒い巨体。出来上がった巨体と共に、黒い沼も消えていく。静かに水底へと沈み、辺りは静寂と共に暗闇に飲まれていった。


「師父」

 

 静寂を遮ったバイユーの声で、大猿が沈んだ先を見据えていたロアンが正気に戻ったようにボソリと呟いた。


「あれは、何故動いた」


 突然の問いにバイユーはたじろぐ事なく返す。


「あれは確かに生命活動が停止した状態でした。あの巨体で、一瞬で凍結されたとしても、真っ当な生命活動は不可能です」


 目の前で、確かに動いた姿を見たというのに、バイユーはそれを否定した。理論的に考えて、数ヶ月生命活動が停止していた――しかも人よりも遥かに巨大な生物が再び生命活動を開始するなど、それこそ御伽話でしか有り得ない話だったのだ。


「だが、あれは動いた。それも、数ヶ月の眠りなど連想出来んほどの動きを見せてな」


 そして、一番不可解だったのは、大猿によって生み出された妖魔の存在だった。


「あれは、


 ロアンの問いに答えられる者はいない。

 ただ水底に沈みゆくとしか言えない存在を前に、ロアンは再び口を開く。


「バイユー、お前は南部の文献を漁れ」

「以前、同じものがいたと想定されていますか?」

「あれは確かに、生命機能を停止していた。それが動き出したとなれば……それは人智を超えた存在となる」

「師父、その……そんな不確定なモノ」


 ロアンが口にした言葉に、それまで黙っていたイーライは思わず口を挟んだ。要は未知なる存在を探して来いと言われているも同義に聞こえたのだろう。その証拠に、驚きと戸惑いの顔は一面不信感でいっぱいだった。


「妖魔は古くから文献が存在するが、未だ不確定な存在だ。他にいても何ら不思議でもない。が、俺が耳にした事も無いのも事実だ。何でも良い。神話だろうが、御伽話だろうが、似たモノを探せ」

「無かったなら如何します」

「どうもしないな。二度目が有るかもわからん。ただ、奴が何だったかが知りたいだけだ」


 ロアンは不敵に笑う。その笑みに南部の泰平を鑑みる男はいない。ただ知的探求心だけで話をしているのだと悟ったバイユーは、分かりましたと呟き引き下がった。


「私も、あれが何であったかは気になります。イーライ、今暫く資料探しだ」


 バイユーは暫く共とするイーライを振り返るが、その瞳は今も懐疑的に濁る。イーライは納得できないを抱えたままだったが、それでも同じくわかりましたと答えたのだった。


「今日は帰るぞ」

「此処の監視は如何されます」

「必要ない。面白味は無くなったからな」


 洞は、再び冷気に包まれる。だがそこには、異様な気配は無く、美しく青に染まった湖水があるだけだった。

 惨劇など、まるで存在しなかったように。

 それでも、悍ましい悲劇が起こった場所として人の記憶には残り続けるであろう。


 三人は洞を出ると振り返る事も無かった。

 最早、ただの岩窟と化したその場所など無用の長物である。

 さて、と岩窟の外に止めてあった馬に乗り上げたロアンが宿場町へと馬へと向けるも目線は別の方角へと向いていた。


「俺は、明日からに戻る」

「ああ、そんな時期でしたね。師父も私も此処にいて人員は足りているのですか?」

「今年からユーリックを入れた。問題無いだろう」


 不意に出た名前に、今まさに馬に乗り上げようとしていたイーライの肩が揺れる。それを気づいても尚、バイユーもロアンも続けた。

 

「そうでしたか。では、そろそろユーリックを位階を与えるおつもりですか?」

「そのつもりだ。実力は十二分にある」

「てっきり与えないつもりかと思っていましたよ」


 其々が馬へと乗り上げ、宿場町へと向かう中も話は続いた。

 イーライはただ、ロアンとバイユーの後を負いながらも、勝手に耳に入る話に嫌悪を示し続ける。

 ユーリックも、そしてトビも、イーライにとって師弟である。どちらもそれぞれに実力があり、成長が早い。当たり前のようにイーライを追い抜いて、振り返りもしない二人の姿を思い起こすと、イーライの腹の底は煮えたぎるように熱くなるばかりだった。

 才能。その一言でしか言い表せない壁が、より顕著にイーライを苦しめる。

 身体動作、魔素量、攻撃的感性。更には、未だ身につかない不死の術。何をとっても、二人よりも誇れるモノが無い。

 バイユーに医術的措置を褒められたところで、イーライにとっては少ない魔素を補う技術程度にしか考えはなく、でしかなかった。

  

 そして、極め付けはユーリックの治癒能力である。


 まだ、ユーリックが幼かった――それこそ、ロアンの弟子となってそれ程時が経っていなかった頃。イーライは、未だ自分が見た何かを鮮明に覚えていた。

 人智を超えた、その能力。

 ユーリックが下位魔術師になれば、最早、イーライは己の立つ背が無いとしか思えなかった。

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