三 新種 壱
南部
ロアンはバイユーとイーライを背後に引き連れ、とある岩窟にいた。そこは、新種と疑われた妖魔の事件が解決したばかりであり、今もロアンの門弟であるバイユーにより調査が続行されていた。
巌窟の奥底は春だと言うのに、真冬のような烈烈とした寒さが身に纏わりつく。
その巌窟の最奥。洞の中心には凍りついたままの
ロアンは、数ヶ月前を思い起こしているのか、未だ凍りついたままの
季節は移ろいでも、寒さは閉じ込められた
「バイユー、」
名を呼ばれ、肩まで伸びた黒髪をのそままにした細目の男が、はい、と短く返事した。
「……お前の見解では、こいつは妖魔ではないと言うんだな」
「間違いなく」
「何が違う」
迷いなく答えるバイユーに対して、ロアンは軽く首を捻ると睨め付けるように背後を一瞥した。
「妖魔は、見た目の違いはあれど全て同じ性質を持ち合わせた生き物です。殆どが大きさの違いと言っても、相違無い。毛質、肉質、の全てが同じです。流石に鳥型と動物型とでは差はありますが。一番の違いは――」
「骨……か」
「そうです。この――まあ、大猿としましょう。骨の数、歯の数、多少の変形はあれど、骨格、頭蓋の特徴。全て人間の特徴と一致します。肉質についても、妖魔のそれと特徴が一致しません。肉を削げ落としましたが、腐敗臭もない。エンディル程の研究施設があれば、血液の微細な違いも見れたのでしょうが……南部ではこれが限界ですね」
「十分だ」
「イーライを付けてくれて助かりました。彼の方が私よりも細部が見える。お陰で解体する手間が省けた上に、そのままの保存状態が保てています」
そう言って、バイユーの細く開いた瞼の隙間から、横に立っていたイーライへと視線が向けれた。
「いえ、俺は……」
実直に褒められているのにも関わらず、素直に言葉が受け取れないのかイーライは俯き目を逸らす。
イーライは魔素量が極端に少なかった。今も鍛錬は怠っていないが、それでも中々増えてはいかない。そこで考えたのは、如何に少ない魔素で何が出来るか、だった。
微小な魔素に攻撃性を求めた場合、極少量の魔素を他者の体内に流し込み、相手の心臓部に来た時点で、一気に爆発させるという手段がある。その手段は堅実的とは言い難い。それには長期的な訓練と微細な調節が必要であり、人体における構造を細部まで会得する必要がある。
それに関しては、イーライはずば抜けて優秀だった。
「謙遜しなくて良い。南部では医学的技術を会得する者が少ない。それを独学を会得したなら胸を張れる」
バイユーが裏表のない言葉を述べるも、イーライは浮かれる事もなく小さく「いえ」とだけ返した。
ロアンの目は、イーライが腹に抱えるものが見えていた。自己不審の塊。目を逸らし、視線は再び大猿――元人間であった異形な姿へと移る。
漆黒のその身は禍々しく、元人間と言われても一様には信じ難い。
ロアンは単純に、大型の妖魔が知性を持ち合わせた事に興味を持っただけだった。それが、全く別の
「……師父、如何しますか」
ロアンは、静かに目線を上へと向けたまま、バイユーの問いに答えない。が、何かに気づいて、立ち上がる。
「師父?」
「下がっていろ」
ロアンは二人を手で振り払うと、自身も
チリチリとした刺激が、冷気を伝ってロアンへと届く。その刺激は、紛れもなく大猿からであり、ぴくり、ぴくりと
薄明かりの中、煌々と赤き目が輝きを放つと、次第に動きは大きくなり、一歩踏み出せば、ずしん――と足下にある湖だった氷上を震動させる。
巨躯、どころではない姿。矢張り、異形という言葉が似合うであろうか。
そして、二歩目。
大猿は、氷上で踏み込み、真っ直ぐ水平に跳んだ。飛びかかる動作と同時に拳を振り上げ、眼前で大猿を見据える男へと振り下ろす。
ロアンは大猿の攻撃を既で見極めひらりと二、三歩下がって躱わす。余裕で歯牙にもかけていない様子が、また大猿の怒りを買っていた。
ロアンは大猿の攻撃を避けながらも、ただ無言で大猿を観察し続けた。目覚めたばかりの
ロアンの目には、その怒りが膨れ上がる度に、大猿の身体が波打っているように見えていた。
そうやってロアンがひょいひょいと眉ひとつ動かさず攻撃をよければ避けるばかり。そうやっている内に、怒りを貯めに貯めた大猿が、氷上へと大きく両腕を振り上げ憤怒をぶつけた。
――オオオオォォォ!!!
かと思えば、大口を開け咽頭を震わせた咆哮が狭い洞穴で轟き、洞の天を支えるように聳える柱が共振を起こし震えた。
威嚇。そして、憤怒。理性が消え去った姿は動物的だ。
どういった姿を見せても尚、ロアンは動じなかった。ただ、大猿を虎視しては観察するだけだった。
怒り冷めやらぬ大猿は、飽きもせずに両の手の拳を振り上げた。高々と、膨れ上がった感情を打ちつけるが如く氷面へと叩きつける。その凄まじい事。
破片は飛散し、大きく穴が空く。無意味な行動に、ロアンは何をするかをただ待った。未だ氷は固く、大猿の拳が埋まる程度に空いた穴。
そのまま、大猿は止まってしまった。ただ怒りをぶつける場所を求めたにしては、途端に僅かな機微すら見せなくなった様は異様である。
何が目的であるか。その意味を求めるよりも早く、その穴が突如は黒く染まった。どろりと大猿の身を染めていた黒が穴へと入り込んだかのように、穴が黒で満たされ、更には溢れ出る。
ボコボコ――と、音立てて出来上がった黒い沼。
異常。それまで、下がれと命じられ遠巻きに見物するだけだったバイユーが咄嗟に前に出ようとするも、再びロアンはバイユーに向けて掌を見せて、制止を促した。
ロアンも、異常性は気づいている。
だが、何が起こるかを、しっかりとその目で焼き付けておきたかった。
吐き出した怒りを前に、途端に大猿は動きを止めたまま頭だけを動かし静かにロアンを見据えた。煌々と光る赤目には、未だに怒りが宿る。その怒りは全て、ロアンへと向かっては何かを訴えかける。
――おおおおおぉぉぉぉ!!!!
再び、大猿は吠えた。
すると、咆哮に呼応して泡立つだけだった黒い沼が胎動を始めたのだ。ずるり、ずるずると黒い沼から漆黒の獣が一体、また一体と湧き出る。
生まれたばかりの妖魔。大猿と同じく目は赤く輝かせ、その身に敵意を宿す。
妖魔の数が十を超えると、ロアンは動いた。既に、目の前には大猿よりも小さな猿が牙と爪をむけてロアンの眼前まで差し迫る。
ロアンは、背に携えた短剣を抜いた。
目にも留まらぬ速さ。その速さで、もう目と鼻の先まで迫った瞬間にロアンの眼前にいた妖魔。今にも己に触れるかどうかと言うところで、ロアンは妖魔の頭へと短剣を突き刺し、地面へとと叩きつけた。
その凄まじさと言ったら。どの妖魔も抵抗する間も無く頭部を突き刺し、時には喉を掻っ切った。次々と襲い来る妖魔を蹴散らす姿は、最早どちらが異形か判断できないほどだろう。
そして、ロアンは最後の一体の喉を裂くと、勢いそのままに大猿へと向かった。既に大猿は構えている。
鞭のようにしならせた腕を向かい来るロアンへと振るうも、ロアンは軽々と避けた。
軽く跳んでは、大猿を踏み台に登っていく。そして、頭頂部へと辿り着くと同時に短剣を脳天へと突き立てた。
ゴボッ――と湯が沸き立つよりも激しい音が何処からともなく響く。
大猿の頭蓋の中。ゴボゴボと、煮えたぎる何かは、頭蓋から熱を発生させ湯気が立ち上った。
大猿は喚き、暴れた。痛みがある。痛みに対しての根源であるロアンへと手を伸ばそうと暴れるも、ロアンは攻撃が来ると一旦跳んでひらりと躱わすとまた元に戻る。
一番近い場所で、攻撃……というよりも痛みに対しての反応を見て実験でも行なっているかのようだった。
次第に、熱は炎となった。
そこまで来ると、それまで痛みで暴れていた大猿の身体がぐらりと揺れ、前に向かって倒れていった。
ロアンは大猿が倒れても尚、観察を続けた。
大猿の頭が燃え盛り、ピクリとも動かなくなるその時まで。
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