二 芽吹きの春
帝都の波乱から、
季節は、春。
芽吹の季節。それは、山々で最も忙しい季節といえよう。
冬が鎮まり命が眠る季節というならば、春は新たな命が生まれ、精気が活性化する時期である。
小さいも、大きいも、様々な命が騒めき野山を満たした。
そして、それは陰なるモノ達も同じである。
山々が騒めき立つと同時に、闇の中で一斉に陰が蠢き湧き出す。
枯渇していた陰までもが、満たされた精気を纏い新たな命が生まれ行く。
ざわざわと、山々は賑やかしくも悍ましい獣達すら包み込んだ。
南部の魔術師達が忙しくなる季節が来た。特に、溢れた妖魔が山を降り人を襲う案件が増えるので、山々に近い者達は魔術師を頼らざるを得ない。
行政としても、妖魔の実害は痛いものがある。下手をすれば、小さな町や村であれば消えてしまう程の被害すら出ることもあるのだ。
この時期ばかりは、費用を惜しんでなどいられない。
◆◇◆
草を踏む音が野山を掻き乱す。
深い深い野山の奥、昼だろうが宵闇を宿す、異界とすら疑う程の暗闇の底。
ユーリックの紅い瞳が暗闇の中で、闇が孕む命を見定めていた。
囲まれている。
その全てが、闇の獣だ。ユーリックの手の中には、短剣が一つ。
隣には誰もいない。
背を任せる者もない。
山へと来たのは、ユーリックだけではない。皆それぞれ何処かで闇に乗じて獣を殺し続けている。
――この山は古くから異常だ
師父が、何年か前に吐き捨てた言葉だった。
千年を越えて生きる樹々の連なりは、正に神秘という言葉でその地を表す事が相応しいまでに悠然と在る。
光あり、苔むす緑青の鮮やかさで彩られた世界でならば、確かにその言葉が相応しい。
けれども一度、闇を創り異界へとでも導かんとしているそこへと足を踏み入れたのなら、神秘などという言葉は吹き飛ぶ。
そう、例えるならば、畏怖だろう。
その畏怖なる領域で、恐怖に飲まれず力を振るえる者は少ない。
中継地点と拠点を結び、ロアンの許可が降りた者だけが此度の討伐に参加していた。
神などいない。全てに原理があり、理に生きる。
だが、そんな時代の流れに逆らうように、年々南部では妖魔が増えていた。
特に、この畏れの地。
白き山と違い、遠目からも見える景色とは違う。山深い森の更に奥。人目にもつかない未開の土地。
その地の妖魔は、他に比べても獰猛だ。特に、春となれば。
ユーリックの眼前、三頭の狼を模した姿の獣がじっとりとユーリックの間合いを図りながら距離をとる。
狼よりも二回り以上に大きい為、外側から凍らせる手法は、素早く大きな相手には向いていない。
一体を捕獲できても、背中からがぶり――なんて笑えないだろう。
背を任せる者がいない上に芽吹の春とあって、数は未知数である。
短剣を構え、ヒリヒリとした視線がそこら中からユーリックを突き刺した。
目の前に居る三頭だけではない。辺りで、闇に紛れたままの獣が、ユーリックが気を抜くのを待っているのだ。
ユーリックは動いた。虚をつく程に早く。そして、一頭目へと跳びかかり頭部を足蹴にすると、そのまま脳天目掛けて短剣を突き刺した。
ドスン――と硬い頭蓋は、ユーリックの一撃で穴が開く。
短剣を伝い、魔素が流れ込む。以前は身体全体だったが、十三歳の初めて妖魔を退治した日と今日とでは状況が違う。
あの日は只の訓練で、日数も少ない。隣には、必ずトビもいたのだ。
だが、今日は。背を任せる者はいない上に、今任されている場所の根元の精気が枯れるまで続けなければならないのだ。
魔素は、できる限り節約せねばならないだろう。
だからこそ、トビの手法である脳天を狙った。
トビは、脳へと雷電を流し込み焼き切る。
一瞬で脳を魔素で埋め尽くし、それを雷電へと変わった瞬間、脳は焼けて生物の動きが止まるというものだった。
ユーリックも、トビを真似て魔素を変じる。雷電は、人が誰しもが持つモノである。脳からの電気信号も、用はそれである。が、それだけでは微弱なものでしかない。
雷電を使う術師が多い理由は、雷電は生成する必要がないからだ。体内から取り出した雷電を魔素による増幅回路で大きくする。それで、微弱だった只の電気信号は、武器へと変貌した。
ユーリックの手の内で、ドン――と何かが破裂する感覚があった。同時に、肉の焼ける匂いが鼻腔へと入り込む。
生焼け。そんな匂いが故か、足下で妖魔が踠き苦しみ暴れた。殺しきれなかったのだ。
――しくじった……
注ぎ込む魔素が少なかったか。足場であった妖魔が横に倒れても暴れ続けたが、ユーリックを襲う余裕はないだろう。既に、ユーリックは次の標的を見定めていた。失敗したからと言って、立ち止まっている余裕など無い。
ユーリックがその一頭を倒すのに要した時間は僅か数秒。その数秒で、残りの二頭の内の一頭がユーリックへと高々と竿立ち状態になり、爪を掲げていた。
鋭い牙が、体重をかけてユーリックへと落ちる。が、ユーリックは高々と飛んだ。身を翻し、羽を広げた蝶のごとく軽やかに。
だが、蝶は一瞬で姿を変える。獲物を狙う梟の如く、
今度こそ。ユーリックが再び魔素を流し込めば、再び手の内に爆ぜるような衝撃が走った。雷電の性質か、何となくだが掌が短剣の柄を伝ってピリピリと痺れる感覚が、ユーリックは少々苦手だ。が、今はそんな事を考えている暇はない。
すん、と鼻を鳴らせば、肉の焦げた匂いだ。正直に言うと、妖魔の肉は焼けても腐った肉の様な匂いの為、良い匂いとは程遠い。これも、ユーリックが普段雷電を使わないとする理由だ。
妖魔は大人しくなり、あっさりと倒れた。成功だ。
姿を現しているのは残り一体。ユーリックは妖魔の身体が地に伏すよりも早く、そちらへと飛びかかっていた。
◆◇◆
ユーリックが担当していた区域の根元が枯渇し、中継地点へと戻ると待っていたのはトビ一人だった。
ユーリックの足が、一瞬止まる。波乱の日々から三ヶ月。戻ってからは、トビとは再び離れた生活とあって平穏そのものだった。そして、今回の合同の討伐も忙殺の日々で然程顔を合わせる事も無かった――と言うよりも、ユーリックが避けていたのもあったのだが。
警戒、と言うよりはどう接して良いかが、判らなくなっていた。
「遅かったな、皆拠点に戻っちまった。行くぞ」
「……うん」
トビは、何事もなかった様子で、いつも通りの清涼な声を響かせる。背後暗いのは自分だけのような気がして、ユーリックの声は精神の疲弊と共に小さくなるばかりだった。
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