三 師父と弟子 弍

 日が傾き橙色と紫紺がせめぎ合う夕暮れの空。静かな澄んだ夏空が直に迫る夜を知らせた。

 

 ロアンとユーリックは雑木林の中へと移動していた。樹木同士の間隔は広く、二人は三丈程度の距離をとっていたが、夕闇の中でも互いの顔はしっかりと視認出来る。

 二人は短剣を手に向かい合い夜を待っていた。

 これも、修練の一環だとロアンは言った。を相手にしているからこその経験則からものを言っているのだろう。

 じわりじわりと夜の帳が落ちる。

 そうして、夕焼け色が地平の彼方で線を引いた。


 光が、消える。


 闇の色が濃くなると共に、対峙するロアンの気配が曖昧になった。それこそロアン程の威圧ある存在が闇を纏い、ユーリックの目には見えなくなる程に闇は深まっていく。

    

 ユーリックは短剣を手に身構える。

 己も気配を消し、左足を後ろへと下げ姿勢を低く。右手に短剣を逆手で持ち、前へと突き出すと左手を軽く添えた。

 この時は殺意すら浮かべてはいけない。夜の闇の中では、息遣いも、気配も、意識も、全てがロアンの前では標的となる。

 完全に闇と同化してしまったロアンの姿を目で追う事は技術的に劣っているユーリックでは不可能だ。

 

 辺りに村もない静かな夜の闇には、虫の声と微風そよかぜが樹々の葉を微かに揺らしざわめき立たせるのみ。ユーリックの足下は雑草が生い茂り、僅かにも気を抜けばユーリックの居所を知らせる鈴の音に早変わりするだろう。


 殊更に慎重さを要求される中、ロアンの足音は皆無。呼吸も、衣擦れも、ただ立っているだけであれば何一つとして耳には届かないだろう。

 だが、本当に消えた訳ではない。


 五感を研ぎ澄まし、流れる空気から辿る匂いの変化、消しきれない微細な音、暗闇の中でもある明暗、肌へと伝わる闇に紛れた視線。

 その全てを暗闇から掬い上げる。それこそが、ユーリックに求められている事だった。


 それ故に、ロアンは闇に紛れてユーリックを待つ。ユーリックがしくじれば容赦なく鉄槌を下すが、ロアンに近しいまでに闇に紛れて獲物を狙う獣――それこそ羽音すら響かせない梟にでも成れるのならば、ロアンはユーリックの一手を待つだけだ。


 

 ユーリックの視線は定まった。

 宵闇のしじまに一陣の風が吹き抜けた瞬間、ユーリックは動いた。葉の擦れる音へと紛れ込ませ、狙いを定めていた方角へと一点へと集中して殺意を向ける。


 踏み込む、その一歩。地を蹴る力こそ物足りないが、その素早さは目を見張るものがあった。地を這うが如く身を低くし、女特有の軽やかさが、最低限の力でも風をきった様に相手の懐へと潜り込む。

 三丈はあったであろう距離はあっという間に縮まり、そして暗闇の中、金属の打つかる音が甲高く響いた。


 ユーリックの狙い通りの場所に、ロアンは悠長に構えていた。いや、待っていたと言った方が良いだろう。

 しなやかに下段から腹部――腎臓を狙った一撃は、同じく手にしていたロアンの短剣により軽々と受け止められていた。

 ロアンの目線はしっかりと下段から打ち上げるユーリックの挙動の全てを見てると言わんばかりに冷淡に見下だす。


 互いに剣と視線がぶつかるも、そこで止まれば隙を見せたとみなされロアンから一撃がお見舞いされる。流れるように今度は一撃目の勢いを殺す事なく、地に両手を着く。逆立ちの状態になると、ユーリックは身体を回転させ足技を繰り出す。

 体格差からも、攻撃としては意味を為さない。足首を掴まれたら宙吊りにされて終わりだ。だからか、ユーリックはあくまでロアンの腹部を狙ってはいたが蹴りを入れると同時に足場にする事で勢いづけ、再び距離をとった。


 ロアン程に大柄で屈強な相手であれば威力としても今一つでもある。致命的な損傷を与えるとすれば、矢張りロアンの隙を狙うしかない。

 ユーリックは短剣を構え直すと、直様二度目の地を蹴った。が、今度は正面でなくロアンの背後へと回り込む。 


 その間も、ロアンの視線はユーリックに張り付いたままだ。どれだけ俊敏に動こうとも、ユーリック程度の素早さではは翻弄する事もできないという事だろう。

 己よりも、一回りも大きな獲物を狙うには如何様にするべきか。

 ロアンの背後に回り込みながらも、ユーリックは逡巡した。いつ何時とて、思考を止めればそれこそ餌食となる。それが、強者を相手取っている時は尚更だ。

  

 背後、大柄なロアンの出来る限りの死角を狙い、初手よりも更に身を低くして今度は脚を狙う。太腿もまた、人には致命傷である。勿論、魔術師とて人であり、深い傷を負えばいとも簡単に死んでしまう脆い存在である事に変わりは無い。


 が、ユーリックが一撃入れるよりも早く、ロアンがぐるりと反転したかと思えば、足蹴りが飛ぶ。丁度ユーリックの顔面目掛けて飛んできたそれに対し、地べたに這いつくばるように避ける。すると、今度はその足が踵落としとして頭の上に落ちてくる。

 ユーリックは腕に力を込めると、地面を押しやり勢いづけ身体を転がしながら左へと避ける。


 ――体制を立て直さないと


 ユーリックに焦りが出た。巨躯であるロアンもまた、動きは速い。それこそ、熟練の姿としてユーリックを追い詰める姿に容赦はない。

 次のロアンの一手が飛ぶ前に、ユーリックは何とか短剣を構えるまでは出来たのだが、屈み込み均衡は整っておらずロアンの力を受け止めるには不十分な姿勢だった。

 殆ど、真上から。ロアンの短剣が容赦なく振り下ろされた。


 再び、金属音が激しくぶつかる。受け止める事は出来た、が。体勢悪く、今にも地面に押しつぶされそうなまでに重しがのしかかる。そして――弾き返す事もできなかった一撃は、ユーリックの短剣共にロアンが下段から繰り出した蹴りによって弾き飛ばれていた。

  

 武器を失ったユーリックの胴ががらりと空く。

 そこへ、もう一撃。ユーリックが防御するよりも速く脇腹には、勢い付いたロアンの蹴りが入った。

 ロアンに対してなユーリックは、易々と短剣と同じ方角へと弾き飛ばされたのだった。 

 

 女だろうと、ロアンが寛容である事はない。隙を見せたなら、その報いを受けると言わんばかりに一撃がお見舞いされる。


 ユーリックは四丈――いや、五丈は弾き飛ばされただろうか。地面を滑りながらも身体を回転させ、勢いを殺すべく地に爪を立てる。

 ようやく止まったと同時に、ユーリックはすっと起き上がった。一応脇腹に触れ、肋骨が折れていないのを確認すると何事もなく短剣が弾き飛ばされた方へと平然と歩きだす。


 ロアンの指導は、手が出る事が当たり前だ。

 実戦に勝るものなし。ユーリックは既に五年ほどロアンに師事しているのもあって、当たり前を当然のように受け入れていた。


 弾き飛ばされた短剣を見つけ手にすると、ユーリックは再びロアンへと構えてみせた。既に、ユーリックは身体の血の巡りが速くなり、息は乱れ始めている。闇夜に紛れる事は不可能だ。それに対して、ロアンは未だ汗の一つもかいていない。

 確かにユーリックの眼前に居たはずの存在が、再び宵闇の向こうへと消えていた。

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