四 弟子の一日 壱

 白い景色が目の前に広がっていた。

 寒い。凍える様な寒さが幼子を襲うも、襟巻きに顔を埋め慣れた様子を見せ、鼻を赤くし白い息を吐くばかり。

 雪が舞い、曇天の寒空の中をよたよたと幼い足取りが突き進む。息が上るほどに走るが、歩き難い足場で思うように進めていない。

 けれども、その幼子が足を休める事はなかった。


 ――行かないと


 何処ともわからない白い景色――雪深い道を進んでいく。


 ――はやく、行かないと


 何故、行かないといけないのか。

 何処へ行こうとしているのか。


 使命感にも似た想いを浮かべながら、幼子はひたすらに歩くだけ。その小さな視界には、深々とした無情なまでに白い景色が延々と続き、広がっていた。


 ◆


 ユーリックは差し込む朝日の眩しさで目を覚ました。


 ――また、あの夢……


 差し込む光源が、微睡みの中にいたユーリックの思考を少しずつ目醒めさせる。夢の中とは違って寒さは皆無で、日差しの暖かみが朝方には心地よいくらいだ。

 上体を起こして目を擦れば、いつも通りの現実が目の前に広がっていた。

 

 弟子であるユーリックに与えられた小部屋は、寝起きする為の場所と僅かなユーリックの私物をしまえるだけの一間いっけん(約二m)四方程度の大きさだ。私物と言っても、三着の衣服に修練の為にと貰った短剣と、兄弟子から譲り受けたボロボロの表紙すら消え失せた文字を覚える為の子供用の書籍が一冊あるだけだった。

 

 南側には小さな硝子窓があるのだが、光を遮るものがなく、目覚ましには丁度良くそのままにしてある。

 白んだ空の向こうで朝日が登り始めた頃合いは未だ薄寒い。肌着一枚の上に、身体の上に薄布一枚というにもあるだろう。が、起きてやる事は幾らもあるとユーリックはすっと身体を起こしていた。



 ユーリックの部屋は炊事場に近い。

 使用人の部屋と連なり、ユーリックの部屋の前をパタパタと静かな足音が通り過ぎて行った。

 この家の使用人であるメイもまた、夏季は日の出を目覚まし代わりにするのだろう。忙しなく炊事場へと向かったかと思えば、すぐさまガチャガチャと騒がしく支度を始める音がユーリックの部屋まで響いていた。


 ――早いなあ


 うーんと伸びをして身体整えると、ユーリックは天井に干してあった衣服を手に取ると身につけていく。最後に髪を組紐で一つに纏めると、颯爽と部屋を後にした。



 下働きと言っても修練もある為、炊事や掃除、洗濯は使用人であるメイの仕事になる。ユーリックがやるべき事は、専ら力仕事だ。

 井戸へと向かいこなれた様子で滑車から伸びた縄を引いて水を汲むと、顔を洗って口を濯ぐ。冷えた水のおかげで頭がすっきりとするのが、夏場は爽快の上に漸く寝起きだった体が本調子になってくる。


 先ずは厩舎へと赴き黒い馬と茶色の馬の手入れと餌をやりだ。

 ユーリックはこれが一番好きな仕事だった。

 ロアンが常日頃乗る黒い牡馬のでつは気性が荒く、毛並みを整えている間しかユーリックが触る事を許さない面倒くさい奴だ。反対に、もう一頭の茶色のしょうは牝馬で大人しい上に撫でられるのが好き。

 二頭に餌と水を与え、馬房を掃除し、最後に毛を梳いてやる。


「師父はお前を“サビ”だなんて酷い名前をつけたよね」

 

 全部が終わると、ユーリックは錆の頭を撫でるのだが、この時のでつの目はユーリックへとじとっとした目線を向けて、こっちは触るなと言っている気がしてならない。

 師父に似て矜持が高い馬だ。と、ユーリックが毎日見て見ぬふりをするのも日課である。しょうの気持ちよさそうに撫でられる姿を堪能して、厩舎を後にした。


 一日の一番の楽しみが一番最初に終わってしまうものだから、この後の仕事は憂鬱だ。

 水汲みに薪割りが待っている。

 夏場だから冬場に比べて割る薪の数は少ないとは言え、淡々と同じことを繰り返すだけの仕事は苦痛だ。そして、水汲み。此方も同じ事を繰り返すばかりで面白みが無いのだ。


 それが終わる頃にはロアンは出掛けてしまう。そうすれば漸く、メイと共に朝餉の時間だ。


 そう大して広くもない炊事場で、ユーリックとメイは二人椅子を並べて粥を食む。青菜が入っただけの葷湯フンタン(スープ)は生姜と塩味が効いて暑い日でも苦にならない。

 暑さからか、つい「はあ」と息吐く。メイの料理は簡素で薄味だが、それでも十分に満たされる気がして、落ち着く味に再びため息が溢れていた。


「ねえ、今日は忙しいの?」


 と、ユーリックと同じく葷湯フンタンを飲み干していたメイが横目にユーリックを覗いていた。

 メイは二十過ぎたばかりの快活な女だ。十五で奴隷として売られたが、それまで生家では家事の一切を任されていた為、炊事掃除洗濯、更には裁縫まで一通り出来るという理由で偶々ロアンに買い取られたという経緯がある。

 辰帝国で奴隷は珍しいものではない。当たり前の様に子を売る親がいて、買う者がいる。売る側は、貧しさゆえだろう。休みなく家中の事を一人でこなすメイだが、下手に売られるよりもずっと良い暮らしが出来ているというのが、口癖でもあった。


 一日三食の食事、清潔で屋根のある場所で眠れる、夜の相手を無理強いされない。こんな良い主人、良い環境は中々無いのだと、度々メイは力説する。

 その安心し切った顔を見れば、本当にロアンを信頼していると誰もが知るだろう。だが、ユーリックはロアンがあたかも良い人と言われる度に身体中に虫唾が走っていた。

 今も、ロアンを慕う瞳がユーリックを見つめる。メイの事は嫌いでは無いが、その瞳だけはどうしても返す気になれず、ユーリックは粥の器の中へと目をやった。


「で、暇なの?」 


 と、先ほど会話を思い出させ、メイは返事を急かす。

 ユーリックは粥を流し込みながらもうーんと唸る。

 暇ではない。一昨日出された課題はメイが竈門をさらってほしいと頼んできたものだからまだ手についていないし、鍛錬だってこなさねばならないのだ。


「一応、忙しいけど……」


 と言ってみるが、それでもメイからは強請るような目つきがじわじわと迫る。

  

「客室掃除して欲しいのよねぇ、今夜誰か泊まるみたいだから」


 ユーリックの肩がピクリと揺れた。

 誰が来るのかを尋ねても、メイは「さあね」と言って肩を竦める。その来客が誰かで、今日という日が更に憂鬱になるかどうかが変わってくるのだが、その様子からして本当に知らないのだろう。


「で、部屋は掃除してくれるの?」

「……良いよ」


 本当は嫌だけど。内心悶々としつつも、ユーリックは良くしてくれるメイの頼みを無下に出来なかった。


 ◆


 ロアンの家はそう大きくは無い。ロアンの書斎と主寝室、書庫、居間、食堂、と修練の為に使う空き部屋が一つずつ。そして時折仕事を依頼する為に用意した小さな客室が四つ。後は風呂場と物置、使用人や弟子のための部屋が三つばかしあるだけだ。

 メイ曰く中流階級の下程度の家だそうだ。貧乏貴族が、これぐらいの家が多いのだと、元商家の娘であったメイがユーリックに語った事がある。それはもう、あっさりと。


 ユーリックは客室二つの前に佇んだ。どうにも客人は二人のようで、水の入った桶と手拭いと刷子ブラシを持ったまま、「はあぁ」と陰鬱な溜息が止まらない。

 ロアンの目の前でやろうものなら、拳骨が飛んでくるのは必須だ。ロアンは自分が嫌味で嘆息を吐いても、他人にやられるのは気に食わないらしい。

 一回程度ならギラリと視線が飛ぶ程度だが、気に触れば――と、ユーリックはいつか殴られた時の事を思い出す。


 懐かしくも無い忌まわしい記憶を打ち消して、ユーリックいつまでも桶を抱えていても仕方がない、と諦めにも似た溜息をもう一回吐き出すと、嫌々ながらも部屋へと入っていった。

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