十一 欲望

 機嫌が悪い。

 ただその一言でしか表しようのない顔が、ユーリックの目の前にある。

 師父ロアンに呼び出されたユーリックとトビは、静かに夕餉の席についていた。勿論、ウェイとキーフも既に着席して物静かにロアンから眼を逸らす。

  

 今日は何とも充実した日だった。この高揚感のまま、一日が終わったら何とも最高だった――そう、最高だったのだ。

 けれど、人生思う様にはならないもので、目の前の苛つきが飛び散りそうなまでに不機嫌を晒した男を一日の終わりに見たくはなかったと気分は超特急で降っていった。


 老師であるロアンは初日の会合を終えたばかりだ。今にも誰か一人殺してしまいそうな程の苛立ちを溜め込んだ男との夕餉は、南部にいる時と変わらず鬱々と暗い。折角の帝都の彩り華やかな料理だが、いっその事早く終われと、ユーリックは腹の中で考えていた。


 着々と食事も終わり、そろそろ部屋に戻るかとなった頃、ロアンが「はあぁ」と、嫌な嘆息を吐く。ユーリックは思わず、「うげっ」と蛙の鳴き真似声でも出てきそうになるも、ロアンの目がユーリックとトビの交互に向かった事でユーリックは思わず顔が引き締まり背筋も伸びた。


「お前ら、何もなかったか」


 何も無い。むしろ穏やかだったぐらいだと振り返るも、一つ悶着は起こりそうになった事を思い出す。


「書府の検問に手こずった程度です」

「それ俺の所為」


 素直に答えたユーリックに対して、トビは苦い顔をして見せた。


「俺の見た目と、ユーリックの赤目がちょっと引っかかったみたいで……」

「今日通ったのなら、明日は問題無いだろう。とにかくお前らは間際まで資料を読み漁れ」


 疲れた顔をしながら、ロアンの言葉に二人は頷く。


「ユーリック、お前は女だと名乗ったか?」

「いえ? まあ、じろじろ見られたので……」


 ユーリックの顔は抽象的で、身長も高いが外套で体は覆われているとは言っても女と判断されただろうとしか考えなかった。が、突如トビは「あ、」と声を上げる再び苦い顔をした。


「俺、ユーリックの事、師妹と……」


 苛立ってつい。と、トビは気まずそうに目線を下げる。


「隠してると思われた方が面倒だ。が、監視はされているな。書府院も最長老の手の内と考えねばならんのは確かだ」

「明日は、やめておいた方が良いとか……」


 ユーリックから不安が溢れた。まだ読んで無い資料がたんとあるのだ。と図太い思考が、珍しくもロアンに強請る様な目つきを見せた。

 

「爺の戯事ざれごとに付き合ってやる道理は無い。こっちが気を遣えば、あちらが調子に乗るだけだ。だが隙は見せるな。書府院でけしかけてきたなら受け流さねばならんが、状況が此方に有利ならば判断は任せる。最長老の下だろうが、訳もねえ」


 不穏。ロアンの口から出た言葉は穏やかな南部とは程遠いものだった。

 妖魔など、ただの獣だとロアンは度々口にする。

 その出自こそいまだに不可思議ではあるが、所詮習性は獣同然なのだと。


 そしていつも最後に必ず言うのだ。


『人間の欲望の方が、余程ケダモノだ』


 と。その真意は、昨晩トビが冗談混じりに話した、最後の言葉も含まれるのだろう。


『人喰い』

『魔素喰い』


 ロアンとトビの言葉が、最長老の為人ひととなりを指し示す。ロアンが最も嫌う人間性、強欲を体現した人物が脳裏に浮かぶ。


 南部は穏やかだった。そう思える程の人間味の溢れた帝都が、華々しさ遠のき重暗い様を見せ始めていた。


 ◆


 トビとユーリックが自室へと戻り、ウェイとキーフと共に先程まで料理が並んでいたつくえの上に酒瓶やら紙煙草やらが乱雑に広げられていた。

 帝都ならではの上質な酒類。特に紙煙草は南部に入ってくるものと違って、物が良く香りも良い。


「宜しいのですか? 些か最近の最長老は行動が読めません。露骨なまでに女魔術師が消えているのに、隠しもしない。危険では?」


 ウェイは南部では手に入らない、ファランからの輸入品である上質な紙煙草をくゆらせ堪能しながらも気がかりが消えず、楽しんでいる表情とは程遠く眉を顰める。

 その顰めた視線の先にあるのは、先程まで若輩である二人が座っていた椅子だ。


「そりゃ前回のイーライ同様にしくじるって話か?」

「そうです」

「俺の弟子は信用が無いな」


 ロアンは同じく紙煙草をふかすが、ウェイの言葉に危機感を覚えるどころか上機嫌な様子でくぐもった笑いを見せただけだ。


「師父、ウェイの言葉通りかと。特にユーリックは女とあって侮られる対象です」


 今度は白酒を口にしながら、全く気にも留めていないロアンの様子にキーフは苦言を呈す。物腰柔らかい優男の顔が、ウェイ同様に顔を曇らせている事にロアンは気付いているが、矢張り二人程に憂う様子はない。


「問題無い。どちらも、そこらの下位魔術師より余程卓越している」


 自慢というよりは、当然とした顔でロアンは吸いかけた煙で肺を満たす。

 

「イーライも腕は悪く無いが精神面で弱い。特にトビがいるとなると焦燥に駆られる。だから今回連れてこなかった」

「トビは問題無いと? 前回、イーライをけしかけたのは、トビだと私は考えていますが」


 ウェイの心配の種は、ユーリックに何かあった場合のトビだった。何をしでかすか判らない上に、少々思想が危険な側に傾きつつある。

 

「……多分、そうだろうよ。トビの奴にとって、イーライは愚かでいてもらわないと困るってだけだがな」

「何故です。トビが上手くおだてれば、イーライを転がせる。蹴落とす必要は無い筈です」

「イーライは、ユーリックを毛嫌いしている。それだけだ」


 そんな理由で。ウェイは驚き言葉を失い、キーフは飲み込みかけた酒を吹き出しそうになった。あまりにも幼稚な言葉に、二人は動揺を隠せなかった。

 普段、弟子同士が関わる事は仕事以外ではそうそうない。それもあって、ウェイとキーフは三人の関係性に疎かったのもあった。 

 ウェイは軽く咳き込み、落ち着きを取り戻すも、単純な言葉しか喉を通らなかった。

  

「そんな理由で?」

「トビは存外子供だ。手口は醜悪だがな」

「……それを止める気は無いのですか」

「無い。言ったところでトビは変わらん。殺し合いでも始めたら考えるがな」


 トビに劣等感を抱き、ユーリックを嫌悪するイーライ。

 ユーリックに抜かされまいと日々切磋琢磨するトビ。

 そのトビを師兄として敬愛し、慕うユーリック。

 イーライがユーリックを嫌う一番の理由は、ユーリックがロアンへと向ける殺意からだろう。

 勿論トビも知っているが、トビとイーライでは立場が違う。トビはユーリックが間違いを犯さない様に己が制御すれば良いと考え、イーライはいつかユーリックが牙を向けると考える。そして、トビからすれば、ユーリックを害そうと考えるイーライは邪魔でしかない。


 三者の考えの違いが現状の歪な関係性を作り出している。

 そこに、ロアンは介入しようとは考えてはいない。

 ユーリックがロアンへと殺意を抱く事は、ユーリックにとって必要と考えていたのもある。だが、もう一つ――


「イーライの精神性がどう転ぶか。バイユーに監視する様には伝えてある」


 ロアンは再び煙を燻らせ、満足気に笑う。

  

「……左様ですか」


 ウェイからすれば気苦労の種なのだが、見た目は己よりも若いが師父であるロアンを嗜める立場には無い。

 

「何か仕掛けるとするならば、気の抜け始める来週あたりからでしょうか」

「――その線が濃いな。あの糞爺、どうせ碌でもねえ事考えてるだろうからな」


 不穏は消えない。

 吐き出した煙が部屋を白く染めゆく。燻る視界にキーフの視線が、消えた二人の部屋のある方角を捉えた。

 間には、ウェイとキーフが泊まっている部屋がある為、壁の向こうからは音も声も皆無だ。


 若き魔術師二人。いや、一人はその技量あれど、まだ身分もない、ただの弟子。

 師父であるロアン程信用に値する男はいない。キーフはそう考えている。恐らく、ロアンの弟子の殆どがそう考えているだろう。


 だが今、師父の姿が少々危うい気がしてならなかった。

 その危ぶませているであろう存在が、に必要とわかっていても。


「キーフ」


 深い声が、キーフの思考を呼び戻した。悪意ではない。だが、未来を思い描いているのでもない。

 危険を楽しんでいるような、その瞳。


「問題は無い。現状、全てが必要な事柄だ」


 そうの瞳は、何も迷いなど無い。

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