十 知識の探究
フィーア=ビフロンス。当代ビフロンスの名を冠する女性であり、四百年に渡り生きる魔術師でも在る。その実力は本物で、ここ数年の功績は目覚ましく、海を超えて辰帝国にまで轟く程だった。勿論、同じく三賢者の名を継ぐバラムとヴィネも噂が流れるが、
ユーリックが手に取ったのは、そのビフロンスが書いたとされる最初の魔術書だった。
書府の中央。ユーリックは書棚と書棚の間に置かれた木製の
目の前に置かれた赤い表紙は古めかしく、角には痛みが目立つ。今にも崩れてしまうのではないかと心配しながらも期待を込めたユーリックの指は、そっと本の縁取りをなぞっていた。
なぞる指はゆっくりと表紙を持ち上げ開くと、印字ではない手書きのタイトルが現れた。
『魔素の永久固着の検証について――著フィーア・ビフロンス』
恐らく写しと思われる手書きの字は、羊皮紙が使われているい上に保存状態も良好とはいえず褐色へと滲み掛けている。
それでも何とか維持しようという気概――という名の修復が至る所で目についた。
――壊れる前でよかった
既に、ユーリックはエンディルの言葉を流暢に話せるまでになっている。翻訳は必要がなく、ただただそこに記されている知識を頭に入れる。
『まず初めに、流動体である魔素の固形化における概念の定説を……』
最初から仰々しい言葉の始まりが、ユーリックの好奇心を煽った。
魔素は流動体と定義され気体として分類さた
例えるならば、魔素により石ころ一つ創造したとする。それが、石ころであれと術師の意思が反映されている間は、現世に現れた其れと相違ない。だが一度、その意思が途絶えたならば、そこにはもう魔素が存在したであろう痕跡のみが僅かな塵の如く残るが、やがてそれも消える。
魔素を個体として維持できる事例があるとすれば、矢張り魔素を人の肉体から器ごと取り出した時だけだ。
個体として起きとどめておく事は、さしずめ永遠の
その構想として、ビフロンスは三百年も前に論文を上げたわけだが、様々な方法を試したが実現しなかったとして締め括られていた。
今も、この議題はあまり進捗が無い。
結局魔素から創り出した物質は、術師の思想を反映しただけの幻でしかないのだ。
ユーリックは最初の一冊目に目を通し終わると、ふうと嘆息を溢した。本来であれば、その様な古びた……しかも実りの無い
はっきり言ってしまうと、単なるユーリックの趣味である。固着化は、まあ一攫千金を夢見る若者を虜にする
夢で腹は膨れない。三百年の時を得ても何も進歩がないものよりも、本来であればもっと目新しい事に目を向けなければならないというものだろう。
ユーリックは読み終えた書籍を左に置き、今度は卓を陣取って平積みにした内の一冊を書籍を開いた。真新しい魔術書ではあったが、大して厚みもない。というより、殆ど紙の束だ。が、ある意味目には留まったそれに、ユーリックは面白半分に
著者は無名の魔術師。
最近少しばかり話題になった、人に近しい生物における魔素の確立が
これを手にした理由は、昨晩トビから聞いた魔素喰いが気に掛かったのもある。
猿を使った実験に基づき、人と同じ手法において魔素を作り出すと言ったものだ。これに関しては、成功したと書かれている。が、課題はその魔素量が少ない上に増やす手段がないという事だろう。
豆粒程度の魔素の収穫の為に、猿が何頭と犠牲になったと話題になった。要は、成功はしたが、大した成果ではないと見られているのだ。
まだ実験は途中と言ったところで、終わっている。恐らく、資金難が原因だろう。貴族や上位魔術師が興味を持つ話題でもなければ、
――魔素喰い……当たり前なんだ……
この実験の前提は、魔素を喰らうと言うところにある。命を喰らう事を当たり前とした事柄を前に薄寒いものを感じたユーリックは忌避する様に紙の束を左へと追いやると、また次を手に取った。
今度は――
『魔術における、医療的処置』に関して――著テオドール・バラム』
貴族が興味を持つとすれば、命や寿命だろう。
魔術師は時に病も治す事は可能であり、怪我の回復も可能である。勿論、それなりの腕前が必要ではあるが。人体とて物質の集合体である。己の細胞へと影響を持たせ不死なる肉体ができるのならば、他者も可能だ。
不死にする事は不可能ではあるが、細胞の再生速度を促す事は可能だ。魔素そのもので固着した訳ではなく、魔素による影響が元に戻る事は無い。簡単に言えば、火を通した卵が元の生の卵に戻らないのと同義と言える。これは、初歩的な魔術師の教本にも記載されていて、単純だが分かり易い事例だ。
魔術師が戦争の引き金となっているのにも関わらず、貴族から忌避されながらも重宝されている一因でもある。
興味深い内容ではあるが、少々難解でもある。
これは、地方による特色が強いのもあるだろう。
戦最前線である北部と東部は、攻防そして医療。
一番穏やかな西部は、新技術開発が盛んなのだとか。
対して、妖魔が多い南部は攻撃特化と言われている。そして、南部は山ばかりで、異国が渡来する港も無い為、新たな技術や知識が入ってくるのが遅いのだ。
ユーリックは、医療書も読み終わると、ふうと息を吐いた。何気なく、右隣の机を覗き込む。いつも以上に真剣な顔をした金色の髪した男が、何やら深く読み込んでいる。
――真面目
トビは何かを読み込む時、必ず口が一緒に動く。ぶつぶつと音はなく、唇だけ動くのだ。
ふと、書府の外からゴーンと鐘が一回鳴った。いつの間にか昼時は過ぎた様だ。
元々、昼餉は抜くと決めていた為、ユーリックは鐘の音など気にする事なく読み終わった書物を手にすると、元の書棚へと返していく。そして、今度は目星をつけていた新たな書棚へと向かっていった。
◆
「では、今日はこのくらいで」
昼時の鐘が終わりの合図か、最長老の言葉により一日目の会合は終わりを告げた。それぞれが退出していく中、会合が終わった事を見計らって居た者が颯爽と最長老へと擦り寄って耳打ちする。
態とらしく、何とも薄気味悪い。
今回は何を企んでいるのか。そう思うとロアンは背後に立っていたウェイとキーフに行くぞと声を掛け足は颯爽と出口へと向かっていた。
「ロアン老師」
嗄れた声が急ぐロアンを呼び止めた。ロアンは足を止め、顔だけを嗄れた声の方へと向けると、厳格なる老人が揺るぎない姿で腰を下ろしていた。
「久方振りに女弟子をとったそうだな」
「……それが?」
「珍しい事もあるものだな、女は弱いのでは無かったのか?」
どちらも表面上に僅かな機微も、変化もない。鋭く、互いに何かを探ろうとする視線だけが行き交う。
「才覚がはっきりと見えただけだ。他に用がないなら失礼する」
平然とロアンは答えると背後に引き連れた二人を連れて、そのまま部屋を出た。
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