十二 暗雲 壱

『お兄ちゃん』


 遠くで、懐かしい声がトビを呼んだ。もう二度と聞く事の無い声が、夢の中で徐々に、徐々に、鮮明になる。

 同時にぼんやりとだが何かが映る。ぼやけた眼に浮かんだのは、骨と皮だけになるまで痩せこけた少女――妹の姿だった。

 薄暗い小さな荒屋で、床の上に二人で力無く横たえ、死を待つばかりの姿。

 艶を失いボサボサに伸びた黒髪が妹の顔を隠すものだから、トビは同じく痩せた手を精一杯伸ばして少女の黒髪をかき上げた。その先に見えてくるのは骨の形が浮き彫りになる程に窪んだ眼下と頬。そして――トビと同じ青い瞳。

 互いの血のつながりの証明とも言える青々とした眼が、じいっと澱みも思惑もなくトビを見つめていた。

 澄んだ青色が互いの姿を捉えあって、離れ難い互いの身を寄せ合った。

 段々と視界すら霞んで、部屋の景色も、目の前の少女の輪郭すらぼやけても、その青だけが色褪せない。


『お兄ちゃんの青い目……綺麗だね』

 

 弱々しい囁きを最後に意識が段々と浮上する感覚を覚え、トビはゆっくりと瞼を閉じた。


 ◆


 パサリ――と紙が捲れる音で、トビは夢の余韻に浸る間も無く現実に舞い戻った。

 毎朝、毎朝、早起きする必要も無いのに、起きて早々――というよりも、時間を惜しむように使える時間の殆どを読書に費やしている女は、既に身支度を終えて、今日もつくえを占領して姿勢良く本を覗き込む。

 黒曜館からは持ち出しが不可能な為、貸本屋からわざわざ娯楽小説を借りては、無意味な知識で脳を埋めている姿はもう見慣れたものだった。


 トビは寝台の上で転がったまま肘をつくと、目覚めたトビに気づく事なく本を読み続ける女を眺めた。

 些細な悲しみか喜びか、紅色の瞳が物語に取り込まれて、ゆらゆらと揺れる。トビからすれば何の身にもならない文字の羅列でしか無いものだったが、ユーリックが読み耽る姿を思うと、トビにも初めて娯楽文学に価値が見出せた気がした。


 ふと、ユーリックの目線が上がった。紅色が見つめる先に漸くトビに姿が映る。文字へと向けていた顔そのままに柔らかい表情がトビへと向けられていた。


「トビ、おはよう」

「……いつ気がつくかと思ったよ」


 冗談混じりの言葉にユーリックは悪戯に笑うと、性懲りも無く再び目線は下に戻った。

 

 悪い気はしない。それどころか、顔つきこそいつもの温和な男だったが、トビは満足といった様子で上機嫌のまま寝台の上で上体を起こし寝台の端まで移動する。

 そのまま立ち上がるのかと思いきや、寝台と衝立の間にできた隙間の床に這いつくばった。

 丁度、ひと一人分。狭いと言う程でもないそこで、トビはそのまま左腕で身体を支え、右腕は背中へと固定する。つま先を立て準備が整うと、支えていた左手の親指だけを残すとそのまま身体を上下させ腕立て伏せを繰り返した。


 ユーリックの日課が読書であるならば、トビの日課はそれだった。帝都で日々鍛錬に使える場所は――あるにはあるのだが、監視の対象である今は出来る限り避けたい。

 となると、出来る事は限られた。

 その結果が――今である。

 

 数をこなしていくうちに僅かだが呼吸に乱れが出る。疲れた、と言う程でもなく支えている指にも手にも負担はない。そうして暫くすると、今度は右腕と交代する。

 腕に力が篭るたびに引き締まった筋肉が隆起して、汗が滲む。この時ばかりは暖められた部屋が、鬱陶しくも感じるだろう。

 

 そうしている間に、外からは鐘の音が七つ響く。


「七時か」


 トビは手を止め、颯爽と立ち上がった。寝台横に適当にかけておいた手拭いで汗を取払い、上衣を簡単に羽織ると今も涼しい顔で本を読み耽るユーリックに近づく。それでも尚、文字から眼を離さないユーリックの横顔は涼しげで、トビは透き通る白にも近い頬――よりも上、頭の頂きに手を乗せてユーリックの欲望に歯止めをかけた。


「そろそろ出るぞ」

「うん」


 パタンと閉じる本の音と共にユーリックは立ち上がった。


 ◆


 ガヤガヤと朝の街並みは、騒がしい。トビとユーリックはちらほらと雪が舞う中外套に身を包む。快適な室内とは違って、どれだけ人が居ようが、南部よりも一段と冷たい空気が身体を凍てつかせる。

 二人は歩き慣れた市場で朝食を簡単に済ませると、いつも通りに書府へと向かっていた。

 

 既に、帝都に来て一週間が経った。会合も今日で終わり、後は折角来た帝都で資料を読み漁るだけの時間が残されるばかりである。


 ロアンが会合が終わるたびに見せる不機嫌な顔以外は実に平和な日々。残りの一週間も是非ともそうあって欲しいと願いを込めつつも、ユーリックはトビの隣に並んで歩いた。が、――


「トビ、」

「三人だな」

「どうする?」

「ほっとけよ。考えるのは、あっちが手出してきてからで問題ない」


 あからさまな気配が三つ。二人を見張る視線でユーリックは眉を顰めこそすれど、迂闊にトビに視線を送ることすらしない。

 問題ない、と言われたならそれまでだ。


「仕掛けてくるとしたら今日かな」

「かもしれないし、遊ばれてるだけかも知れないけどな」


 だから、その時まで気にする必要はないとトビは澄ました顔で言った。トビも帝都に来た経験は五年前の一度きりの筈なのに妙にこなれている口ぶりを見せる。二人は警戒こそ怠らないものの、そのまま書府へと進む。

 その道すがら、ユーリックが浮かんだのは五年前のイーライだった。

 今日と同じく、何かしらがあったのだろうとは思ったが、そこまで冷静を欠く事態でもあった筈なのだ。


「ねえ、イーライって何したの?」

「単純な話だよ。書府の敷地内で、嗾けられて、相手を殴った。で、その後返り討ち。そんだけ」

「嗾けられたって……何言われたの?」

「さあな、俺も近くにいたわけじゃなかったし」


 トビもイーライの事だからか、関心もなく、口ぶりは冷ややかだった。

 興味がない。その言葉に尽きるのだろう。決して見せなかった冷たさを携えた視線が、ゆっくりとだがユーリックを映した。


「イーライの事を気にするのは珍しいな」

「イーライじゃなくて、何が起きたかを把握しておきたかったの」


 チクリと刺さる視線は、ユーリックの反論でスッと消える。


「あいつが間抜けだっただけ」


 表情こそいつもの様相に戻ったが、トビのイーライに向ける冷ややかな声だけは変わらなかった。

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