十三 暗雲 弍

 じっとりとした空気。

 暖炉でパチリ、パチリと火が爆ぜる。曇天の空模様のせいで、暖炉の火が煌々と部屋を照らすと両極の二人の顔色を赤々と染めた。

 今の心象である怒気そのままの色を映しているようで、部屋は静まり返っている。


「先程連絡が入った。さい国が落ちたと」


 最長老は悪びれもなく、そのままの情報を伝えていた。だが、穏やかでいられない人物が現在の部屋の中に一人いると分かっていて、わざわざ今話したのもあるのだろう。


「ロアン老師、側近の――キーフ上位じょういであったか……その髪色。彼方の出身であろう?」


 最長老の目線がロアンの背後に立つ一人へと登っていく。赤みを帯びた崔国特有の髪色と、色素の薄い茶色の瞳。生粋の辰帝国の民は、黒髪黒目と今もロアンを含む一堂に集まった者達の殆どがその条件を満たす中では、鮮やかにも見える赤毛はよく目立った。

 キーフは最長老が言わんとしている事を理解しているが、ロアンの背後で毅然な姿勢を貫いたまま、眉ひとつとして動かさない。

 ロアンも、キーフの様が見えているかのように迷いなく最長老へと言葉を返した。  

 

「だから何だと言う。俺の弟子が裏切ると言う話だろうか」


 今にも青筋が立ちそうな顔つきが、ギロリと最長老を睨む。


「何、始末を早くつけておけば、後で後悔する事も無かろうて」

「キーフ上位は生まれこそ崔だが、この国で育った。血が裏切りを呼ぶとでも? 随分迷信めいた話だな」

「判らんぞ? 人の心は移ろう。彼方の故郷が消えた事で揺れる事もあろう」


 怪しい笑みを浮かべて最長老はくぐもるように喉を鳴らす。愉悦に浸る表情の実に卑しい事。

 殊更に、命じない事がまた厭らしから、ロアンの眉間の谷が深くなる。


 最長老はただ、煽っているだけだ。

『崔国出身は殺せ』と命令を下さないのは、どちらがロアンを揺さぶる事が出来るかを知っているのだ。殺せと言われたら、ロアンは正当性を主張しキーフを南部へと送るだけだろう。南部ならばロアンの命令が通る。が、それではつまらない、とでも言っているようだった。


 ほんの些細にでも揺さぶれたなら、それで良い。

 滲み出る奸悪な様。永く生き地位を維持してきたとは思えぬ姿が、据えたロアンの腹をじわじわと締め上げる。

  

 これが――この腐った思想が、この国を瓦解させていく。


 ロアンは、ただ耐えるだけだった。指の先にもその忍耐を感じさせぬ程に、ただ耐えた。

 まだ、今ではない。焦ってはならない。

 この男が、卑小な心根にあるものをロアンは知っている。

 虚栄心ばかりの余裕の表情に言葉。それらは全て、ロアンを警戒しているからこそ余計に敵意となって現れるのだ。 


 この老齢の男は、ロアンが恐ろしくて堪らないのだ。

 今にも、その実力が牙を向けそうで。一切の油断が出来ない。

 同時に、その実力は惜しいものがあった。

 野蛮な南部を統率する力も、屈強な弟子たちを育てるその手腕も、今も尚、強靭なる力を見せつけるその様相も。

 

 全てが恐ろしくも、恨めしいのだ。 


 ◆


 書府院の中は曇天のお陰で薄暗い。その上、吐く息は白いままで冷気が身に染みる。

 どうにも、空模様が怪しい。曇天の雲の様相が、流れる雲と共に、薄暗く空を殊更にどんよりと黒色へと染め上げる。

  

 ――吹雪でも来そうだ


 トビは、二階の天井近くから溢れる薄らとした光で何となくそう感じていた。 

 最初こそ、蝋燭の灯りだけで何とか凌げたものの、徐々に天候が悪化して文字を読むのに効率が悪くなっているのもあった。


 こういう日は、書府院が早々に閉じてしまう。金を払った事などお構いなしに、彼らは書府院が大事だと、あっという間に決定してしまうのだ。その本音は書府院が大事なのではなく、純粋に吹雪の前に帰りたい――という自己主張が含まれている。


 そろそろだろう。と、トビは見切りをつけて手に持っていた書籍を棚へと戻すと、二階の欄干から身を乗り出し下を眺めた。丁度、トビが居るあたりの真下。つくえ一箇所を堂々と占拠する女が、蝋燭の灯りだけを頼りにずぶずぶ知識に浸って文字を追っていた。


 そう声を上げずとも声が届く距離。トビは、口元に手をあて「おーい」とでも声を上げようとした。

 が、突如現れた人物によって冴えぎられた。


「ロアン老師の弟子、トビ下位――で間違い無いだろうか」


 背後、書棚立ち並ぶその前に、一人の男が佇む。

 トビは欄干から身体を離し振り返れば、片眼鏡をかけたひょろりとした四十程度の男が表情の無い顔でトビを見ていた。

 

「私、帝都の夜門統括の側近でケイジュクと申します」

「……はあ」


 トビは鬱陶しいと言わんばかりの気の抜けた返事を見せ、欄干に背を預ける。トビの礼儀など無い太々しい姿に、男の表情がピクリと動く。


「お話は何でしょうか」

「……中位魔術師まで後少しの実力だとか」

「まあ、不死の術の会得は終わっているので」


 トビはケイジュクの視線と勝ち合わせながらも、その表情は余裕だった。


「どうでしょう。鞍替えを考えてみては。南部よりも帝都の方が余程豊かに暮らせますよ」


 悪くない――と思わせたいのだろう。トビはもたれかかっていた欄干から僅かに目線を下にやる。

 今も尚、呑気に資料を漁り続ける女――と思いきや、僅かに顔をあげ、トビへと視線を返す。不安気ではない。囁き程度に聞こえる会話がただ気になる、それだけだろう。

 それだけでも、トビの口角は上がり、自然と笑みが溢れた。


「……毎回、ロアン老師の弟子を引き抜いてるんですか?」


 嫌味には、嫌味を。邪推の籠った言葉には、邪推で返す。ある意味で、これも師の受け売りである。

 

『拳で解決する事しか脳が無い奴は、猿だ』

 

 そう口酸っぱくして言われてきた。


「南部など、田舎者やら野蛮と罵る割には優秀と認めて下さるのですね」

「書府院へと入る事を許されているならば、野蛮とは程遠いでしょう。此方も優秀な方を帝都にお誘いしているだけですよ」

「であれば、な人物をご自分で育てた方が良い」


 その方が効率的だ。そう言って、トビは男に背を向けた。もう一度、空模様を見上げると、また一段と黒い雲が見える。

 早く帰らないと。トビは階段がある入り口側に向かって歩き始めた。


「後悔されますよ!」


 口を閉ざしたと思っていた男が、声を張り上げた。書府の中で、残響が焦りを体現する如くこだまする。

 トビは、足を止め振り返るも清々しい程に済ました顔で満ちていた。

 

「――はは、残念だが。俺は、其方の誘いに乗ったと同時に、後悔が待ってる」


 だから、まず無い。と、トビはそれ以降振り返る事もなく、その後悔の先に立つであろう人物の元へと向かって行った。


「ユーリック、帰るぞ」


 既に帰る準備を進めていたユーリックの手には何冊もの書籍が抱えられていた。トビの様子で慌てて帰る支度を始めたのだろう。トビは否応無しに数冊奪うと、テキパキと書籍を元の場所へと戻していった。


 二人が終わったと顔を合わせ外套を纏った時だった。


「本日は閉館!本日は閉館!」


 と検閲の時に見た顔の男が、書府の中で叫んだ。とっとと帰れと同義の言葉に、二人は颯爽と書府を後にしたのだった。

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