十 疑義
疲れた。思わずそんな言葉がトビの口から飛び出しそうだった。
日も暮れ、夕闇が入り混じる南部の都。
春の討伐が終わったかと思えば、今年は別の禁足地も手伝えと師父から命じられたものだから、トビは南部を大きく移動して師兄達と仕事に勤しんだ。
お陰で懐は暖かい。春の討伐は禁足地に出向くと報酬が良いのだ。そうなると、師兄達の何人かから妓楼へと誘われる。まあ、いつもの事である。
最初にそういった店にトビを連れて行ったのは、キーフだった。その時は、年長者の言葉と師兄への随行と……後は、若さ故だろう。その後も、トビも付き合い宜しくで
そして今も、無理矢理連れてこられた南部の都の歓楽街中心にある妓楼館の前、あっけらかんとした顔でトビの返事を待っている。
「いや、今回は遠慮します」
「なんだ、奢ってやるぞ」
「いえ、先に帰ります」
と、トビがあっさりと返すものだから、キーフの顔がニタリと笑う。それはもう、満面の笑みで。
「お前、ついに手出したのか」
「……(手は)出してないですよ」
トビは顔を背ける。ついにと言うのはユーリックと付けなくても通じるからであって、勘づいていると言うよりは、知られているのだ。その事に関しては、トビにはもう今更だった。多分、皆知ってる。が気まずくなったのか、トビは帰りますとそのままキーフに背を向けた。
「師父の家に行ってもユーリックならいないぞ」
「え?」
トビは再びキーフへと振り向く。
人が行き交う妓楼館の前、トビはキーフに詰め寄った。いつもそうだ。皆知っているのに自分だけが知らない事ばかりで腹立たしい。トビは今にもキーフへと掴みかかりそうだった。が、堪える。師兄への分別ぐらい弁える理性は残っていたようだ。
「それ、どう言う事ですか」
ユーリックに事になると、途端にトビは熱くなる。まあ、こう言うところが、トビがユーリックへと抱く想いがバレバレになる要因でもあるのだ。いっそ清々しい程に隠しもしていないのもある。
「ユーリックは師父と別の禁足地に行った。あと何日かは戻らないだろうよ」
「……それって、師父のお付きで行ったんですか?」
トビの目は怪訝そのものだった。
帝都に赴いてからというもの、分別こそ残ったが疑義は残ったままだ。
師父と師兄が見せた姿。ユーリックが死にかけているのに、トビ以外は誰一人慌てていない。怪我の具合を見た訳でもなく、目の前で刺される様を見た訳でもない。
ただ、トビはユーリックが刺されたと言っただけで、症状については何一つ述べていない。
そう、何もかもが不確定要素の中で……そうまるで、助かると理解しているような――
――いや、あれは理解じゃない。
呼吸は浅く、下手に得物を抜けば、失血死の恐れがあったはずだ。ロアンも完璧ではない。
傷の治癒に関して、完璧などないのだ。にも関わらず、ロアンは『問題無い』と言ったのだ。
その考えが浮かんだ瞬間、トビの中でユーリックに対する考えが揺らごうとしていた。目の前にキーフがいるのにも関わらず……いや、キーフが思わせぶりな言葉を述べ、思わせぶりな顔で目の前にいるからこそ、トビの思考は巡ったのだろう。
考えが固まった瞬間、トビの瞳孔に変化が生じた。瞳孔を見開き、驚きがそのまま現れてしまったのだ。
それまでキーフはトビの思考を遮る事なく待ったが、トビの確信を見抜いてか、ふっと笑った。
「トビ、理解したか?」
その言葉に、トビは己の考えが確信に変わる。
――ユーリックは、
トビは思わず拳を握り、ギリリと軋む手の内が熱い。
そう、傷が治るのはあくまで副作用であって、本筋は死なない肉体にある。
だとすれば、ロアンがユーリックを切り札と言った事にみ納得がいく。
そして、最後に考えるべくは、矢張り。
そう、ロアンだけではなし得ぬ大それた事、それこそ国すら揺るがす、何か。
そこで思い至った瞬間に、トビは一人に人物しか浮かばなかった。
恐らく、ロアンが唯一勝てるかどうかが判然としない相手であり、その男の死が国を揺るがすのも事実である。
それだけの大事を、ロアンが企てているとしたら。
ユーリックは、その最後の駒なのだとしたら――
悶々とするトビを前にして、キーフの不適な笑みは消えない。だが、その消えない笑はポロリとトビへの道を示した。
「……
そこは、トビには覚えのない場所だった。という事は、それなりに重要かつ危険が伴う場所の筈。トビの顔は自然と険しくなっていた。
「教えて良いんですか?」
「問題無い。お前も俺達と同じく、ロアン老師に組みする者だからな。まあ、間に合うかは判らんが」
入れ違いになるかもな、とあっけらかんに笑うとキーフトビに背を向けて遠いから頑張れよ、と後手に手を振って妓楼館へと入って行った。
トビもまた、馬を迎えに預けた
宿へと金を渡し、
◆◇◆
ユーリックが境界に入って、三日が経った。
あと三十分で、また火を使って妖魔を誘き寄せねばならない時刻である。
今日もまともに眠れていない。
適度に分けた七日分の食料……とは言い難いただの干し肉と干し葡萄。味気ない食事だが干し肉を噛み締めながら、ユーリックは大木に背を預ける。
まだ、三日。
妖魔の襲来が絶え間なく続いていた。しかも、火を焚くと妖魔が増える。というよりは、枯らした筈の根源が再び活性化するのだ。
陰というのは、
そう、本来であれば、排出し切った陰は
これにはユーリックは辟易するしかなかった。何せ、終わりが無い。ただでさえ多い妖魔にうんざりしているのにも関わらず、漸く枯渇させたかと思った場所から更に多い妖魔が湧き出てくるのだ。今回の条件をこなさねばならないというこの状況が、なんとも厄介でしかなかった。
ゆっくりと噛んだ肉を水と共に流し込むと、今度は干し葡萄を一粒口に含んだ。
酸味は抜け、日干しさせた影響で甘みが強い。これが、一日の中で唯一の楽しみというのが、なんとも虚しい。
――干し葡萄、もっと持ってくれば良かった
最初から山に籠ると言われていたら、それなりに準備をしただろう。
ロアンは故意に、ユーリックへと何も知らせなかった。ただ、一週間出かける。それだけの筈だったのだ。
干し葡萄が口の中から消えた頃、ユーリックは大木へと完全に身を預け、残り二十五分という僅かな時間で仮眠をとる。
一日の中で、一番長い仮眠がこのひと時だけだ。
全てがギリギリの状況だった。水場はなく、食べられそうな獣も見当たらなければ野草や果実もない。
食料は満腹になる程は手持ちにはなく、水に一日に飲む量をきっちり決めておかねばならない。短剣に予備はないから、常に魔素を込めた攻撃をせねば、あっという間に
ユーリックは、仮眠をとる今でさえも、気が休まる状況とは言い難かった。
目の前一体は、妖魔の死骸で埋もれている。
妖魔の腐敗は速い。死して、一時間と経たずして腐敗が始まり、腐敗による肉の変質が始まり、ドロドロと溶けていく。
生きながらにして臭みのある肉は、腐敗するとやたらと臭う。だが、普通の肉質よりも腐敗速度が速い影響か、気づけばヘドロ状になり地面に溶け込んでいく。
元より臭みのある肉質である妖魔。生きながらにして腐っているとも言えるが、その肉の臭みは屍となってより顕著な匂いが、あたりを腐敗臭で満たすのだ。
他に移動して、気が休まる場所で休息すれば良いなど、逆に枯渇していない新たな根源を刺激するだけの恐れもあり、この屍の溜まりに溜まった状況こそが、休息を取るにはうってつけでもあった。
匂いは――まあ、慣れだろう。
その証拠に、ユーリックは瞼を閉じたその瞬間に眠りに入っていた。警戒を解く事は出来ない為、眠りは浅い。が、僅かでも眠り身体を休める事で魔素の回復を促し、次に備える事に繋がる。
暗闇という孤独。迫り来る恐怖。常に張り詰める空気。
ユーリックは師父ロアンによって、故意に追い込まれている状況と理解していても、その精神が揺らぐ事はなかった。
ただ、七日――七日耐えれば、良いのだと。
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