十一 這い寄る
ユーリックが境界に篭って、七日目。
ロアンは一人、大木の前に陣取っていた。
スーとニーベルグは近くの村で休息を取らせ、ただ単身で時を待つ。
森の奥底では、今も禍々しい気配が溢れては脈々と蠢く。
ロアンは一人、とある資料に目を落としていた。
紙の束と言っても差し障りない程に、書物とは言い難い紐で縛られただけのそれは、古い文体で綴られ、今にも崩れ落ちそうな程に古い文献だった。
己が手で滅ぼした一族が持っていた、古めかしい記録。その内容は、神話とも代々受け継ぐ言い伝えともとれた。
記録によると山岳地帯に住む一族は、
古来より女神
はっきり言って仕舞えば、胡散臭い。恐らく国中の者達が、この一族の言葉を信用しないであろう。淡々と、神話か御伽話にも近しい内容が、至極当然に過去にあった出来事として綴られていた。
やれ、神が舞い降りた地だの。やれ、神の言葉があっただの。昨今で、それを言おうものなら詐欺と思われても仕方がないだろう。どの話も、信憑性が乏しい上に真実味が無いのだ。
その中には、この禁足地も記録として逸話が残されていた。
◇
この世に火を
南方の地にて。燧人は幾人もの神々を次々と弑虐した。その業火に焼き割かれた神々は、魂魄まで燃え尽きたという。
燧人は暴虐の限りを尽くし、次々に神威を消し去った。
だが、神にとって殺生は禁忌とされる。それが同じ神とて同じだ。一人殺める度に、燧人の肉体と魂魄は朽ちていく。
そうしてついに、
我が子である伏犧と女媧が姿を現しても、燧人の心は変わらなかった。既に、
男神伏犧と女神女媧の力により、遂には神々の力によって燧人の
神威を失った燧人は、最後に神の肉体と魂を用いて、南の地を呪った。その呪いにより、地は腐り陰の力が濃くなり妖魔が溢れた。
それを抑えるべく、女神女媧は呪いを請け負い、弱り果てた。
神の
神威こそ奪われたが燧人の力は途方もなく、その影響が消えるのは遥か先。
女神女媧が呪いを請け負っても、影響だけは残り続けるだろう。
◇
信仰を失った国にとっては、御伽話でしかないその記録。
辰帝国では、神の存在を仄めかし、ありもしないものを存在すると主張する事、人心を惑わす事は罪とされ罰せられる。
そんな国で無ければ、ロアンが手にしたそれは重要文献とされ、丁重に扱われたかもしれない。
己が咎そのものの一つである文献をロアンは静かに閉じると、荷物の中に仕舞い込んだ。
ロアンの目は再び境界の向こう側へと向く。
逃げる事なく、言いつけ通りに境界の中、一日一回火を焚いて妖魔を惹きつける。
――馬鹿正直に育ったもんだ
と、ロアンは自嘲気味に笑った。そう育てたのは、自分というのもあるのだろう。
師を憎む反抗的な目。あの、
ロアンは、その瞳を宿した弟子が境界の向こう側から現れるのを待つだけだった。
◆◇◆
七日。
七日目にして、辺り一面、腐敗した妖魔で埋まったそこは正にこの世の終わりとでも言えるかもしれない。
腐敗が始まった妖魔の屍肉は可燃性が高くなるのだが、今はその手段も使えない。
もしも今、この妖魔の死骸を全て燃やそうものならば、恐らく、ユーリックが魔素で補うまでもなく良く燃える事だろう。それこそ、腐敗した肉から出た気体に引火して爆発でも起こる事も有り得る。そうなれば、歯止めがつかなくなった炎は森全体を燃やしてしまうかもしれない。
そんな腐敗臭漂う傍で、大木の前に座り込んでユーリックは虚な目を見せていた。最後の干し肉を口に含んでは慎重に噛んでは惜しむように何度も咀嚼する。それこそ味がしなくまるまで噛んで、歯ですりつぶして、錯覚で空腹を満たそうと必死だった。
現地調達できる食料どころか、食べられそうな野草も無い為、均等に分けた七日分の食料も後僅か。残しておいた干し葡萄の一粒が最後だ。水も、二口ほど。
だが、それはそう大した問題ではなかった。食料問題は七日目さえ乗り切って仕舞えば、どうとでもなるのだ。
だから、味わって咀嚼するというよりは、空腹を誤魔化すために錯覚を起こす為に何度となく干し肉を噛み締めて集中力を切らさないようにする事の方が重要だった。
問題は、睡眠が殆ど取れていない事だ。
ユーリックは殆ど眠ってはいなかった。眠る隙が、ほとんどと言って無いのだ。
休息が取れず、精神的に追い詰められる感覚と、最後まで気が抜けない環境が、ユーリックの精神をじわじわと痛ぶった。
疲れが精神を侵食され気づけば、時間に余裕はなくなっている。
ユーリックは口の中に肉の感覚がなくなった瞬間に、大木に背を預けると目を瞑った。だが、気を抜くと深く眠ってしまいそうで、五分も経つと目を開けた。
――そろそろ、移動して火を焚かないと……
ユーリックは目覚めと言わんばかりに最後の干し葡萄を口へと放り込み、最後まで味わうと全てを水で流し込んだ。
空になった水筒を鞄へと仕舞うと、ユーリックは一呼吸する。何かしら行動を起こそうと自分に言い聞かせないと、脳と身体の動きが一致しない。
あと一日、あと条件一回で終わる、と何度も自分に言い聞かせると漸く重たい腰が上がると言った具合に気力自体がつきかけていたのだ。
まあ、実際条件一回満たした後に十六時間耐えると言う試練が待ち受けているのだから、思考も鈍ると言うものだろう。
持ち上がった重たい腰に手を当てぐっと伸ばすと、ユーリックの目の色が変わった。
これが、最後。
そう意気込んで、腐敗臭漂うその場から離れた。
新しい場所に移動しても、数こそ減ったが今も深淵の向こうからちらりほらりと新たな妖魔の気配がユーリックを伺う。
数は減ってきた。そう実感すると、少しばかりの高揚感で気力が戻った気にもなる。腐敗臭と妖魔の匂いが染み付いた身体は、きっと妖魔にも不可思議に違いない。
ユーリックが完全に闇に紛れられなくなっているのにも関わらず、人間の匂いがしない故か安易に襲ってはこなくなっていた。
勿論、視認されれば容赦なく牙を向けるのだが。
ユーリックは適当な橋を見つけると、妖魔の気配を感じながら
カチカチと小刻みに触れる秒針の音が煩わしいとすら感じる。時間は、既に十二時を回っていた。休憩を少しばかり多く取りすぎたとユーリックは反省する。
特に、ロアンが傍で監視している訳でもないのに、律儀なもんだ、とユーリックは鼻で笑う。
憎いのに。命令を当然の如く受け入れる自分が、尚憎い。ロアンに従うしか道が無いと言う事実が。
怒りも気力の源なのかもしれない。僅かだがやる気が戻る。
ユーリックは怒りと共に魔素を適当な地面の上で練り込むと陣を浮かばせた。
音もなく燃える炎は、か細く辺りを照らす。できる限り魔素の消費を抑える。もう、無駄に出来るほど魔素残ってはいないのだ。
その炎で妖魔が集まる――筈だった。
――あれ? 思った以上に狩れてた?
と軽口に考えられる思考があったなら良かっただろう。
だが、炎が突如ぼうっ――と、音立てた事により、そんな思考は掻き消える。
ユーリックは魔素の量は変えていないのに、炎は大きく、更に大きくなっていく。
――何で、勝手に!?
ユーリックは慌てて魔素遮断するも、炎は燃え続けた。そうなると、もうそれは幻でも何でもない、炎になったのだ。
――どうなってるの!?
ユーリックは大きくなる炎の下に新たな陣を生成し、今度は、火と相反する水を顕現させる。
魔素の無駄。そんな事は思考から消え去っていた。これ以上の大事が起こる方が、厄介なのだ。
大きくなる炎に合わせて、ユーリックはありったけの魔素を注ぎ込んで水を創りだそうとした、その瞬間。
炎の真下、初日に見た
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