九 常闇 参

 日付が変わろうとしていた。辺り一面が妖魔で埋まり、そろそろ移動がしたいと思った矢先、時間を忘れていたと慌てて衣嚢ポケットに仕舞った懐中時計を取り出す。

 うっすらとだが、針が指し示す位置と時刻が判る。本当に、申し訳ない程度になんとか。

 針が示す先は、もうあと五分と言った所で日付が変わる所。


 途切れた妖魔の気配に、ユーリックは屍の上に座り込むと小物入れポーチから軽食として持ち込んだ干し肉を齧る。とても、七日分とは言い難い量ではあるが、良く噛めばそれなりに腹が膨れたような感覚になるだろう。

 どちらにしろ、そうたいして食事をする時間もないのでそれで十分だった。

 そしてもう一つ、水。こちらも、七日分とは言い難い。


 ――水場ぐらい聞いておけば良かったかな……いや、教えてくれないか


 水筒を傾けて、一口分だけ口に含めば、喉は十分に潤って乾きは癒される。

 水筒が口から離れた瞬間に、はあ、と何度目かも分からなくなった嘆息が溢れた。火を焚く前に仮眠をとっておきたかったが、あまりの妖魔の多さから計画は崩れている。ユーリックは思うようにいかない事が堪らなく腹立たしかったが、それも自分が不甲斐ないと考えるしかなかった。

  

 さてさて、と立ち上がる。そろそろ時間だ。  

  

 足場の悪いその場から離脱すると、ユーリックは辺りに新たな気配が生まれた感覚を一度無視して、地面の中心を見つめる。

 新たな妖魔が集まるよりも先に始めなければ。  


 これが、最初の火だ。

 何が始まるのか。何故、火に反応するのか。

 そればかりは、好奇心を突かれて気持ちは昂った。実際のところ、これだけは悪戯する子供さながらにやってみたかったのである。


「さて、何が起こるのでしょうか」


 と、悪戯っぽく呟いてみるぐらいの余裕があった。なんだかんだと言っても、ユーリックはまだ十六歳である。成人したと言っても、大人と子供の境目を生きているのだ。此処に、トビがいたら一緒に笑ってくれるのだろうか、そんな思いを浮かべならがユーリックは地面に魔術陣を描いた。


 ぼうっと三尺(九十㎝)程度の大きさの赤い陣が浮かぶ。

 可燃性の気体を生成し、その中心に僅かな雷電を発生させると、小規模な爆発と共に火が付いた。どうせならと、大きく広がる炎は柱のように天へと伸びて辺りを照らす。

 それまで、ただの闇だった世界に橙色の灯が満ちる。

 空は緑青が埋め尽くし、両手で覆えないような千年樹の大木が視界を遮る壁となる。地面は苔むし、青々とした大地。光さえ当たれば、神話でもありそうな古い森だ。


 無駄に魔素を使った甲斐があった。呼応する森の息吹を感じながら、ユーリックは炎を中心とした気配に感覚を研ぎ澄ませた。


 火。

 その火を囲むように、陰が生まれた。何も、遮るものなどないのに、黒い陰が炎を囲み、ボコボコと泡が浮かぶ。それが、陰の根源と気づくのにそう時間は掛からなかった。


 ぞくりと、背筋に悪寒が走った。何か、とんでもないものが出てきそうでユーリックの本能が火を消せと訴える。

 危険の文字が浮かぶと同時に、ユーリックの魔素は途絶え辺りは元の暗闇に戻っていた。茹だる暑さが消えると同時に、も、ふっと消えていた。

 だが、新たな気配は生まれる。


 火の気配に釣られて、続々と妖魔が集まりだした。それどころか、そこら中に陰の根源が生まれ出したのだ。先ほどの気配とは違い、のそれにユーリックは胸を撫で下ろす。


 が、安堵ばかりでいられない。一斉に迫り来る気配に、ユーリックは短剣を構える。僅かな休息と共に取り戻した体力と精神。

 ユーリックは消える熱に紛れて、その身を闇に溶かしていった。



 ◆◇◆


 水筒に口をあて水を含みながらも見物客の気分で大木を背もたれにして、スーは森を眺めていた。その隣は、身体を丸めて仮眠をとるニーベルグだ。スーを信頼しているのか、グッスリと眠る姿。暫くは起きないだろう。


「彼女、すごいですね」


 スーは、森の奥深くの気配を探りながら関心からか熱意の籠った息を吐く。位階があっても手に負えるような森ではない。スーとしては、一時間ともたずに森から出てくると考えていたいのだ。

 それが、どうにも炎を使った残滓だけが境界の向こう側から伝わってくる。

 どうにも、一度目は時間通りに条件を満たしたようだと、更に関心の旨を伝えるべく様子見の為に残った師父ロアンへと目を向ける。

 別の木にもたれ掛かり、ロアンの目も同じく森へと釘付けだった。ただ、スーと違って高みの見物というよりは、何かが起こるのを期待しているような……そんなん眼差しだった。

  

「これって、?」


 悪戯な眼差しでスーはロアンを見るも、ロアンは答えない。だが、スーは続けた。


「はっきり言って、ユーリックの力に何を期待しているのか良く分からないんですよね。勿論、師父の判断には従いますけど、ちょっと反抗的な態度が目立つと言いますか……さっきも森に入る前に、苛つきが態度に出てましたし」


 苛立ちを覚えながら小物入れポーチに物を詰め込む様が、スーには態度の悪い姿に見えていた。まあ、実際小物入れポーチに当たり散らしていたのだから間違ってはいない。


「はっきり言いますけど……道具として使うなら服従させれば良いのでは? それをしない理由は、同情ですか?」


 スーは全てを本心で語った。利用するだけの存在を、丁寧に弟子として扱う理由は何か。それが単純に知りたいだけだった。その疑問に答えてくれるのか、スーはじっとロアンを見やる、と。ロアンの目線は変わらず森を捉えたままだったが、ゆっくりとだが口が動き始めた。


「俺が同情するような質に見えるか?」

「いいえ」


 スーはあっさりと否定する。ロアンの残忍さを知っているが、同時に信頼もしているからだった。そして、「だから不思議なんですよ」と軽口に続ける。

 あまりにもあっさり宣った事を不満に思ったのか、ロアンの目線がスーを一瞥するも、また直ぐに森へと戻っていく。


「……単純な話だ。人形か優秀な魔術師か。より利用価値があるかを鑑みれば、自ずと答えは出る。それだけだ」


 ぶっきらぼうに答えるロアンの姿から真意は見えないだろう。スーも、ふーんと返事はしたものの吐き出したい思惑を抱えたままだ。

 本当に? 師父に対してあるまじき疑惑が降り積もる。

 より優秀な弟子を育てるのには、時間、労力、金が掛かる。それを善意で与える程ロアンができた人間でない事も知っている。知っているからこそ、利用価値で鑑みるべき存在に弟子同等に扱いをしているロアンが今一つ読めなかった。


 ――まあ、これ以上はせっついてもね


 スーは自身を見向きもしなくなったロアンから目を逸らし、師妹がいるであろう森を見た。

 鬱蒼と草木が茂みとなって視界を遮る。不自然にもできた境界は、茂みを辿っていくと、ぐるりと大きく円を描いているのがわかる。


 自然にできたにしては不自然で、かと言って人為的かと言えば管理するものがなければ、またそれも不自然である。

 ロアンはあくまで禁足地の妖魔狩りをしているだけであって、手は入れていないのだ。


『誰がそんなことをしたのか?』


 昔誰かが不意に口にした。それは、とても荒唐無稽な言葉しか返せない程に今も謎だ。

 そんな場所で、師妹――ユーリックは一人。今も妖魔と戦っている。

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