八 喰らう
「……お願い……です。どうか……」
震え、掠れる女の声が、ヒヤリとした石壁ばかりの地下で響いた。
薄暗く、蝋燭一本だけが仄かに照らす中、女は首を鎖で繋がれて蹲っていた。既に囚われてどれだけになるのか、女の衣服は擦り切れ薄汚れ長い黒髪は乱れ切っていた。
まるで犬だ。そう思えていた頃は、まだ余裕があったと女は思い起こす。
今はもう、自らが命あるものとして扱われていないという絶望しかない。
手足は自由だが、冷気の籠る石の床や石の壁にばかり触れていたおかげで、血の巡りが悪くなった肉体は思うように動かない。寒さを凌ぐために身体を丸めていた影響で、体勢も変える事ができなくなっていた。
女は、もう一度口を開いた。
が、水も飲めぬ状況で女の声は掠れてまともな音にすらならなかった。
何故、こんなことになってしまったのだろう。
女は思い起こすも、これと言って理由が見つけられなかった。
一時は、気に入られていたとすら思い込んでいた。お相手として気に入られたなら、それこそ苦労など知らずに生きていける。女は嬉々として老齢の男の手中へと落ちたのだ。老齢の男が、どの様な目で自分の身体を見ているか知っていてもだ。
欲望ばかりが巡り、矜持も露へと消えた。
だが、それもほんの束の間のことだった。
ひと月にも満たない期間、女は老齢の男の夜の相手をしていただけだった。突如、女は最長老の怒りを買ってしまったのだ。
不手際という記憶も無く、何をしくじったかも判然としない間に、気付けば牢獄へと閉じ込められていた。
そして、今日、その老齢の男は再び女の目の前に現れた。
白い顎髭を確りと蓄えた男の目は、女を見下ろすが、汚らしいとでも言う様に、厭悪の表情と目を向ける。
縋る気力も見上げる気力もない女は命を乞うだけだったが、それも、もう、力尽きようとしていた。
――いっそ、殺して
既に、女の呼吸は浅い。
女の意識が虚になると最長老は女の目の前に屈み込み、その背に手を当てた。
人の手の体温に、女が僅かに反応する。が、もはや抵抗する気もなく、動きと言ってもピクリと筋肉が反応する程度だ。
ふと、手を当てていた背の表面が波打った。そこにある、境界に手を触れてずぶずぶと老齢の手が女の肉の内に飲み込まれて行く。
肉のうちであってそうでない、境界の向こう側。最長老の手は何か探し求めて沈んでいくが、ある一点で止まると手が何かを掴んだ。
最長老は慣れた手つきで、その何かを勢いつけて引き摺り出す。
「あ……ぁ……っ!!!」
掠れて音にもなっていない、惨めにも散った女の最後の叫びだった。
命を摘まれた痛みか。掠れた声は途切れると共に、女は絶命した。
老齢の手の内には、収まり良い丸く薄い紅色の玉が一つ。紅玉にも似た色のそれを覗き込めば、向こう側が見通せる程度の色合いだ。最長老は不満の嘆息を零すも、それを口へと放り込んだ。
罪悪感など、遥か昔に消えた男は既に用済みとなった女の屍に一切の眼を向ける事なく、牢獄の出口へと向かった。
「フガク様」
不意に、出口でもある暗闇の向こうから声が響く。
「ロアン老師が帝都へと到着したとの事です」
「ああ、来たのか……」
女へと向けていた厭悪よりもさらに顔の皺を増やして嫌悪を示す。
「あの男……全くもって面倒だ……」
最長老が声の方へと進むと、声の主は最長老の背後へと付き従う。
「以前と変わった顔ぶれは一人。また下位ですらない者を引き連れてきたようです」
老齢の見た目とは違い、スタスタと歩く最長老の傍で男は、今回は如何しますかと問う。
「書府院の使用許可は通例通りだ。そうだな、新顔の方は……さて、どうするか」
それまで不機嫌を晒していた顔が、僅かに緩むと同時に口の端を吊り上げ不気味な笑みを浮かべていた。
◆◇◆
ゴーン――と鐘の音が都に六つ響く。
ガラス窓の向こう側から、朝の始まりを告げた音でユーリックは目を覚ました。
高級な賓館なだけあって隙間風もなく、常に
――お金があるって凄いなぁ
貧乏生活ばかりのユーリックとしては、
ユーリックは然程広くは無い部屋を見渡す。質素ではないが、単調な寝台二つの他には、二人がけの
そして、その卓のすぐ横には飾り気のないが数冊の本が収められた壁に埋まった書棚が一つ。それが視界に入ると、ユーリックは思わず笑みを溢す。普段は、勉学以外で本を読む暇が然程無いのだ。
時間に余裕はある。
ユーリックは寝台から抜け出すと書棚の内の一冊を選び抜き、静かに卓へと移動する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます