十七 油断

 背の温もりを一切感じられない。ユーリックの震えは、更に増した。今から、誰か殺さねばならないと言う状況と、背後で師兄として知っていた男のもう一つの姿を知って、平常心は消え去っていた。


 ――覚悟……


 あれ程、師父の事は憎めるのに、今目の前で自分自身を殺そうと企んでいた人物は殺せない。


「出来ないか?」


 耳元で怒気が消え去った清涼な声が囁く。落ち着いた呼吸がくり返され、如何にトビが冷静かを思い知らされたユーリックの顔は恐怖のドン底にでもいるかのように固まっていた。背中にある暖かい筈の体温が、酷く遠い。 


「――まあ、お前がまだ嫌だって言うなら仕方ない……か」


 トビの身体と手がユーリックから離れ、恐る恐るその顔を見上げると、いつも通りの清涼な顔がユーリックを見つめ――そして、優しげな顔のまま毒吐いた。


「お前が優しさを見せたからって、こいつらが死なない理由にはならないけどな」


 ユーリックの心臓が大きく脈打った。そう、結局は誰かが治療しない限りは、この者達は死ぬのだ。

 魔素で創り出した物体は、術を解除すれば消え去る幻だが、顕現した魔術が与えた影響は消え去る事は無い。直接的に手をかけるか、間接的な死を待つか。


「どちらにしろ、お前は痛みを長引かせてるだけだ」


 またも、ユーリックの肩がびくりと跳ねた。身体の内側からでないとはいえ、芯まで凍りつく程に寒々とした気温もあり、陣から生まれた冷気は皮膚を完全に凍らせ、さらには中の肉へも到達したのだ。既に、皮膚の細胞は徐々に死滅しつつあるだろう。痛みは増すばかりの筈だ。

 ユーリックはその痛みを知らない。けれど、ユーリックの脳裏にはいつかのトビとイーライが浮かんだ。

 上手く、魔術が扱えずに二人は凍傷になりかけたのだ。苦悶で顔は歪み、悶えながらも、どちらも「大丈夫」と言ってユーリックを慮った。

 だが、今度ばかりは――

  

 トビが前に出た。その手には、確りと短剣が握られている。

 何をするかなど、聞くまでもない。


 一番手前にいた男。その男に喉元に、鋭い短剣が添えられた。人体の図解で見た、頸動脈がある辺りそのまま耳の下を伝って、下顎辺りまで――


「ユーリック、お前が迷った時間。こいつらは苦しんだ」


 そう言って、トビの手が横へと動いた瞬間、一人目の頸からは多量な血が流れ出た。


 それからのトビは作業的だった。淡々として、無感情に次々と首を斬る。同情もなく、妖魔と戦うような迫力もない。首から血が溢れ、次々と力無く倒れる様はまるで人形だ。

 その雫が時に飛び散る。トビの服に鮮血が浮かぶ度、ユーリックは後悔した。


 ――私がやらなかったから、トビの手を汚しただけ……


 そして、トビが最後の一人の首を狩ると、何事もなかったかのように振り返った。


「帰るぞ、本当に凍死しちまう」

「……うん」


 二人は亡骸を前に立ち去ろうとした。が、ふと何処からか気配が湧いた。

 敵意はない。か細い集団のようで、ユーリックはただ戸惑った。


「……今、何か……」

「……ああ、こっちを覗いてた連中か」


 トビは平然と、元来た道を見据える。その奥底から、ゾロゾロと様子を伺いながら近づく者達があった。

 背を丸め、骨の歪んだゆらゆらと身体を揺らす歩き方。どれもこれも肌は薄汚れ黒々として、衣服はボロ切れ同然だった。この寒空の中、靴も履かず素足なのが痛ましくも平然と歩く。


 幽玄のもの達が突如現れたかと思うほど、帝都から掛け離れた姿を晒すもの達を前に、ユーリックはただ目を丸くした。だが、そんな事はお構いなしか、それらはジリジリと獲物を狙って近づく。ギョロリとした目玉は飢えた獣の如く、虎視眈々と転がる骸を狙っていた。


 ジリジリとにじり寄っていたが、トビとユーリックを目の前にして足はピタリと止まる。恐れているのか、警戒して一定の距離から近づこうとはしない。が、その目は疎ましそうに二人を捉えている。

 お前達は邪魔だ。

 飢えた目が、そう訴えていた。


「俺たちは消える。は好きにしたら良い」


 トビの言葉に、それらはぴくりと肩を揺らして反応する。待ちに待った――とでも言うように、ゾロゾロと集団で歩く。反対にトビとユーリックもそれらに向かって歩き始めた。

 すれ違いざま、異臭がユーリックの鼻に届いた。すえた匂い……冷気のおかげで、軽く鼻腔をくすぐる程度だったが、ユーリックは思わず眉を顰める。

 死臭にも似た匂いを纏わせ歩く姿は、黒々とした集団の生活をそのまま体現しているようだった。


「ユーリック、見ない方が良い」

「……あの人たちが、貧民街の?」

「そうだ。あいつらは、屍肉に群がるんだ。そうやって生きてる」


 きっと、明日の朝には血溜まり以外全て消え去ってるだろうよ、とトビが嫌悪を示し顔を歪ませながら吐き捨てる。苛つきを隠せず、両手の拳を握りしめた姿――ユーリックは、苛つきの正体が判らずもトビの苦しげな顔を見ていたくなかった。

 苦しませているのが、自分という傲慢な考えを振り払いたくて、ユーリックはトビの背後を歩いた。

 

 そして、そう屍から距離も離れていない曲がり角。丁字路になったその道は先程貧民街に通じているだろうからと、トビが避けた道だった。

 その道からは、幾つもの目がトビとユーリックを見張っていた。

 斥候の連絡を待っていたのか、それとも絶対の安全を確保できるまで待っていたか。


 トビとユーリックの姿をしっかりと捉えると、ゾロゾロと姿を現した。獲物の匂いにつられたか、たった十の屍肉目掛けて歩いていく。ユーリックはトビから目を逸らして、その黒々とした者達の横を通り過ぎていた――が、


 ドン――と、ユーリックに衝撃が襲った。


「え?」


 一人が、ふらりと傾いたかと思えば、ユーリックにぶつかったのだ。どれだけならば、ユーリックも何とも思わなかっただろう。

 だが、腹に鈍痛を感じて腹を見やる。


 柄にボロ切れが巻かれただけの、鈍の刃物が腹に刺さっていた。

 

 殺意は、無かった。それらしい気配も無かった。完全に油断していたのだ。

 力が抜けるのか、ユーリックの身体がふらりと傾きかけた。


「ユーリック!!」


 異変に気づいたか、トビが慌ててユーリックを支えるも、焦点の合わない瞳には、トビの金の髪すら映ってはいなかった。


「ごめん……トビ、……早く、帰ら……ないと」


 その言葉を最後に、ユーリックの意識は途切れた。

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