十五 目には目を 弍

「五年前も、こんな事あったの?」


 暗い路地裏を移動しながら、トビの背後で警戒を続けるユーリックが問いかけた。前方はトビが、背後はユーリックが警戒を怠らずも、口調は世間話程度に軽やかだ。


「前回は、イーライが何か言われただけだったな」


 イーライへの関心が小指の甘皮の先も無いのか、吐き捨てるようにトビは淡々と述べる。


「師父が警戒されてる事は間違いないと思うけどな」

「牽制?」

「多分な……最長老と仲悪いらしいからな」


 それだけ? ユーリックは疑義の篭った声と共に首を傾げてみせる。


「それだけが理由で、トビを狙うの? 勧誘蹴ったから?」

「はは、勧誘蹴ったから襲われてんのは正解だな。後悔するとか言ってたからな」


 カラカラと笑うトビに緊張感はない。楽しんでいる訳ではないのだろうが、それでも、とても今、襲われている状況には見えない。

 判断に一片の迷いもなく答える姿。その姿は、ユーリックが師父へと抱く想いとは正反対だった。


 何故、迷いなく答える事ができるのか。ユーリックは、未だ己が意思に変化がなく、どれだけ恵まれた環境であると知っても、それを利用してやるとしか思えないのだ。

 鬱々と言い訳がましく自分自身に言い聞かせながら、しどろもどろに飛び出た言葉は、その心根と同じく陰鬱なままだった。

  

「トビは……師父の下が一番だと思う?」


 ユーリックのあからさまに師父であるロアンを忌避する姿。その言葉を聴いたと同時か、前を歩いていたトビの足がピタリと止まった。

 ゆっくりと振り返りる顔は、無情にも冷たくユーリックを突き刺した。

  

「思うよ。お前は、違うんだろうけど」


 穏やかな青年の様相が消え、どこか寂しげでもあるその顔に、ユーリックは堪らず目を背ける。


『お前は恵まれている』


 ユーリックがロアンに拾われたその時から、トビやイーライ。時々顔を合わせる兄弟子達が口を酸っぱくして放つ言葉。


『お前は恵まれている』


 幼かった頃、ユーリックはその言葉がのしかかる度に、服の裾を握り締めて堪えるばかりだった。

 衣食住だけでなく、知識や魔術、武術と何不自由なく与えられた生活が送れているのは事実だ。

 只の魔術師の弟子が帝都の書府院の資料が自由に閲覧できるのも、ロアンが老師という身分であり、弟子に対して掛かる資金を惜しまない性分だからだ。勿論、その対価は技術を身につけた後の服従を見越してだろう。それでも容易にできる事ではない。

 より良質な弟子を育てる為、ロアンは惜しみなく自分の技量も知識も分け与え、困窮させる事もない。


 そして、その技術も一級となれば、修行が厳しくとも弟子の誰しもが感謝の意を示し、後に続くのも無理はない状況だった。


「――俺が、師父の下にいる理由はそれだけじゃねえけど。でも、俺が生きてるのも、今、真っ当な生活が送れてるのも、師父のお陰だ」


 トビの真っ直ぐな言葉。ユーリックと違って確固たる信頼の元に出た言葉に、ユーリックは目を伏せてトビから視線を逸らした。

 曲がった性根程度のものだったら、どれだけ良かったか。トビは、ユーリックが己程に師父であるロアンに一片の情を感じない理由は知っている。

 それでも、今の状況には謝意を示すべきだ。トビは、ギロリとユーリックを睨むも外れたままの視線は戻らない。


 ――子供の頃から、こればっかは変わらないな……


 ユーリックの悪い癖だった。基本的に、ユーリックは聞き分けが良い。ロアンに対してもそうだし、他の師兄に対してもだ。

 けれど、師父に対する信頼と敬愛だけは芽生えない。


 ――いつか、考えが変わるかね


 諦念が芽生えそうな感覚に、トビは頭をかいて前を向いた。今は説教をしている場合でもない。宿に戻るまで、は続く可能性があるし、貧民街の連中に絡まれたくもない。


「戻ろう。師父達に現状を知らせないと」

「……うん」


 力無く答える姿を、トビは直視はできなかった。 

 ユーリックがロアンを芯の底から敬えない理由など、聞くまでも無かった。


『あたし……帰りたいの』


 まだ幼子だった、ユーリック。ある日突然、ロアンが連れて帰ってきた幼子――その頃、ユーリックは名無しだった。

 自分の名前も、住んでいた場所も、両親の事すらも、何も覚えていなかった。

 それなのに、ユーリックは泣きながら言ったのだ。


 はっきり、『帰りたい』と。 


 ◆◇◆


 ウェイは、宿の自室で未だ宿主の帰らぬ隣室を見た。正確には、その壁か。

 卓を陣取り白煙を蒸しては、眉を顰める。


「帰って来ないな」


 しっかりと締め切られ、外側から木板が打ち付けられた窓からは、轟々と風の音だけが部屋の中へと響く。ウェイは、ほんの一時体験した吹雪を思い出しながら、若き二人の姿を浮かべた。


 吹雪の寒さで満たされた外とは違い、熱源機器ボイラーで温められた部屋は冬季を紛らわせるには最良だ。だが、今も尚、外に二人がいるとなると冬の寒さを思い出してでも、良心なるものは疼いていた。


「書府院はもう、閉まっているだろうな……何かあったか」


 寝台の上でだらし無く背を丸め、本を覗き込むキーフはこれと言って顔は上げずに「かもな」などと適当な返事をして見せる。

 あまりにも抜け抜けと言うものだから、ウェイの眉間には更なる皺が寄った。


「この吹雪だ。迎えに行った所で、すれ違う可能性の方がデカい。それに、どちらも成人しているんだ。何とかする」


 パラリ――と紙が捲れる音響かせて、キーフの目線は文字の羅列を追ったままだ。

 

「吹雪だけが原因とは限らん」

「どちらでも同じだろう。自分たちでどうにかするしか無い。師父の命令があれば別だが」


 キーフは言いたい事を言い終えると、またもパラリ――とページを捲る。


 轟々と唸る嵐は勢い止まる事を知らない。現地人の言葉では、今晩中は鳴りを顰める事は無いだろうとまで言わしめた。

 その最中に、何かあったとなれば――

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