七 常闇 壱

 ザアザア――と葉の擦れる音が天高くより舞い降りる。

 大木と大木の距離は広く開いているに、何故これほどの闇が生まれるのか。目の前に手をやったどころで、それすら見失いそうになる濃い闇の中、ユーリックは揺れる木々の隙間から光が入り込むのではと思い込んだ。

 が、しかし。他の禁足地と同じで、昼夜関係なく夜に覆われた世界が広がっている。

 一片の光もない世界に絶望を感じる者もあるだろう。正に、一縷の望みも抱けない状況としては相応しい。

 そんな世界はユーリックにとっては慣れた世界だ。けれども、いつもよりも濃く己が身体に纏わりつく闇が、薄気味悪いとすら感じていた。

 

 小さな虫が、全身を這うような。

 誰かが肌の上辺を撫でているような。


 視界も、どれだけ目を凝らそうとも、慣れる気配がない。


 ――時計、見えるかな


 ユーリックは半身右側辺りの革帯ベルトに引っ掛けた懐中時計の鎖に右手で触れるも、辺りに沸々と現れ始めた気配に、手はそのまま短剣へと移動した。


 ズシン――と重みのある足音がそこかしこから響く。その音を隠しもせず、わざと鳴らして近づく恐怖でも与えようとしているのか。

 ユーリックは短剣を構えた。

 体調はいつも通り万全である。


 躙り寄る妖魔の気配を前に、ユーリックは闇の中へと身を溶かした。



 一、二、三、四、五……最早数えるのも面倒になる大群がユーリックを囲む。上を見上げてもその目は見えぬ程の体躯の狼や虎、熊と言った姿が如何にも獰猛であるかを体現し、今も喉を唸らせ警戒の牙を剥く。

 いつもより、一回りほど大きいか。これで二時間後には火を一度試さねばならないと言う。

  

 こう言った時、人は恐怖を感じるのだろうか。

 ユーリックは十三歳の時、初めて妖魔と対峙した。

 恐怖を感じたのは、その時が最初で最後。


 懐かしいとすら感じる記憶が蘇ったのは、ロアンだけでなくユーリック自身すら己を試しているからだろう。

 自分は今、恐怖を感じるのか――を。結果は、火を見るより明らかであった。その目に一片の曇りなく、ユーリックの目に恐怖など宿りはしない。


 魔術師にとって、精神の均衡ほど重要なものはない。緻密な魔術操作で些細な精神の揺れは、威力大幅降下または不発の大打撃だ。

 ある意味で、ロアンの下での修行は精神を鍛える面においても有効と言えるだろう。精神が揺らがないからこそ、ユーリックは状況を冷静に見極めていた。

 闇に乗じて気の流れを遮らず、妖魔の一体一体に近づく必要がある。ユーリックは指の先一つ一つにすら意識を向けた。


 妖魔も慎重だった。最初こそ、ユーリックの気配や匂いを嗅ぎ付けて集まってきたのだろうが、既にユーリックの微かな残滓も残っていない状況とあって妖魔達は執拗にユーリックの気配を追っている。

 しかし、ユーリックの方が一枚上手であった。今も、ユーリックは妖魔の目と鼻の先で佇んでいるが、妖魔は気づく気配すらない。

 

 ユーリックはつま先に力を入れると、音もなくトン――と身軽くヒラリと身を翻しながら跳んだ。


 それが始まりの合図であった。

 ユーリックの動きに、目と鼻の先にいた妖魔の鼻先がピクリと動く。僅かに変わった空気に流れでその方向へと鼻先を向けるが、既に時は遅く。

 と同時に、獣内の一頭、熊の頭の天頂部には短剣が突き刺さっていた。


 身体の大きさに比例せず、脳は然程大きくはならない。その証拠に、妖魔達の動きは動物的である。

 攻撃性に長け、多少の連携はあるが、胃袋を満たす為の狩のようなやり口だ。

 だからか、妖魔は己が人を狩る側だと思っている節がある。


 その僅かな油断が勝敗を分つ。妖魔が痛みを感じた時には、妖魔の脳は魔素が染み辺り、凍結されていた。

 熊の妖魔の動きが止まると共に、冷気気配で他の妖魔達も過敏になる。だが、音が出る雷電と違い、冷気は静寂の凶器だ。

 暗闇の中で暗躍するには、最も効果的な遣り口と言えるだろう。

 ユーリックは、熊の妖魔が地に倒れる音に紛れて次に標的へと飛び移る。


 ――こちらの気配が悟られないうちは、できる限り数を減らして、次は……


 一体一体の妖魔を相手にしながらも、ユーリックはその先の事ばかりを考えていた。無理もない。何せ、まともな休息もない状況下で七日間を過ごさねばならないのだ。

 今まで以上の確実な一手が求められている。それこそ、ロアンと対峙している時ほどの緊張がユーリックに迸っていた。が、ユーリックの中でたぎるものがあったのも事実だ。


 ユーリックは次の標的を虎の姿の妖魔へと移した瞬間、飛び移っていた。やる事は同じだ。只管に繰り返し、異形を殺す。

 虎の脳天へ短剣を突き刺すと熊と同じ手で殺し、次は――と殺す事に慣れた感覚のまま、作業的になる。

  

 妖魔の血は黒い。姿は獣で、中身も獣だが、血の色だけは黒々として毒々しい。次第にユーリックの手も、脳天を突き刺すと同時に染み出す血によって黒く染まっていった。

 

 

 何体殺したか。辺りが獣で埋まり、足場が悪くなった。すると、頭上で羽ばたく音がいくつも折り重なって降り注ぐ。

 どうやら、休憩させる気はないらしい。ガアガアと太いカラスの声は、山中にこだまする。境界に入ってからと言うもの、騒がしい事この上ない。

 その騒がしさに呼応して、また木々が騒めいた。

 ユーリックは嘆息を堪えて、身構える。カラス達が一斉に襲い掛かってはこない。まだ、居所は知られていないと考えて良いだろう。


 さて、鳥はどうやって撃ち落とそうか。そうやって考えている間にも、頭上とはまた別に、地響きにも似た足音が近づく。  

 次々と現れるそれに、何か、人知れない大きな力が働いているようで、ユーリックは境界の洗礼でも受けている気分だった。

 その洗礼は、まだ始まったばかりである。

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