第13話 大嫌いなものが一つ減りました
ソプラノ歌手のように魅力的な声をした女のお化けが、外にいる。
「……ノアナ。助けて……ノアナ……」
「ノ、ノノノノ、ノノノ、ノアナはいませんーーっ!」
「……その声……ノアナだ。ふふっ……」
(なんで速攻でバレるのっ⁉︎)
足の力が抜け、へたり込む。ひんやりとした大理石の床が、足から熱を奪っていく。
逃げないといけないのに、足に力が入らない。手で這って逃げようにも、手にも力が入らない。恐怖で震えが止まらず、上下の歯がぶつかってカチカチと鳴る。
玄関前にいるお化けは、なおも、わたしの名前を呼び続ける。
「……ノアナ。ねぇ、ノアナ。あたし、ルーチェ。助けて……」
「へっ? ルーチェ?」
言われてみれば確かに、心が癒されるほどに透き通った美しい声はルーチェのもの。
わたしはふらふらと立ち上がると、玄関扉に耳を当てた。
「本当にルーチェなら、わたしの大嫌いなもの。わかるよね?」
「勉強と早起きとお化けとピーマンとユガリノス先生」
「当たり! ルーチェだっ!」
お化けの正体が親友だとわかって、恐怖が吹き飛ぶ。
玄関の鍵を開けると、向こう側に開いた扉の隙間から力強い風が入ってきた。風の勢いで扉が持っていかれ、玄関が全開になる。
「…………っ!!」
玄関ポーチにいたのは、ルーチェ。赤髪のボブと、細い目。顎の尖った逆三角形の顔。
見慣れたルーチェの顔で間違いはないのだけれど……。
玄関の照明が、ルーチェを照らしている。その顔は、真っ赤だった。
「な、なんで、顔が赤いの……?」
「……襲われた……助けて……」
「誰に襲われたの⁉︎」
「……お化け」
湖上を渡る風が水の匂いを運んでくる。その水の匂いに、完熟したトマトの香りが混ざっている。
ルーチェの指が、後方を指した。
「ほら。あそこにお化けが……」
ルーチェの指には魔法が宿っているのかもしれない。お化けなんて見たくないのに、わたしは視線を後方に向けてしまった。
夜に浮かびあがるようにポツンと立っていたのは──白いシーツを頭から被った、お化け。
「ぎゃああああああーーーーーっ!!」
わたしは絶叫し、逃げようとして、前頭部を激しく打った。目の前で火花が散る。おそらく、壁にぶつかった。
体がふらつき、そのまま気を失った。
「う、うーん……」
自分の発した唸り声で目が覚めた。おでこが冷たい。
ゆっくりと瞼を開けると、視界に映ったのは、ユガリノス先生。わたしの顔を覗き込んでいる。
「先生……?」
「起きたか。額をぶつけたようだが、赤くなっただけで傷にはなっていないようだ」
顔を動かして周囲を探ると、自分の寝室のベッドに横たわっている。
まだ夜らしい。ランプの周囲は明るいが、ランプの光が届かないところは暗い。
先生はわたしの顔を覗き込むのを止め、上半身を起こした。
「お化け嫌いの君を驚かせようと、ルーチェとベルシュが仕組んだそうだ」
「なんの話?」
「ルーチェの顔が真っ赤だったろう?」
「そうそうっ!! ルーチェがお化けに襲われて怪我をしたみたいで!」
飛び起きて、起こった出来事を話して聞かせる。
先生はお化けが現れたことに驚くのかと思いきや、「君って子は……」と絶句した。
「あれはお化けではない。シーツを被ったベルシュだ。ルーチェの顔が赤かったのは、血ではなく、トマトケチャップ。幼稚なお化けに騙されるとは、君はおめでたい頭をしている」
「えーーっ! お化けの正体は、ベルシュだったの⁉︎」
騙すなんてひどい!!
どんな仕返しをしてやろうか考えていると、左手が冷たいものにふれた。シーツの上にある冷たいものは、濡れタオル。
目が覚めたときに、おでこが冷たかったことを思い出す。起き上がったときに、おでこから落ちたのだろう。
「先生が手当をしてくれたの?」
「そうだ。ちなみに、あの二人は私が懲らしめてやった。たっぷりと説教をし、春休みの宿題を山ほど出してやった」
「それいい! いひひ」
ユガリノス先生のことだ。嫌味たっぷりのねちっこい説教だったに違いない。ルーチェとベルシュはわたしと同様、勉強嫌いだから、宿題に悲鳴をあげたことだろう。
これ以上にない最高の仕返しにほくそ笑んでいると、ふと、先生がここにいるのをおかしく思った。
「どうしているの? 帰ってくるのは、明日の午後だったよね?」
「そうなのだが……」
先生は、気まずそうに顔を逸らした。
「魔法でちょっとな」
「ちょっとな、ってなに?」
「魔法で、その……緊急時に駆けつけられるようにしたのだ」
「どういうこと?」
先生はため息をこぼすと、渋々といった感じで口を開いた。
「君はおっちょこちょいだから。転んだり、階段から落ちたり、火傷をするんじゃないかと思ってな。悲鳴をあげたり、泣いたりしたら、駆けつけられるように、魔法をかけておいたのだ」
今言ったことを笑い飛ばすかのように、先生は鼻で笑った。
「だが、お化け騒動で呼ばれるとはな。予想もしていなかった。君は単純な脳細胞をしているようだ。ルーチェが悪ふざけをした理由がわからんでもない。君を騙すのはおもしろいだろう。簡単に引っかかってくれる」
いつものわたしだったら、反発し、むくれていただろう。
なのに、怒りの感情はどこにもない。心臓がうるさく騒いでいる。
わたしは毛布を握りしめた。恥ずかしいなら黙っていればいいのに、口に出したくなった。
「先生、あの……ありがとうございます。なにかあっても、誰も助けに来てくれないと思ったら、すごく怖くなっちゃって。魔法っていいですね。遠く離れていても、助けに来てくれる。先生、ありがとう。優しいところがあるんですね……」
「…………」
意地悪な先生に、優しいですね。なんて言っちゃった! 恥ずかしい!!
でも、本当にそう思ったのだから仕方がない。先生が助けに来てくれる。手当をしてくれる。なにか起こっても、先生がいるから大丈夫。
それはわたしに安心感をもたらす。
「別に優しいわけではない。実習中の怪我は、監督者の責任問題に関わってくる。場合によっては、弁償問題に発展する可能性もある。そういう理由で、君に魔法をかけたにすぎない」
「そうなんだ……」
沈黙。窓の外からは、風のざわめきとフクロウの鳴き声がする。
先生を優しいと思った高揚感が引いていき、気まずさから、わたしは毛布を頭からすっぽりと被った。先生に背中を向ける。
「なあんだ。わたしはてっきり、心配してくれたんだって思って嬉しかったのに……。責任をとってもらおうと思っていないから安心してください。おやすみなさい!!」
窓の隙間から入り込んだ風が、わたしの心に開いた穴を通っているのかもしれない。ひとりぼっちの寂しさが募る。
ややあってドアの開く音がした。先生は、おやすみの挨拶も言わずに出ていく。そう思っていたら……。
静かな夜は、小さな声を耳に届けてくれた。
「実は、その、心配だった。君になにかあったらと思うと、気が気でなかった。傷が残らなくて、本当に良かった。……おやすみ」
閉まったドア。
わたしは、すぐには眠りに入れなかった。とりとめもなく、先生のことを考えていた。
大嫌いリストから先生を外してあげようかな——。
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