第19話 先生は違う世界の住民だった
わたしは激安服屋の、『処分品! 全品三十〜五十パーセントオフ!!』と書かれたワゴンの中から洋服を買っていた。ワゴンの中にある服は乱雑で、ボタンが取れていたり、糸のほつれているものも平気で混ざっていた。そういった服が好きなわけではなく、お金がなかったから仕方がなかった。
そんなわたしが、生まれて初めてセレブ御用達の最高級ブティックに入った。洗練された店内に、動悸と冷や汗が止まらない。
モデルのように美しい女性店員らが一斉にこちらを見た。
「いらっしゃいませ〜」
「いらっしゃいませ〜」
「いらっしゃいませ〜」
伸びのある高音が店内のあちこちから響き、わたしは思わず「ひゃあ〜!」と叫ぶと、耳を塞いでうずくまった。
「わたしなんかがいらっしゃって、すみませんっ! 先生、出ましょう。場違いです!!」
「場違いではない。私の妻は一流のものを身につける資格がある。この店は、私の妻のためにあると言っても過言ではない」
「なに言っているんですか? 先生、変ですよ」
灰色の髪をかっちりと後ろで結えた中年マダムが、穏やかな微笑を湛えて近づいてきた。
「これはこれは、ノシュア様。ご来店いただき、誠にありがとうございます。大変にかわいらしいお客様をお連れでございますね。本日はなにをお求めでいらっしゃいますか?」
「この子を……」
「ちょっと待って! 先生って、この店の常連なの?」
中年マダムは、先生の名前を呼んだ。だからといって、親しい関係という雰囲気ではない。中年マダムの丁寧な物腰は、客に対するもの。
わたしの質問に中年マダムは、(お連れ様はなにも知らないのですか?)とでも言いたげな、驚いた目を先生に向けた。
「店長から話してもらえるだろうか? 私が言っても、信じてもらえないだろうから」
「かしこまりました」
マダム店長は目元を和らげた。目尻に優しげな皺が入る。
「当店は、ユガリノスグループ、エレガントファッション部門の直営店でございます。ノシュア様は、ユガリノスグループ会長のご子息でございます」
「えっ……?」
「ユガリノスグループは世界屈指の巨大財閥。多彩な分野で世界をリードしております。ノシュア様は、そのユガリノスグループ会長のご子息であり、相談役に就いておられます。後継者として期待されている御方でございます」
自分のことのように、マダム店長は嬉しそうに話す。けれど、当の本人である先生はそっけなく言い放った。
「後を継ぐ気はない」
「そのようなことをおっしゃらないでください。ノシュア様は全社員の憧れの的。ノシュア様が跡を引き継ぐことを、社員一同願っております。ノシュア様の視界に入ることが、社員のモチベーションになっているのです。わたくしも、そうです。わたくしが店長に就任できたのは、ノシュア様が推薦してくださったおかげ。この御恩は一生忘れません」
「誤解している。あなたは人の心理を読むのに長けているし、時代を読む才能もある。上司とソリが合わないという、それだけの理由で昇進できないのはおかしな話だ。私が推薦したから、店長になったのではない。素晴らしい才能があるから、推薦したのだ。それよりも……」
先生は一呼吸置くと「無粋な格好で来て申し訳ない」と、謝罪した。
「理解しております。隠さないと、女性が寄ってきて大変ですものね」
うふふ、と軽やかに笑ったマダム店長。
(あわわわわわわっ!! どうなっているのっ⁉︎)
新事実に思考が追いつかない。
ユガリノスグループは、学歴と人柄だけでは入社できない。他を圧倒する秀でた才能がないと採用されない。社員になるのは超難関だと噂で聞いたことがある。
陰気で嫌味な先生が、実は、そのエリート社員たちの憧れの的だなんて。生徒たちに嫌われているのに、実は、エリート社員たちの視界に入りたいと思われているだなんて。女性に相手にされない独身男だと思っていたら、実は、女性が寄ってきて大変だなんて。学校では人間関係を築けていないのに、実は、上品なマダムと洒落た大人の会話ができるだなんて。そしてなによりも、嫌味でダサい先生が、実は、世界お金持ちランキングの上位に名を連ねるユガリノス会長の息子だなんて——。
いったい、どうなっているのっ⁉︎
驚きすぎて、開いた口が塞がらない。停止した思考とは反対に情緒が(どういうことだ! なんなんだ! えらいこっちゃ!)と大騒ぎしている。
先生はなにも言えずにいるわたしの背中を押して、店の隅に連れていった。
いつも落ち着いている先生の声が、不安げに揺れている。
「驚かせてすまない。私は教師だ。親のことを話す必要はないし、相談役といっても形式上のことにすぎない。ノアナには、その……お試しとはいえ妻なのだから、隠したままではいけないと思い、明らかにした。だが、態度を変えないでほしい。今までと同じように……」
「そんなの無理だよ……」
声を振り絞る。掠れた、弱々しい声。長いこと口を開けていたせいで、口の中がカラカラに乾いている。
うつむき、照明で光る明るい床に視線を据える。
「わたし、ダメな子だもん。自分でわかっている」
小さい頃から、わたしは劣っていた。おまけに、変だった。多分。
多分というのは、わたしにその自覚がなかったから。普通に話して、普通に笑って、普通に怒って、普通に遊んで。気持ちのままに普通に行動していた。
けれど、周囲の大人や同級生たちは言った。
——ノアナさんは、人の気持ちがわからないのね。どうしてそのようなことを言うの? ここでそのような行動をとるのはおかしいわ。お母さんがね、ノアナちゃんとは遊ばないほうがいいって。どうしてみんなと同じにできないの? それでは集団生活は送れない。君ってなにもできないんだな。バカすぎる。まわりに合わせることを覚えなさい。すげー残念な女。
過去に言われた言葉たちが、頭の中をぐるぐると回っている。
「君はダメな子ではない。出来ないことがたくさんあるだけで、ダメではない」
先生が珍しく慰めの言葉をくれた。その声には焦りが混じっているように聞こえる。
(ラテルナお婆ちゃんのように、お金が一番大切さ! って割り切りたい。強欲になりたい。そしたら、先生が御曹司であることを喜べるのに……。やった、お財布ゲット! 人生の一発逆転。玉の輿。専用シェフ。豪遊生活。やっほい! って浮かれられるのに)
先生がダサくて陰気で嫌味で生徒たちの嫌われ者だったから、ダメな自分と対等だと思った。だから言いたいことを好き勝手に言ってきた。
先生がすごい人だと知った今。怖気付いてしまい、言葉が出てこない。
先生には、大人の綺麗な女性が合うと思う。わたしじゃふさわしくない。
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