第9話 引っ越すことになりました
声を上げて泣いていると、悲しみも怒りも溶けていって、気が晴れてきた。
すっきりした頭に浮かぶのは、ユガリノス先生のこと。
「お父さんからもらった大切なぬいぐるみだから捨てられないって言えばよかったのに、感情的になって追い出しちゃった」
どうやって謝ろう?
居間をぐるぐる歩きながら考えていると、玄関の扉が激しく叩かれた。
「先生が戻ってきてくれたんだ!」
嬉しくなって、すぐさま玄関の扉を開ける。
挨拶もなく無断で入ってきたのは、隣に住むレマー爺さん。
人を睨みつけるようなギョロリ目と、鷲鼻。血色の悪い薄い唇。
いかり肩のレマー爺さんは、脳にキンキンと響く金切り声で怒鳴った。
「おまえは春休みに入った途端、男を連れ込んでギャンギャン騒ぐとは! もう辛抱ならん。騒音罪で訴えてやる!!」
「騒いでいないです!」
「なにぃ、わしの耳がおかしいとでも言うのか! 妻体験がなんちゃらと聞こえたぞ! わしの若い頃は、男女同席ならずといってな。
「いつの時代の話をしているんですか! 古すぎっ。それに、普通の声で話していたのに、なんで妻体験のことを知っているの? まさか、壁に耳を当てて聞いていたんじゃ……」
「おまえさんは親がいないからな。わしが見張ってやらなきゃどうする!」
「そんなこと頼んでないし! やめてください!!」
レマー爺さんは部屋をぐるりを見回すと、せせら笑った。
「ずいぶんと散らかった部屋だ。おまえさんの性格が分かるというものだ。隣の部屋がゴミ部屋かと思うと蕁麻疹が出るわい。迷惑罪で訴えてやろうかのう」
「出て行ってください!!」
「大家の婆さんとの会話をこっそりと聞いていたんじゃが、パトロンができたんだってな」
「はぁ?」
「ほら。財布の相手が見つかったと話していただろう?」
「全然違います」
「嘘はつかんでいい。わしは口が固いからな。正直に話していいんだぞ。お金欲しさに男を作ったんだろう? イヒヒ」
にやけるレマー爺さん。その笑みはいやらしい。
(こんなアパート、もう嫌っ! 引っ越ししたい!!)
部屋から追い出そうにも、レマー爺さんは足を踏ん張って抵抗するものだから、騒ぎばかりが大きくなる。
「出ていってください!!」
「年寄りは大切に扱え! イタタ……。お前さんが押すものだから、体を痛めたわい。痛い。うっ……」
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
「病院に行くから、金をくれ。紙幣五枚でいい」
「最低っ!」
「ノアナは出ていってほしいと言っている。従いなさい」
有無を言わせない、鋭く厳しい口調。レマー爺さんの体がビクンッと痙攣した。
「先生っ!!」
ユガリノス先生が戻ってきてくれた。先生なら、レマー爺さんの難癖に対応できる。言い負かすことができる。
そう思って嬉しくなっていたら、レマー爺さんは一言も発することなく、おとなしく部屋から出ていった。
しつこくてねちっこいレマー爺さんのあっけない退場に、肩透かしを食らう。
「どうしたんだろう?」
「ひどい隣人だ。ところで、ノアナ・シュリミア。この集合アパートを気に入っているか?」
「全然っ!! 古いし、壁が薄いし、お風呂が狭いし、雨漏りはするし、廊下の電気は切れたままだし、大家さんはがめついし、隣のお爺さんは変だし。今すぐに、引っ越ししたい!」
「そうか……。それなら、私の家に来るのはどうだろう? 部屋が余っている」
「どこに住んでいるんですか?」
「東南地区だ」
「東南地区⁉︎ お金持ちが住んでいるという、あの東南地区⁉︎」
わたしが住んでいる北地区は、貧乏人の溜まり場。鳩のフンで汚れているベランダに出ては、東南方向を眺めて、お金持ちになる想像をしていた。
東南地区に住めることに、心が揺れる。けれど、部屋にある大量の物が引っ越しの大変さを突きつける。家にある物すべてを、先生の家に持っていくわけにはいかないだろう。
「ここにあるもの……先生の目にはガラクタに見えると思うけど、どれも両親との思い出があって……」
「だったら、全部持っていけばいい。普段は使っていない別荘だから、物があまり置いていない。だから、ここにある物すべて置ける」
「は? 別荘? え? 別荘? 先生は普段どこに住んでいるの?」
「東南地区にある高層マンションだ。最上階の広いフロアとはいえ、ここにある物全部置くのは厳しい。別荘のほうがいいだろう」
「あー……。先生って、本当にお金持ちなの?」
「心は貧しいがね。どうだ? 今なら森の中にある別荘に引っ越せる。グズグズしているようなら、私は帰る」
「帰っちゃダメ! わたし、引っ越す! 別荘に住んでみたい!!」
「では……」
先生は指をパチンと鳴らした。
その途端──部屋にある物ひとつ残らず、姿を消した。
物がなくなってしまったがらんとした空間に、戸惑う。
「え……っと……物はどこに……?」
「別荘だ」
「えぇっ!! どういうこと⁉︎」
「空間移動の魔法を使ったのだ。私には魔法の才能がある」
「魔法の才能⁉︎ ええっ、じゃあ、先生って魔法使いなの⁉︎ 五万人に一人しかいないという、あの魔法使い⁉︎ ええっ、ええーーーっ!! もしかして、レマー爺さんが帰っていったのも魔法?」
「そうだ」
今日はなんという日だろう。ユガリノス先生と一年間も一緒にいたのに、お金持ちであることも、魔法使いであることも知らなかった。
興奮を隠すことができずに鼻息を荒くするわたしに、先生は皮肉的に唇を歪ませた。
「それよりも、ずいぶんと埃を溜め込んだものだ。掃除をしよう」
「やだぁ。面倒くさーい」
「掃除のどこが面倒くさいのだ? ピカピカに磨くことに喜びを感じるだろう?」
「全然。まさか、先生は掃除に喜びを感じるとか?」
「まさか、君は掃除に喜びを感じないとか?」
わたしとユガリノス先生は顔を見合わせると、互いに理解できないとばかりに肩をすくめた。
「先生って変な人ですね」
「君に言われたくはない」
先生が指をパチンと鳴らすと、なにもない空間から掃除道具を出した。指パチンが、魔法を発動する合図らしい。
「先生。お掃除、頑張ってくださいね」
「なにを言っているんだ。君も掃除をするんだ」
「ええーっ。萎える」
「どういうことだ? なぜ、掃除に萎える? 説明を求める」
先生は、嫌味で陰湿でダサくて堅物で神経質で潔癖症で口うるさい。そこに、金持ちと魔法使いと掃除好きとゴキブリ嫌いという項目が加わった。
無理矢理に雑巾をもたされ、仕方なしに床の雑巾がけをする。
「ノアナ・シュリミア! 真ん中だけ拭くな。隅まできっちりと拭きなさい!」
「埃があっても死なないしぃ」
「気管支と肺にはダメージがある。……はぁ。君は適当人間すぎる。妻体験の指導以前に、まずはその適当な性格から直さねば。君が真面目な性格なら、ガミガミ言わなくて済むのだが」
「お言葉を返すようですけどねぇ。先生がいい加減な人間だったら、わたしだってガミガミ言わなくて済むんですけども」
わたしと先生は顔を見合わせると、二人同時に残念なため息をついた。
「無理だよね。先生と書いて、神経質で嫌味で口うるさいって読むもん」
「こちらも言わせてもらうが、ノアナ・シュリミアと書いて、怠惰でおバカな生徒と読む」
「勝手にそんなふうに読まないで!」
「それは私のセリフだ」
わたしは先生の目を盗んでちょくちょく外に行っては休み、先生は真面目に掃除をした。
三時間かけ、ようやく家中を磨きあげることができた。
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