第8話 両親を忘れたくない

 先生に家賃を出してくれたお礼を述べ、家に招き入れた。

 居間に入った瞬間、先生の眉間に皺が寄った。不機嫌顔が濃くなる。


「君の母親が亡くなって四ヶ月になると思うのだが……。遺産整理はしているのかね?」

「全然していません。わたし、物を捨てられないタイプなんで」


 物が多いうえに、散らかり放題の我が家。

 母が生きていた頃は、わたしも片付けを頑張っていた。けれど、今はひとり。お菓子を食べた袋を置きっぱなしにしても、怒る人はいない。

 ソファーの上に置いていたケーキの空き箱をゴミ入れに捨てる。

 

「どうぞ座ってください」

「ノアナ・シュリミア。確認したいのだが、今捨てたケーキの箱は、私が買ってあげたケーキ屋のものだろうか?」

「そうです」

「ケーキを買ったのは一昨日なのに、なぜ箱を捨てていない?」

「なにかに使えるかなと思って。でも、特になにに使う当てもないので、もったいないけれど捨てました」

「もうひとつ確認したい。流し台に、皿が山積みになっていたのだが……。パーティーでもしたのか?」

「いいえ。面倒くさくて、洗っていないだけですけど?」


 先生は、まるで世界が終わるかのような悲壮な声を出した。


「なぜ、すぐに洗わないのだ! 不衛生だ!!」

「そうですかぁ? 棚に皿があるうちは、洗わなくてもいいんじゃないですか?」

「洗い物のどこが面倒くさいのか、理由を聞かせてくれないか?」

「逆に聞きますけれど、皿洗いの好きな人ってこの世に存在します?」

「いる。私だ」

「へぇ。先生って変わってるぅ」


 茶化すように「ヒュー♪」と口笛を吹くと、先生は盛大なため息をついた。


「皿洗いができない。片付けもできない。洗濯物が床に置きっぱなし。靴下は脱ぎっぱなし。お菓子の空袋を捨てていない。昼なのにパジャマのまま。これで、妻体験ができるのか?」

「むふー! 先生なんて、家に上げるんじゃなかった! 家賃を出してくれたから、いい人なのかもって見直してあげたのにぃ! やっぱりすっごく嫌な人。大嫌いっ!!」

「むふー、とはどういう意味だ?」

「教えてあげない!!」


 腕組みをし、頬をふくらませて「ぷんっ!」と顔を背ける。

 片付けられないわたしが、きっと悪い。わかっている。頭では、わかっている。けれど、怒りの感情が収まらない。


「どうせわたしは、料理も片付けもお掃除も裁縫も下手ですよーだ! 家庭科の先生から、こんなにも家事センスのない人を初めて見たって言われましたよーだ! 妻体験、やっぱりやめる。ブラック企業で実習する!」


 涙がじわっと浮かんでくる。感情と涙が直結していて、嫌になってしまう。

 先生はわたしを見つめたまま、小さなこどもに言い聞かせるかのようにゆっくりと話しだした。


「ノアナ。君は勘違いをしている。職業体験実習は、優れた人間のためにあるのではない。君のように、自分の才能がわからない者。新しい環境に馴染むのが遅い者。社会に出るのが怖い者。人間関係につまずきやすい者。そういった不安を抱えている生徒が、一歩を踏み出しやすいように設定されている。実習先もそのことを理解しており、失敗を受け入れる器ができている。失敗していい。できなくてもいい。ゆっくりでいい。まずは、体験すること。体験するうちに、変化が表れてくる。その変化の芽を良い方向に持っていくことが、大人の役目だ。だから、体験することを恐れなくていい。妻体験で失敗しても怒ることはしない」

「ふわぁ〜ん!!」


 家事の苦手なわたしでもいい。そのままを許すよ——。


 そう言ってもらえているようで、涙が止まらない。

 嗚咽をあげるわたしの頭を、先生がポンポンっと軽く叩いた。


「片付けができないのは、物が多すぎるからだ。まずは、必要なものと必要でないものを分けるところから始めたほうがいい。といっても、必要だと思える物が多いだろうが。そういった場合は第三者と、使用頻度や希少性、代替えのきくものなのか、話してみるといいだろう。手放す勇気が育つ。──妻体験実習というのは、なにも、君が一方的に家事を頑張るものではない。実習相手である私が指導することに意味がある」

「先生……ありがとうございます。わたし、妻体験頑張ります。よろしくご指導お願いします……」


 意地悪だと思っていた先生の、思いがけない優しさ。劣等感が吹き飛んで、勇気と自信がでてくる。

 涙目で「えへへ」と笑うと、先生はなぜか顔を逸らした。


「げ、元気がでたようでなにより。だが、まぁ、不器用で要領の悪い君のことだから、指導には苦労がつきまとうだろう。胃薬の準備をしておいたほうがいいかもしれんな」

「なんで嫌味を言うの! ぷんっ!! ……先生、顔が赤いですよ? 照れてます?」

「照れているのではない。君がえへへと笑ったとき、鼻の穴がふくらんだのが面白くてな」

「ピキキ……わたしを怒らせるのがうまいですねぇ!」


 ユガリノス先生は、良い人なのか嫌な人なのか。優しいのか意地悪なのか。わからない。

 突然、先生の顔が強張った。耳を澄ませている。


「台所からカサカサという音がする。まさか……ゴキブリがいるのではないよな?」

「ああ、ゴキブリね。いますよ。でも大丈夫です。ゴキブリ叩きは得意なんで」


 先生を安心させるために、テーブルを力強く叩いてみせた。それなのに先生は、唸って天井を仰いだ。


「ゴキブリを叩く……潔癖症の私には無理だ……。君は勇ましいのだな。妻として、その点は評価しよう。プラス二十点だ」

「ありがとうございます!」


 早速の高評価に嬉しくなる。はしゃいでいると、先生の頬がほんの少し緩んだ。

 わたしと先生の間に穏やかな空気が流れる。

 わたしたちは、いい形で歩み寄ることができる。そんな気がした、十分後——。




「先生なんて大っ嫌い! 帰って!!」


 先生をポカポカ叩き、家から追い出してしまった。

 

 事の始まりは、片付けの指導。

 部屋を見回した先生は、うさぎのぬいぐるみに目をとめると、「随分と汚いぬいぐるみだ。耳が半分とれているぞ。捨ててもいいんじゃないか」とわたしの心を踏みにじる発言をしたのだ。


 先生を追い出してひとりになった部屋で、半分とれた耳から綿のでているぬいぐるみを抱きしめる。

 遠方の町に薬草を届けに行った父が、ピンク色のうさぎのぬいぐるみをお土産に買ってきてくれた。ピンクはわたしの髪色。

 父は言った。「このうさぎ、ノアナみたいだと思ってな。色もつぶらな目も、ノアナそっくりだ」そのときの父の笑顔をまだ覚えている。


「お父さんからもらった大切なぬいぐるみだもん。絶対に捨てられないよっ! 先生のバカ。無神経!!」

 

 わたしが十歳のとき。父は薬草を採りに山奥に入って、崖から落ち、死んだ。

 父が大好きという想いは薄れることがない。けれど、記憶は薄れていく。

 両親を忘れるのが怖くて、わたしは物を捨てることができない。


「お父さん、お母さん。大好きだよ。会いたいよ。寂しいよ……」


 胸が切り裂かれてしまったかのように痛くて、わたしはわんわんと泣いた。


 

 




 

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