第7話 最高Aランクの男とFランクの女
春休みであるにも関わらず、ユガリノス先生は相変わらずの全身黒尽くめ。
黒シャツに黒スラックス。黒革の腕時計。黒い革靴。黒い鞄。モジャモジャの黒髪。黒縁眼鏡。
オシャレ心も季節感もまったく感じられない。この人は暗黒の呪いにかかっているのでは、と疑ってしまう。
「先生、どうしてここに?」
「逆に問うが、君はなぜ家にいる? 待ち合わせの時間を大幅に過ぎているが?」
「ギクっ! え、ええと、お、お腹が痛くて、起き上がれなくて、イタタ……」
ラテルナお婆ちゃんは八十歳を超えているのに、記憶力が衰えていないらしい。「さっきは、悪い風邪を引いたと言ってなかったかね?」と的確なツッコミを入れてきた。
右手はお腹に、左手は口元を押さえる。
「腹痛と風邪のダブルパンチです。ゴホンっ!」
「さっきまで元気よく話していたじゃないか。本当は寝坊したんじゃないのかい? その場しのぎの嘘をついて、情けないったらありゃしないよ。天国の両親が泣いているだろうよ」
ラテルナお婆ちゃんは意地悪そうに、ふふんっと鼻で笑った。
風邪を引いていないし、お腹も痛くない。嘘をついたわたしが悪い。
だけど、両親の話は持ち出してほしくなかった。父はわたしを溺愛してくれて、「ノアナは、なんでこんなにかわいいんだろう。天職は天使かもしれないぞ」と頭を撫でてくれたし、母は「病気になってごめんね。ノアナを置いていくことがつらい。あなたを大切にしてくれる人と幸せになってね。愛しているわ」と、亡くなるその日までわたしの幸せを祈ってくれた。
両親はきっと、空の上から見守ってくれている。それなのに、両親の期待に応えられていないことが、つらくて、悲しい。
わたしは勉強も運動もできない。リーダーシップもないし、協調性もない。秀でたものがなにもない。周囲からは、「悩みがなくて脳天気でいいね」と言われるけれど、わたしにだって劣等感はある。
視界がじわっと滲む。
「おまえのお父さんとお母さんは立派な人でねぇ。働き者だったよ。なのにおまえさんときたら、パジャマのままダラダラと……」
「大家さん。私が代わりに家賃を払います」
なおも両親の話を続けるラテルナお婆ちゃんを、先生が遮った。
先生は四角い黒鞄から小切手帳と万年筆を取り出すと、迷いのない手でサラサラと小切手帳に記入した。
「今月分の家賃と、猫を飼っている違反金を含んだ金額です。大家さん。あなたは実に聡明で素晴らしい女性だ。ノアナが悲しい思いをしないよう、気を配ってくださる。この先もノアナが住みやすいよう、配慮してくださることを期待しています。大家があなたで本当に良かった。これからもよろしくお願いします」
小切手を受け取ったラテルナお婆ちゃんは、黄色みがかった目で用紙をジッと見つめた。ラテルナお婆ちゃんの喉からゴクリと生唾を飲む音が聞こえた。
「あの、猫を飼っている違反金って……。わたし、猫なんか……」
「ノアナ、ちょっと来な」
「え、でも、猫って……」
「いいから! 女だけの緊急会議をするよ!!」
ラテルナお婆ちゃんに理矢理に腕を引っ張られ、ホコリの塊があちこちに転がっている廊下の端に連れていかれる。
ラテルナお婆ちゃんはわたしの肩に皺々の手を置いた。
「あの男は、おまえさんの担任の先生なのかい?」
「はい。ものすごく嫌ですけれど」
「嫌? どうしてだい?」
嫌味で、陰湿で、口うるさくて、ダサくて……。と悪口を連ねていると、ラテルナお婆ちゃんはうんざりしたように頭を横に振った。
「あんたって子は、なんにもわかっていないねぇ。目に見える物事がすべてじゃないんだよ。目に見るものの奥には、目に見えないものがある。その目に見えないものこそが本質なんだ。あの男は、最高Aランクの男だ」
「うっそだぁ!」
「あたしの天職を教えてやろう。お見合い仲介人さ。あたしの目利きによって、一億組の夫婦が誕生した。離婚率は三パーセント。その実績から、あたしはお見合いの神と呼ばれた。そのあたしが言うんだから間違いない。あの先生は、最高Aランクの男。そして、おまえさんはかわいい顔をしているが、家事能力が壊滅的。よって、Fランク。だが、おまえさんたちは欠けているものを補い合うことのできる相性の良さがある」
「ぷぷっ! 最高Aランクってウケる! 冗談はやめてくださいよぉ」
「あんたって子は、男を見る目がないねぇ。あの男は人を遠ざけるために、あえて野暮ったい格好をしているのさ。モジャ髪も天然ではない。わざとへんちくりんなパーマをかけている。素性を隠さないといけない理由があるのだろう」
「スパイですか?」
「いや、金持ちのにおいがする。それにイケメンだ」
「あははーっ! 笑えるぅー!!」
ユガリノス先生が金持ち? イケメン?
とびきりの冗談に、わたしは爆笑した。けれど、ラテルナお婆ちゃんは真面目くさった表情を崩すことなく、わたしの顔の前で小切手をぴらぴらと振った。
「ゼロが六個ついている。これを金持ちと言わずに、なんと言う?」
「ええーっ!! 先生、頭が変になっちゃったのかな⁉︎ 数学の先生なのに数が読めないなんて。返しましょう!」
「やだね。これはあたしのものだ」
「だって、猫を飼っていないのに!」
ラテルナお婆ちゃんは小切手をエプロンのポケットにしまうと、唐突に空を眺めた。
集合アパートの廊下は外に面している。
「その辺にいる野良猫。おまえさんの飼い猫だよな?」
「違います」
「餌をあげていただろう?」
「そうだけど……。家に入れたことは一度もないです」
「餌をあげたら、もうおまえさんの猫だ」
なんという強引さ。
だが、ラテルナお婆ちゃんの強欲さはとどまるところを知らない。
「ノアナ、あの先生と結婚しろ! そして、ここに住むんだ。腕利きのコックを雇ってもらえ。あたしが毎日食べに行ってやるよ。それと、アパートの改築費用を出すよう、お願いしてくれないか。あと慰安旅行。タダで海外旅行がしたいねぇ」
「お金の亡者すぎないですか?」
「そうさ! あたしはお金が大好きさ。お金の亡者でなにが悪い。お金があれば大概のことができる。ノアナ、あの先生の財布を射止めるんだっ!」
ラテルナお婆ちゃんは、「その場しのぎの嘘をついて、情けないったらありゃしないよ」とわたしを責めた。「目に見えないものこそが本質」とも言った。なのに、目に見えるお金の信者になるなんて!
(大人って、自分のことを棚に上げて平気で説教をするんだから。大人ってズルイ!)
どんなにお金に困っても、ラテルナお婆ちゃんのように欲深い人間にならないようにしようと、わたしは固く心に誓った。
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