第6話 ブラック職場への出社を拒否します

 今日から春休み。

 わたしは料理の本を買って、先生のお家を訪ねた。今日から一ヶ月、ユガリノス先生の妻体験をしちゃうぞ。

 まずは美味しいお料理を作って、先生の胃袋を掴んだよ。それから、お掃除。洗濯。草むしり。うん、完璧! 先生がお疲れなのを感じ取って、肩たたきをしたよ。夫の体調管理も妻のお仕事ですものね。

 先生はとっても喜んでくれた。妻体験から本物の妻へと昇進しちゃう?

 



「なんてこと、あるわけがないっ!! 恐ろしい想像をしてしまった。ブルブルっ!!」


 春休み初日。お布団の中から手を伸ばして、昨日ユガリノス先生からもらったメモ紙を開く。


『西公園の時計台の下。午前十時』


 公園で待ち合わせをして、それから先生の家に行く約束をした。

 それなのに、時計の針は十一時を指している。完全なる遅刻。

 昨夜は音楽を聴くのに夢中になって、寝たのが三時だった。


「うー、寝坊してしまった。先生、絶対に怒っている。行きたくない。はぁ……先生の妻体験なんて、したくないよ。ルーチェが言っていたように、人差し指で埃の確認をされて、ネチネチと嫌味を言われるのかな……」


 窓から差し込む太陽の日差しはポカポカとしていて気持ちが良い。ベッドから抜け出せずに、怠惰をむさぼる。


「きーめた! ブラック職場への出社を拒否する。行かなーい!!」


 まるで宣言した声が聞こえたかのように、玄関の扉が激しく叩かれた。


「ノアナ、いるんだろう! さっさと出てきな!!」

「このダミ声は……ラテルナお婆ちゃんっ!」


 飛び跳ねるように起きて、玄関横にある小窓から外の様子を伺う。

 日の差さない薄暗い廊下に立っているのは、案の定、大家のラテルナお婆ちゃん。


「家賃の催促だ。どうしよう!」


 母はある程度の財産を残してくれた。本当だったら、その財産で家賃を払っていく予定だった。

 けれど母が亡くなった際、思い切って、見晴らしの良い丘の上にお墓を移した。

 仲の良かった両親が、四季折々の花に囲まれた丘の上で安らかに眠れるように。そう、祈りを込めて——。

 しかし墓を新しくした三ヶ月後に、大嵐で墓石が倒れて角が割れた。その修復にまたお金がかかってしまった。

 つまり、母が残してくれた財産のほとんどを使ってしまったのだ!!


「ノアナ! そこにいるんだろう。わかっているよ。さっさと開けな!」


 ラテルナお婆ちゃんの不機嫌なダミ声が響き、またもや玄関扉が強く叩かれた。

 こうなったら、最終奥義──。


「居留守を使っちゃおう!」


 わたしはオンボロ集合アパートに住んでいる。壁が薄いせいで、音が周囲にダダ漏れ。

 ラテルナお婆ちゃんが諦めることなくわたしの名を呼び、ドアを叩き続けるものだから、隣室のレマー爺さんを怒らせてしまった。

 隣との壁がドスンドスンっと、激しく鳴る。この重い音、レマー爺さんが足蹴りをしているに違いない。


「うっさいぞ、小娘! さっさと出ろ!!」

「壁が壊れちゃう! やめて!!」

「だったらさっさと出んかっ!!」


 わたしたちのやりとりが、ラテルナお婆ちゃんの耳に入ってしまったらしい。


「あぁ? その声は、ノアナかい?」

「ち、ちち、ちがいますっ!!」

「じゃあ、あんたは誰だい?」

「にゃ、にゃあ〜ご?」

「猫を飼っているのかいっ⁉︎ ペット禁止のアパートなのに、規則を破るとはいい度胸だ。罰金を払いたいようだねぇ!!」

「違いますっ! 猫真似をしたノアナです!!」


 最終奥義破れたり──。

 仕方なく、玄関の鍵を開ける。

 扉を半分ほど開けると、ラテルナお婆ちゃんのしわくちゃの手が戸にかかって、玄関を全開にした。

 昼でも暗い廊下に立っているのは、杖をついたラテルナお婆ちゃん。小柄だが、頑固な顔をしているため迫力がある。


「大家さん、おはようございます」

「なにがおはようだ! もう昼間だ!! ……って、あんたパジャマじゃないか。今まで寝ていたのかい? やだねぇ。みっともないったらありゃしないよ。最近の若い者はだらしがないねぇ。あたしの若い頃は太陽と共に起床し、身だしなみを整え、客人には手厚くもてなしたもんだ。あー、大声出したら喉が渇いたよ。茶を出しとくれ。この前、湯呑みに茶渋がついていたからね。自前でコップを持ってきたよ。それと、そろそろ昼食の時間だ。一緒にお昼を食べようじゃないか。美味しいものが食べたいねぇ。なにを出してくれるんだい?」


 ラテルナお婆ちゃんは、ドケチの達人。集合アパートの各部屋を回っては、食事を催促し、食費を浮かせている。

 茶を出すとも昼食を出すとも言っていないのに、強欲に話を進めてくるラテルナお婆ちゃんに、わたしは引きつった愛想笑いを返しつつ、さりげなくドアノブに手をかける。


「ゴホンっ! 悪い風邪を引いたので、寝ていたんです。ゴホンゴホンっ! 移ると悪いので、これで失礼します。さようなら!!」


 扉を完全に閉めるより早く、ラテルナお婆ちゃんが足を挟んだ。頑丈な木靴に阻まれて、扉を閉められない。

 ラテルナお婆ちゃんは、悪魔みたいにニヤぁっと口角を上げた。


「あんたみたいなツヤツヤした顔の病人がいるもんか! あたしを騙そうたって、そうはいかないよ!! 今すぐに家賃を払うか、それとも高級店のランチをテイクアウトしてくるか。どっちか選びな!」

「わたしの手作り料理を……」

「断固拒否する! この前、あんたの料理を食べてひどい目にあったからね。トイレに閉じこもったよ。もういい、今月分の家賃を払いなっ!」

「あ、あのですね。新学期っていろいろとお金がかかるんです。なので、ちょっとだけ待ってほしいんです」

「学校と家賃と、どっちが大事なんだい!」

「もちろん、がっこ……」

「家賃が大事ってもんだ! よくわかっているじゃないか。だったら今すぐに払いな! 五分だけ待ってやる。五分過ぎたら、家賃を三倍にするよっ!」

「きゃあーーっ!!」

 

 すぐさま家の中に引っ込むと、台所の棚からクッキーの絵がプリントされた丸缶を出す。缶の蓋を開け、お札を三枚取り出す。

 丸缶の中に残っているお金は、紙幣が十二枚と硬貨が三十枚。これがわたしの全財産。


「お金がない。どうしよう。やっぱり、学校を辞めて働くしかないのかな……」


 残金が厳しい現実を突きつけてくる。

 父親の両親は亡くなっていて、母親の両親は貧乏。親戚は当てにならない。

 ユガリノス先生は学費を出してくれると言ったけれど……、さすがに生活費もくださいとは言えない。

 重い足取りで玄関に戻ると、ボソボソとした話し声が聞こえてきた。うす暗い廊下に、死神コスプレ男が立っている。


「ユガリノス先生……、どうしてここに?」


 

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